第102話 よくも、わたくしの家族を
ニナにとって“昔”のこと。
「はっ!?」
嫌な予感に目を覚ましたニナは、大切なウサギのぬいぐるみを手に部屋を出る。
そこは“不死のエナリア”第20層、通称『最後の間』。エナリアの主として探索者たちを迎え入れるために建てられた大きなお屋敷だ。
身体の特異性からエナリアでしか生活できず、ニナにとって唯一とも言える居場所。家族との温かな思い出が詰まった我が家の階段の踊り場で。
「おとう、さま……?」
ニナは絨毯を赤黒く染める父親を見つけた。
「お父さま? どうなされたのですか……!?」
ピクリとも動かない父・ハクバの身体を、何度も揺するニナ。だが、やはり父が目を覚ますことは無い。物心ついた時からガルンの文化に親しみ、多くの死を目の当たりにしてきたニナは、すぐに察した。
(そう……。死んで……殺されてしまわれたのですわね、お父さま……っ)
エナリアの政務に奔走しながらも、時間を見つけてはニナに会いに来てくれた。時にはリーゼに代わって戦闘の相手をしてくれたり、自身は眠る必要はないのに添い寝をしてくれたりもした。
そんな優しい父は、弱かった。ニナの記憶には、身長100㎝にもならない自分の拳や蹴りを受けてうずくまる弱々しい父の姿しかない。
しかし、だからこそ弱者の気持ちがよく理解できたのだろう。自身のエナリアに行き場を失ったガルン人たちを迎え入れ、生活するための場所を与えていた。どれだけ他の家の人々に諫められようとも、父がガルンでは異端な優しさを捨てることは無かった。
(だから、殺されてしまわれたのですわね……)
物言わぬ亡骸となった父を前に、力なき優しさの無力を噛みしめるニナ。
ニナが生まれるよりもさらに前。父は辺境の村で生まれたただの人間族だったという。特殊能力もなく、別段、身体能力が高いわけでもない。そんな人間族がガルンでどのような扱いを受けているのかなど、想像するまでもない。
そのため人間族は強者たちに見つからないよう、ひっそりと生きていたらしい。
そんな中にあって、ニナの父は好奇心が警戒心を上回ってしまうような人物だった。
時折、村の外に出ては未知のものに触れていたという。当然、ガルン人に見つかって悪態をつかれたり、暴力を受けたりしたこともあるそうだ。奴隷として捕まらなかったことは幸運だったと笑っていた父に、何度ニナはハラハラさせられたことだろう。
だが、そんな父の好奇心と人柄が幸いしたのだろう。徐々に人脈は広がり、知識も蓄えられていった。
そんな村にある日、強大な魔獣がやって来たらしい。『貪食蛙』。アイヘルム各地を転々と移動しては、その地に住まう生き物を根こそぎ食らいつくす。そんな厄介な魔獣だったそうだ。
その巨大な蛙を、酒と毒を使って殺したのが父だったらしい。
きっと、ゲイルベルなどの強いガルン人が討伐に向かえば簡単に殺されていた魔獣だろう。
だが重要なのは、最弱の人間族“ごとき”が誰よりも早く面倒な魔獣を殺したということだった。力が偏重されるガルンに、そういう人物がいても面白いかもしれない。そう考えたらしいゲイルベルが『ルードナム』――勇敢なる者――の家名を与えて召し上げたのがニナの父、ハクバ・ルードナムだ。
そして、ハクバの才能を活かす場所として与えられたのが、“不死のエナリア”と呼ばれるこのエナリアだった。
しかし、最弱の人間族がエナリアの経営を行なうという“栄誉”を得たことに反感を覚えるものは多かったらしい。父は弱く、いつ政敵に殺されてもおかしくない状況であることは、ニナも子供ながらに察していた。心の準備はしていたはずだった。
(はず、だった……のですがぁ……っ!)
どうしても、あふれる涙を堪えることはできなかった。
ただし、父が死んでしまった以上、ルードナム家の現当主はニナということになる。この家に住まう人々の生活を守る責任が、いまこの時からニナの両肩にのしかかってきたのだ。
「ぐすっ……ずずずーーーっ!」
流れる涙と鼻水は袖口で拭ったニナは、手に持っていたぬいぐるみを父の亡骸に乗せる。ニナにとってぬいぐるみは母の代わりだ。たとえもう手遅れだとしても、父が少しでも大好きな母を近くに感じられるようにしてあげたかった。
「どうか、安らかに。お父さま……」
そのままニナがしめやかに父との別れを惜しむ時間すら、“敵”は与えてくれなかった。
「ニナちゃん! 逃げて!」
階段に続く廊下の先から少女――ルゥ・ティ・レア・レッセナムの声が聞こえた。彼女はレッセナム家から遣わされている見習い使用人だ。お互いに子供ということもあって、ニナとルゥは物心ついた時から常に一緒にいる。気立て良くニナの身の回りの世話を焼いてくれるルゥは、ニナにとってもはや義理の姉のような存在だった。
そんな義姉からの呼びかけに、ニナがハッと振り返る。そこにはもう、得物である小刀をニナに向けて振り下ろす蜥蜴人族の姿があった。
「起きていたのは想定外だったが――死ね」
低い男声の声と共に、ニナの頭部に振り下ろされる鋭利な刃。だが、その刃がニナの皮膚を引き裂くことは無い。ガチンと鈍い音がして、刃はニナの髪の毛を数本切っただけで止まってしまった。
「…………。……は?」
刺客と思われる男の喉から、理解不能の声が漏れる。鱗もないただの人間族の子供が、手も使わずに凶刃を受け止めるなど思ってもみなかったのだろう。
「――やぁっ」
ニナの反撃の声が聞こえた次の瞬間にはパァンと乾いた音が屋敷に響き渡る。ニナの回し蹴りが、男の頭部を蹴り砕いたのだ。
『“敵”は徹底的に殺せ』
ニナの育ての母・リーゼによる、戦闘訓練と危機管理の教えのたまものだと言えた。
「ニナちゃん!」
小さな影が飛び込んでくる。
「大丈夫!? ねぇ大丈夫!?」
そう言って涙目でニナの顔を覗き込んでくるルゥ。
「は、はいっ! ルゥさんこそ! よくぞご無事で!」
大切な義姉の無事が確認できて、ニナとしては一安心だ。だが同時にルードナム家現当主として、状況を把握しなければならない。
とりあえず父を恨んでいた誰かが刺客を送り込んできたのだろうことは分かる。ただし、それ以上のことはなにも分かっていない状態だ。刺客はまだ居るのか。使用人たちは無事なのか。無事だとして、まずは彼女たちと合流して一緒に逃げなければならない。
当主として懸命に頭を働かせるニナ。警戒を強めながらルゥを抱く腕に力を込めた彼女の唇に、ふと。
「ちゅっ……」
柔らかな感触があった。
「……んぅ!?」
すぐ近くにあるルゥの顔。ニナの口内で暴れる、ルゥの舌。その驚きで飲み込んでしまった、小さな錠剤。ニナの喉がコクンと鳴ったことを確認して、ルゥはゆっくりと顔を離した。
刹那の間、2人の口の間に透明な橋が架かって、消える。
「――っ!?」
変化は、一瞬だった。急にニナの全身から力が抜けていく。肺が言うことを聞かなくなり、呼吸すらもままならない。
「ぁ、ぅ、が……っ!」
空気を求めてどれだけ喘いでも、肺は言うことを聞いてくれない。
父の亡骸のすぐ横で、身体を暴れさせるニナ。だが抵抗虚しく、次第に口からは泡が漏れ始め、瞳孔も開き切ったまま戻らなくなる。
ぼやける視界。遠のく意識の中、
「ごめん……。ごめんね、ニナちゃん……っ」
悲痛な声で何度もニナに謝るルゥの声が聞こえる。
(そう、でしたのね。ルゥさん……)
死を前に、なぜか冷静になったニナの脳は全てを悟った。
弱い父を守っていた2人の母。彼女たちが居なくこの日を知っている。身体は頑丈な一方で、ニナに毒が効くことを知っている。刺客の言葉から察するに、“敵”はニナが眠る時間も知っていたらしい。
それらの情報を掴んで送り込んだ刺客がヘマをしても、“こうして”次善策を打つことができる。
何より、ニナが完全に心を許している。
リーゼが居ない今、それらすべての条件を満たす人物は、もはや1人しか居なかった。
「ごめんね……。でも、もう痛いのは、イヤなの……。だから……、だから……っ!」
倒れ伏すニナの目の前に膝をつき、何度も、何度も、謝罪の言葉を口にするルゥ。顔を手で覆う彼女の指の間に光っているのは、涙だろうか。
ルゥとも長い付き合いだ。彼女が“何か”を抱えていたことは、ニナは分かっていたつもりだった。だが、彼女がこうして涙しながらも事に及ばなければならないほど追い詰められていたことは、ニナも知らなかった。
レッセナム家は、治療の専門家だ。人の身体を熟知しており、何をどうすれば治るのか。逆にどこをどうすれば痛めつけることができるのかも、よく知っていることだろう。ましてや家系として持つ治療の力を使えば、我が子を痛めつけた証拠も消し去ることができる。
ただ1つ、心に残る傷だけを残して。
確かにルゥは、ニナにこうして毒を盛った。だが、たとえば刺客に殺されそうになった時に注意を促してしまったり、今もこうして聞こえているかも怪しいニナに謝罪をしたり。些細なことだが、ルゥがニナのことを想ってくれていたことだけは真実のようだ。
(そんな心優しいルゥさんを……。よくも、わたくしの家族を……!)
これまで親バカな両親や使用人たちから愛情たっぷり、大切に育てられてきたニナ。だからこそ、生まれて初めて湧き上がった激情への向き合い方が分からなかった。
父を殺し、自分を殺そうとして、義姉を泣かせる“敵”――レッセナム家。
地位も名誉もなく、それでいて力だけはある子供でしかなかったニナ。家族を傷つけた敵に対して、彼女が選ぶことができた選択肢は、良くも悪くも1つしかなかった。