玖話 宮繰姫・前編
ナハトは遠野家で一人静かにしていた。
両手に浮かび上がる魔力の塊が少しずつ大きくなっていく。
普段、打ち出している膨大な魔力を凝縮させた塊――アルテマよりも大きい。
(まだじゃ。まだこんなものではこの結界とやらは破れん)
少しずつ巨大化させては結界に触れそうになるとそれの圧縮作業をする。
地道にだがかなりの魔力が籠ったアルテマが出来上がっていく。
結界は壁ではない。力を加え続ければいずれ破れるものではない。
だとすれば今吐き出して失敗すれば同じことを繰り返す羽目になる。
それを理解したナハトは目を閉じて集中し続けていた。
大名屋敷の中の一番奥の一段と天井の高い客間にて、誰かが幼い声で虚空に声を発した。
「禍、始めなさい」
そう合図をすると圧迫感のある気配が消えた。
その瞬間、町で大きな爆発音と共に人々を恐れさせる雄たけびが木霊した。
「さあ、栖雲。こっちは待ちに待ったのよ。早く来てちょうだい」
客間に期待と寂しさを混ぜたような声が虚しく響いた。
町に現れた三体の巨大な異形達が建物を破壊しながら動き回っている。
泥で塗れた液状の異形と四つん這いで舌を振り回しながら移動する醜悪な男の容姿をした男と背中に一本の突起物を伸ばした電気を発する巨大鰻が暴れまわっていた。
どの異形も建物よりも巨体で、身動ぎするだけでも建物を倒壊させる。
町民は悲鳴を上げて逃げ惑い、藩の兵士達は武器を手にしながら避難誘導や戦いを始めた。
避難誘導している兵士の中に一人、「こっちだよ!早く逃げな!」お豊代も混じって威勢よく声をかけて誘導していた。
「オオオオオオオッ!!」
「あ、あの…」「それ以上は…」「勘弁…して…」
音もなく近づいてきた三人の男が舌を伸ばして町民を追撃しようとした異形の舌と足と首を落とした。
その三人の男は全くの瓜二つで容姿に差異はない。
成人男性より少し背は低く、切れ長だが幼さの残る目。片目を前髪で隠し、他は後ろ手に縛っている。中には鎖帷子。忍者装束を来ているが、下は短パンにぴっちりとして足のラインが見える股引。
そして首には地面につきそうなほど長く、先端が燃えてボロボロになっている襟巻を巻いていた。
火狩陣――幕府お抱えの御庭番筆頭。
攻撃を仕掛けたのはその分身だった。
他の異形に対しても何人もの分身が小太刀や忍術を使って、圧倒している。
「火遁――」「風遁――」
二体の分身が空高く跳ね上がり、印を結ぶ。
泥の異形は幾つもの触手を伸ばして撃ち落そうとするが、それよりも早く分身が術を放った。
「大炎浄」「回風沙」
泥が強風で徐々に分離していき、その泥が炎によって蒸発して砂に変わり、風に乗って消えていく。
泥の異形はみるみるうちに小さくなっていき、最終的には消失した。
火狩の分身達は兵士達では太刀打ちできなかった異形達を圧倒していく。
「ギイイイイィッ!!」
電気鰻が苦しみながら広範囲に放電する。
倒壊している建物は一瞬にして燃え、灰となって消し飛ぶ。
周囲にいた火狩の分身も体がバラバラとなって消える。
「大丈夫か?」
「あっ、はひ!すいません!今、すぐ殺ります!」
廻縁から様子を見ていた横に厳格な顔をし、伸びた大きな髭を生やした老齢の藩主が天井裏で待機している火狩に分身が消し飛ばされたことを心配して声をかけた。
火狩は怒鳴られたかのような反応を示し、全力で焦りながら天井裏をガタガタと揺らした。
その様子に一縷の汗を額から流し、「頼んだぞ」と再び城の外へと目を向けた。
すうと障子を開く音が聞こえる。
栖雲が服をふわりと揺らして、入室してきた。
その正面には黒地に青白く水面を打った時の波紋をイメージした文様の着物に身を包み、額を出して中心から横に流し、先の方がウェーブしてインナーカラーが青色の髪型の十三歳くらいの少女が座布団の上で足を崩して座っていた。
その横には四つん這いでだらしなく口を開いて涎を垂らし、目の焦点が合っていない、この町の大名の変わり果てた姿があった。
少女は栖雲の姿を認識するとばっと立ち上がって駆け寄ろうとする。
「栖雲ー!会いたかったわー!」
親に駆け寄る無邪気な子供のように駆けるその少女に栖雲は手を伸ばした。
すると少女は何もない虚空に壁が現れたかのように手をついて阻まれた。
「会いに来てくれたということは私に気づいてくれたのね!」
「そう報告があったから泥地国に来たのよ。こっちが準備している間に随分と好き勝手やってくれたわね」
「えへへ、栖雲が会いに来るまで間暇だったからつい…」
宮繰姫は反省の色が全く見せず、後頭部を軽く搔きながら俯いてえへへと笑う。
「二年振りね。最近は身を隠していたみたいだけれど、元気そうでよかったわ」
「ああん。心配してくださるなんてお優しい…」
顔を紅潮させて恍惚の表情を見せる宮繰姫に対して表情を変えない栖雲は手を下ろした。
「ふふっ、見つからなかったからどこかで悪事を働いていないか心配だっただけよ。どうして今になって動き始めたのかしら?」
「んふふー、内緒っ!」
「そう。本当なら連れ帰って拷問を任せたいけれど、あなたの術を完璧に抑え込める者はいないからこのまま処理させてもらうわ」
栖雲は手を上げて、曲げたまま手のひらで何かを握りつぶすような動作を始める。
ギギッと宮繰姫の周りの空間が歪んだ。しかしその瞬間、内側から力が奔流して結界が壊れる音と共に周囲が吹き飛んだ。
「ここは水虬と野椎が元気で嬉しいわ」
「どうやら力は健在のようね」
「でも私って鬼道しか使えないの。一緒に死ぬ前に栖雲の端境も教えて?」
「教えないし、死ぬなら一人で死んでくれないかしら?」
二人の間にあふれ出た力がぶつかり、周囲がぴりぴりと細やかに揺れる。
鬼道は古代の巫女が扱っていた生物を操作する術である。人や動物だけでなく、極めれば精霊さえも操ることが出来、雨を降らせ、風を操り、岩を作り出す等様々なことが出来るようになる便利な術である。
しかし現在は使い手は少なく、それを極めた者は宮繰姫において他にいないのが現状。
何故ならこの力は伝承されてこなかったために文献などほとんど残っておらず、また為政者などから恐れられたために半ば葬られた術であった。
栖雲の端境術は巫術に分類され、古くから神官達が管轄する大社と呼ばれる組織が伝承を続けている。
禁じられた鬼道と正統派の端境術は術の性質は異なるが、反目し合うものであった。
「さてと…。一緒に殺し合お?」
「羽衣」
宮繰姫が栖雲に向けて力を加えた。
その力は栖雲の体の表面にぶつかるとしゅうっと音を立てて霧散する。
よく見ると栖雲の周囲、ほんの数ミリ程度の空間が水晶玉を通したかのように歪んでいる。
栖雲は懐から何の変哲もない紅葉がモチーフの柄の扇子を取り出すと宮繰姫に振りかぶる。
宮繰姫は指を振るうと地面から岩が突き出して、栖雲を阻んだ。
栖雲は何も動じることなく扇子は岩に食い込むと、豆腐を斬るかのようにするりと切り裂いた。
扇子の周りも栖雲を覆う空間のように歪み、その空間が触れると空間同士が重ならないように障害物を切り裂いたのだ。
「んふふ、これじゃ触れられないわね」
「境」
今度は宮繰姫を閉じ込めるかのようにぎりぎりの結界を張られる。
本気を出せば宮繰姫は先程のように栖雲の結界を破られてしまう。
だが栖雲を覆う羽衣は外部からの力を一切受け付けない。
結界を破壊されて、余波が襲おうとも栖雲に影響を与えることは出来ない。
栖雲は追撃の一手を加えるために扇子を振りかぶった。
一口解説
鬼道
古代日本で邪馬台国の卑弥呼が人心を掌握するために使ったとされる力。
その詳細は判明しておらず、巫術ではなく呪術に近い力だという話だ。