北端抑留記
―忘れもしない。
昭和二十年、八月九日。払暁の空襲警報。当初はラジオまで見当違いに『アメリカ戦らしき敵機の空襲』と放送。
夜が明けて初めてソ聯の宣戦を知ることとなる。伴い我々経済部本部科長以上。次長室へ召集令、登庁す。そこで青木次長よりモロトフ外相の宣戦布告を知らされ、急遽緊急国務院会議開催。
満州国政府の通化市移転。皇帝並びに関東軍首脳部の同地移動。軍人軍属を最先に、十一日頃より満鉄社員並びに姉女子等関係家族、日系官吏家族の安東、朝鮮へ避難群の大異動。
それにより長春市内は混乱の渦に呑まれる。畳みかけるように東、北満国接地帯からの日系官吏、およびその家族、開拓団員等の殺到。
食料、住宅、衣類等々対策に奔走するも。凄惨たる事に、栄養失調による乳幼児死亡多発の報相次ぐ。
―八月十五日、正午。遂に天皇陛下の終戦に関する詔勅の録音放送。聞く者、泣かざるはない。十九日、ソ聯軍新京入城。空には米、ソ戦斗機の飛来、地にはソ聯軍重戦車の続々進出。城下の誓。ソ聯軍の掠奪、暴行。便乗する満人の掠奪。しかし、その横行に目を被うものもあり。
関東軍捕虜の接収、日系高官、協和会、警察関係者逮捕の報乱れ飛ぶ。十月五日、青木経済部次長も遂に連行さる。かくして、混乱と放心状態の日が始まる。
―悪夢の昭和二十年十二月八日。遂に、その時が来る。
起床後、朝食前。ソ軍将校(外蒙系)、鮮系通訳を帯、新京特別市朝旦の財務協会住宅第一号、拙宅を襲い余に「二、三日で返すから」と同行を命ず。
謂われるがまま、洗面具、少々の金子を持ち同行。タイ国公使館跡、現ゲペウ事務所に収容さる。
数日間、或いは連日の取り調べ。同十六日突如防寒服の支給。釈放の夢も空しく十七日夕、トラックに分乗させられ、寛城子駅にて貨車に打ち込まれる。嗚呼、万事窮すであると、之れを家族へ如何に知らすかと苦慮す。
折から粉雪がちらづき、身も心も凍て果て。聲を出す者もなく、暗然し滂沱たる涙ある許り。
同十八日、夕。遂に貨車は北に向けて出発。
かくして、我が生涯に於ける唯一度となる、暗黒の抑留生活は始まる。
―徳恵駅近くにて、脱走を企てた車両ありて。以来警戒一層厳重となる。
二十五日、マンチュリー着。二十七日、チタ着。下車を命ぜられ入浴の後発疹チブスの予防注射を打たれる。
寒空の下、積雪の中を歩き、便所に行くにも、入浴するにもマンドリン銃で『ダワイ、ダワイ』と尻を叩かん許りに畜生扱ひ。
敗戦の苦杯なりと諦めんとするも、家に残してきた家族たちのこと、行く先に待ちかまへる今後の生活。そして釈放の日の事など、頭も狂わん限りである。
昭和二十一年一月四日、夕刻。零下四十度の酷寒に、再び暖房一つない貨車に打ち込まれシベリヤ鉄道を走る。遂に過るは凍死の不安。
ノヴォシビルスクでトルクシブ鉄道に入る。十九日カザヒ共和国の首都、アルマ・アタに着く。寛城子駅出発以来、二十日余り、約九千キロを走りて終着点となる。
有刺鉄線を二重に張り巡らした。竣工した許りらしきバラック建二棟、その他付属建造物二、三棟。走って南に峨峨たる天山脈が雪を戴いて聳え立っているのが印象的であり。之れが我等が後何か月か、何年か知らぬが寝起きするところか。絶望の中牢獄に等しく暗い貨車から降り立った目に広がる其れのみがせめて慰めとなる。
―三月中旬までは検疫期間、入浴と予防注射。出される食事は水の様な粟の粥、スハリ 、砂糖。スハリの無い時は黒パン。
水かゆで、夜便に通十回等ばかり、余りに頻繁で困るので代表が当局に頼んで堅固なカーシヤ に変る。
二月二十六日。同僚、元経済部科長安永君、肺炎の為死去。其れに限らず到着以来、虚弱衰弱で死亡するもの続出。三月下旬、構内作業始まる。バラック建築、道路工事。四月中旬より構外に出て製材工場の建設作業。
余は健康を害したため、五月初めから約二週の休養を認められる。五月末から建設作業に再従事。七月からソフオーズ(国営農場)の草取り、収穫脱穀作業。嘗て畜生の扱いと思ったが、今や我々は家畜の如くである。
ソフオーズの悪監督有、皆で奴にB29と綽名を附ける。
十月初する山の中腹の林檎園へ林檎のもぎ取りに三週間。寒かりし中、テントを張って寝起きする。しかし、今までの飢餓に近い食料生活の中、此処での従事に至っては毎日美味な林檎を二十分に食せ、三週間で大分健康を快復。その後、コルナホーズで赤大根収穫に約十日ばかり掛け、十一月五日ラーゲル(収容所)に帰る。
年末、寒気厳しく被服も悪い中、凍傷看者続出す。同輩である伊藤も脚の凍傷悪化に苦しむ。
年明けて昭和二十二年初、収容所長交代。給食、被服事情好転あり。我々収容者の気も幾らか明朗となる。三月下旬、構内作業に従事、後約半月炊事勤務。五月より構内作業や構外作業を繰り返す。
十一月末、労働免除となる。
―昭和二十三年を迎え。二月二十六日、突如アルマ・アタより移動。炭団として有名なカラカンダに移動。埋蔵量三百億トンと称するソ聯有数の炭田である。
八月八日、カラカンダ出発。二十六日、ナホドカ湾到着。九月九日夕、引揚船高砂丸乗船十日出港。十一日は夕、舞鶴入港。まるで、都合の良い夢でも見ているようであった。十二日漸く下船し本国の土を踏みし時、之れは現実であるのだと感極まる。
十五日、舞鶴より引揚列車に乗車。夜九時、我が故郷たる岡山は岡山駅着。
母上、直介、晴通、弟達と再会をす。九月十九日には東京にて保護されていた妻、輝子との再会。
―収容所生活中、ソ聯将校の口癖は『スコラ、ダモイ(お前たちは間もなく国へ帰れるぞ)』であった。幾度、帰郷を夢に見て。朝、目覚めに落胆した事か。
まさに、夢が正夢になった日であった。
ソ聯にて
囚はれて カザヒスの野や 罌粟の花
囚われて 祖国は遠し 天の川
以上。
―これは、『その時』の記憶其の物。私が手を加える点があるとすれば。
文字を現代語に直す、それ以外に在りませんでした。
これは私の作品ではありません。しかし、誰かに知って欲しかった。
あの時。瑕疵なき者の苦しみが、数多にあった事を。