孤児院を後にして
「……はあ。とりあえずこれ。ぼくはいらないから君が食べてよ」
と、レギナ・スライムは粥が二つ乗った盆を俺に寄越す。
「……マシューの善意を無駄にするのか」
「そうじゃなくて、ぼくにとっては食べ物じゃないんだ」
「普段は何を食べているんだ?」
「レギナ・スライムが食べるのはスライムだ。ぼくから分裂したスライムが栄養を作って戻ってくるからね。直接食事は取らない」
「……」
これは自給自足というのだろうか。まさに女王蟻のようだなと思った。
「自分で自分を食らうのか……」
「それがぼくの普通なんだよ。さあ、早く食べて。それから出かけるよ」
「……何処へ?」
「君は魔王となったんだから、その責務を果たしてもらわないと。この街を出て、まずは魔王城に向かってもらう」
「……」
「まあ、忽然と姿を消すわけにはいかないだろうから、今日はその準備期間だ。やることをやって、旅立つ支度をしてもらわないとね」
「……この街で最強になっているのではダメなのか?」
「君さ。自分が魔物だという自覚はあるのかい? もうニンゲンと同じ生活を送るわけにはいかないよ。ニンゲンからすれば魔物は討伐対象だ。もちろん魔王も同じさ」
「……」
「魔王なんて言ったら、勇者クラスのニンゲンは目の色を変えて襲いかかってくるよ。君も冒険者の端くれなら、魔王の恐ろしさを知っていると思うけど」
俺も魔王を知らないわけではない。魔王は全ての魔物の頭領。レギナ・スライムやドラゴンより遥かに強力な魔物だ。それを討伐すれば、冒険者は誰からの異論もなく勇者の称号を得ることができるだろう。一生分の手柄を手に入れたも同義だ。
ただ、攻撃魔法が使えない俺からすれば、魔王=「すごい人達が討伐を狙っている一番やばい魔物」程度の認識だったのだ。この国の国王や王妃が雲の上の存在であるのと同様に、俺からすれば一生目にすることも関わることがないはずの相手だろう。あまりにも遠い存在すぎて、魔王の名前すら記憶になかった。
そんなはずの俺が、先代魔王こそが父であるという過去が判明し、今は現魔王となってしまっている。
……まるで耳障りの良い寝物語でも聞いているようだ。このスライムの少女が現れてから、一晩のうちに俺の人生が五四〇度くらいひっくり返ってしまった。
「君は何というか……呑気だね。魔王がこの街にいるなんてことが知られたら、国の中枢から軍隊が派遣されてくるかもよ」
「……いや、それはないだろう」
「へえ? どうしてさ?」
「国もそこまで暇ではない。『魔物はそっちで何とかしろ』とギルドに放り投げるはずだ」
先代の魔王が人間に敵意を示さないのが幸いしたのか、この国も魔王を"脅威"として注視していない。むしろ内政や諸国との外交問題の方に力を注いでいて、魔物の問題はギルドに任せきりだった。そして魔物に関しては、国家よりも冒険者ギルドの方が専門家だ。
「人間もそこまで魔王と敵対はしたがらない。話し合いで解決できるのならばその方を望むだろう」
「……ふうん。君もあまり戦争や支配は望まないんだね」
というより、責任のあることが好きではないのだ。誰かの上に立つ自信もない。
俺がリーダーとなって円卓で会議をしたり、誰かに命令を下したりする様子など想像できない。
「まあ、それは君の言うとおり、魔王のあり方次第なところはあると思うよ。勢力の拡大を望めばニンゲンと衝突するだろうし、おとなしくしておけばニンゲンもおとなしくしてくれるのかもしれないね」
と、レギナ・スライムが言う。
「でも、魔王はある意味では神に近しい存在だよ。行動一つで世界を脅かす力があるからさ。だから欲深いニンゲンは、魔王を手中に収めることを望むだろうね。最強と呼ばれる相手を討伐したくなるのもまた、大衆の心理だろう。だから先代の魔王は、ニンゲンと争わないために持たず離れずの関係を築きたがったけど……」
「なら俺は引きこもる。それで世界は平和だ」
「いやダメだってば。最強がこの世に存在する意味がないじゃん」
……確かに。
「君は世界最強の生物として世の中を正してもらわないと。ぼくはそのために君に”魔王紋”を託したんだから」
「……魔王に血統は関係あるのか?」
「ないんだったらぼくが魔王になっているね」
「……それもそうか」
俺はミルク粥を手に取り、喉に流し込むように掻き込んだ。バターの香りがする。
食事をとりながら、これからの行動を考える。
「……一度宿に戻って薬草液に骨をつけるつもりだったが……旅立つなら引き払わないとならないな……昼にはアレスとナヴィと合流して、フィールドで仕事だ」
「それって魔物の討伐?」
「……まあ……」
「反対まではしないけど、魔王ならあまり弱いものイジメはして欲しくないな。ゴブリンがそこらの人間にちょっかいかけたせいで、冒険者と喧嘩することになるなら勝手だけど」
「……一応殺し合いみたいなものだが……それも喧嘩の内か?」
「生活上のトラブルは当事者の問題ってこと。ニンゲンが娯楽で魔物狩りをしているようなら、君に成敗してもらうけどね」
「……」
娯楽、か。
戦いの際の、アレスの楽しそうな表情が脳裏に浮かぶ。
「……俺も弱いものイジメは好きではない」
「そっか。その価値観はぼくと一致していて安心したよ」
かこかことミルク粥を口に含んで、次々と喉に送り込んだ。うん。やはりミルク粥もうまい。二杯も食べられるなんて、今日は何という素晴らしい日だろうか。
***
……ミルク粥を食べ終えてからしばらくして。
俺とレギナ・スライムは孤児院から離れ、パルーバの街に向かった。
「ぼくもお父さんとお母さんのところに戻るから。お姉さん、院長さん、匿ってくれて本当にありがとう!」
という口実で、このか弱そうな少女 (の姿をした高位の魔物)は責任を持って俺が街に送り届けることになった。
「……何から何まで、お世話になりました。服までもらってしまうなんて」
レギナ・スライムはその場でくるりと回る。麻のワンピースの裾がふわりと浮いた。
「ここで作った服の売れ残りよ。気にしなくていいわ」とマシューが微笑んだ。
……マシューも院長は、夜中に女の子が街の郊外にいたという不自然さに、何も思わないのだろうか。
その疑問はうっかり口にしていたらしく、「余計なこと言うな」とレギナ・スライムに足を蹴られた。痛い。
しかしそれを聞いたマシューと院長は顔を見合わせ、一言か二言何かを交わしてから、マシューが「そうね」頷く。
「ゼロ、ちょっといいかしら?」
とマシューは俺をレギナ・スライムから引き離すようにひっぱり、耳打ちする。
「……念のために言っておくけれど、余計な詮索はしないべきよ。年頃の子供には色々あるのよ。ほら、あの子少し変わった見た目じゃない」
「……」
「肌も露出が多かったから、普通の町民ではないと思う。もしかしたら娼婦の娘か、異国から来た旅芸人なのかもしれない」
「娼婦……?」
魔物という事実に気を取られていたせいで、その発想はなかった。
「それにあの子、泣いたふりがうまいわ。子供らしく振舞っているけれど、どこか大人びている。元からそうやって生きてきたのかもしれない」
「……!」
驚いた。マシューはレギナ・スライムの演技に気がついていたようだ。
流石に正体が魔物だとは思っていないようだが、マシューはわざと深追いをしていないのだと、今になって気がつく。
……孤児院には、様々な事情を抱えた子供が集まってくる。その世話をしているマシューや院長なら、経験則で「ワケあり」を勘づいてしまうものなのかもしれない。
「……そこまで気がついていて、何も聞かないのか?」
「あえて知らないふりをしてあげることが、親切になることもあるのよ」
だからあなたもね。と、念押しされた。
「……」
もしかしたらマシューは、俺の秘密を知っているのだろうか。院長も、本当は知っているのに敢えて何も言わなかったのか?
「マシューは、」
「うん?」
「……いや。何でもない……」
俺が魔物の血を引いていることを知っているのか。
そう聞きたくなったが、やはり良くないかと考え直して口を閉じる。マシューはスライムにも過敏に反応していた。今までの関係を壊してしまうかもしれないという畏怖が、俺の心に躊躇いというブレーキをかけた。
「……。行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい」
俺は育った孤児院に背を向けて、坂道を下る。
……マシューと院長にはすまないと思うが、もうレギナ・スライムの脅威はない。適当な話を見繕ってギルドから事情を説明してもらい、俺はここに戻らないようにしようと考えた。