断りたい
「はあ。君は後先考えずに物を言うから、冷や冷やするよ」
森の主と別れ、村に戻る途中。レギナが頭を抱えて独り言のような文句を漏らす。
「……すまない」
「名前のことは仕方がないけどさ……」
「……魔物は名前に関して特殊な社交辞令があるようだな」
「まあね。名前は魔言語で絶対に必要だから、相手の名を知ってる知らないで、使う魔力に差が出るからね」
魔法を放つ時、その対象を示す言葉にはいくつかの方法がある。大きく分ければ概念で示す方法と、固有名詞で示す方法があるのだ。
概念は例えば、「魔物 」「人 」と言った広いもの、あるいは「男 」「女 」「子供 」と言った狭い意味を示すものだ。ちなみに「二十三歳の目が死んだ男」も概念として成り立つが、使う魔言語のワードが多い分、詠唱が面倒なためあまり使われることはない。普通はそこまで指定しなくても、魔法はきちんと当たる。
例えば、十体いる魔物の中で、特定の魔物だけに <火炎球>で攻撃をしたい時。
「魔物 」と言うだけだと十体分だけ魔力が分散し、火炎球の魔力が弱まる。魔力が均等に分かれるわけではないが、失われた魔力を補完するために、それだけ多くのマナを誘導する必要があるのだ。つまり、狙い通りのものに火炎球を届かせるためには、より多くの力が必要となる。
だが、「レギナ・スライム」と言う魔物の通称、あるいは「レシーナ」と言う名前がある場合は、詠唱にそのワードを入れることで、この魔力の分散が防げるのだ。固有名詞は個人特有のものであるため、対象を示す言葉としては最も狭義で、最高峰のものだ。
……必要に応じて相手に勝手に名前をつけるという方法もなくはないが、「相手が自分のことだと認知できない」かつ「不特定多数にその呼称を認知されていない」ものは名前として成り立たない。だから知能が低い魔物に名前をつけることは意味をなさず、即興で作った名前はその固有名詞の意義を果たさない。
この辺りは色々と複雑な理論があるのだが、とにかく。
「フルネームを言うことは失礼にあたるのか」
「失礼というか、馴れ馴れしいって感じかな。名前を名乗るということは、『あなたと話をします、相手にします』という意味が含まれているのと、魔法で不利になる名前を明かすことで『あなたを信用します』と示すことにもなるんだ」
「……略称も気軽すぎると言っていたな」
「つまり、フルネームを言うってことは自己主張が激しいってこと。あの場で名前を勝手に略するのは、初対面の相手への礼儀を欠いているってことだ」
「……。難しいな」
「グランデリは理解のある魔物だから良かったけどね。ぼくでも初対面で名前呼びをされたら、戸惑うかな」
「……ということは、俺がお前と初めてあった時、レギナがやたらとイライラしていたのはそのせいもあるのか」
「そうだね。名乗ろうとしているのに邪魔をされたら、喧嘩を売っているのと同じだよ」
「……あれ以降、俺に自己紹介はしないんだな」
「今更必要かい?」
「俺も完全に聞きそびれて、勝手にレギナと呼んでいたが」
「……固有の名前はレシーナだけど、別に呼びやすい方で構わないよ。ぼくもあまり自分の名前好きじゃないんだよね。威厳がなくて」
「……似合っていると思うが」
「そう?」
纏っている外殻はかなり顔立ちが整っている。可愛いの部類に入るだろう。
……しかし、正体はゼリー状の塊である彼女に“可愛い”とつけたのは誰だろうか。
「レギナ・スライムに産み親はいるのか?」
「産みの親というべきかわからないけど……ぼくは過去のレギナ・スライムから分裂して、意思を持った存在だ」
「過去のレギナ・スライム?」
「ぼくらにも実質の寿命があるからね。細胞が劣化するから。レギナ・スライムは普段はスライムだけを分裂させるけど、条件次第で同格のスライムを分裂させることができるんだ」
「……」
「ただ、その時分裂させたスライムは細胞の初期化をするから、記憶は受け継がれないよ……深くDNAデータを漁れば、断片くらいはあるのかもしれないけど」
「……。よくわからない話だ」
「だろうね」
レギナは苦笑いのような息を漏らした。
「……ところで、新しい命を生むには番が必要なのか?」
少し探るように聞くと、「場合によるね」とのことだった。
「普通のスライムには必要ないけど、レギナ・スライムはメスしかいないからね。同格個体の分裂の時には、他の細胞を得る必要があるんだ」
「……その、同格個体の分裂の経験は、」
「ぼくはまだないよ」
「……処女か」意外だ。年が離れている分、経験豊富なのかと思っていた。
「処女という言い方が正しいのかわからないけど……まあ、そんな感じかな」
「……」
さらに疑わしい要素が増えてしまった。レギナ・スライムも、実質の生殖には他人が必要なのだ。
「君もそういうことが気になるのかい?」
俺の隣に並び、レギナは悪戯をするような笑みで、俺の顔を覗き込んでくる。
「今は民家でお世話になっているけど、宿を取らないとね」
「……いや、レギナ、そのことなんだが……」
……まずい。焦って「今夜頼む」などと言ってしまった自分を後悔する。
「うん? 何か不都合があるのかい?」
「大ありだ」
「……へぇ」
すると、レギナはそっと俺との距離を狭め、腕を絡めてきた。
「また唐突な申し出だね。まあ君には良くあるし、もう驚かないけどさ」
「……」
己の身が強張った。異性からのスキンシップによる緊張感だろうが。
……それは口づけをされた時の混乱や、喜びの混じった興奮ではない。あの時の感覚に似ている。意味もなく俺を誘うような言葉を口にする、女冒険者と対面した時のような。得体のしれない存在を相手にして畏怖を抱く、あの戸惑いだ。
「君は魔物のぼくでもいいって言ってたけど、おじげづいたのかい?」
「……っ」
ばっとレギナを振り払った。
「……そういう言い方をするな。苦手なんだ……」
「……ああ、そうだったね。ごめん」
「……」
気まずい。何か、うまい言い訳を思いつかないものだろうか。
女の子だったらあれだ。「今日生理だから」と言えばいいかもしれない……だが男は生理現象を出汁に口実を作るのは難しい。しかも、約束は俺が土下座してお願いしていることだからな。
……断り方か……。
①「今日はまだ疲れが取れていない」
→俺から誘っておいてその言い訳は通用しない。
②「緊張して勃たない」
→プライドをへし折る覚悟だが、断る理由として弱いか。
③「もう少し滾らせたい」
→最も無難ではあるが”今夜”と言っておいてそれも変だ。
④「今ので萎えた」
→流石に身勝手すぎるか……。
「もしかして、まだ魔力酔いが残ってる?」
「……ああ、そんな感じだな……体にまだ違和感がある」
「ふぅん……ぼくは急がないからいいけどさ」
「……」
そうか。悩まなくても彼女の性格上、急かしてくることがないのか。
とはいえ……この場しのぎの嘘とも言い切れない。俺の意思に関係なく、襲ってくる可能性もある。
「……最終手段だな」
「最終手段?」
心理的理由より強いのは、物理的な理由。要は、不可能にすればいいのだ。
⑤「アレが痛くて無理」
→己の身を切る自傷行為に腹を括るしかない。
「……何でもない。独り言だ」
「そう」
レギナは首を傾げていたが、それ以上の追求はしてこなかった。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、恋人同士なの?」
はたと背中にかけられた声に驚いた。またリーリィの存在を忘れていた。
「……影薄いな」
「む、その言い方は酷い。邪魔しちゃいけないかなと思ったの」
「レギナとはまだ恋人ではない。愛人同士だ」
「アイジン同士?」
「それだと不倫の意味に近いんじゃ……」レギナが突っ込むが、
「今の関係はフレンドこそ悪い意味になりそうだ」
レギナは「はあ」とため息のような相槌を打った。
「???」
リーリィもついていけないという顔をしている。俺も何を言っているのやら。リーリィの耳にはよろしくない話だと思い直し、これ以上の力説は自粛する。
森の中を歩いているうちに、辺りはすっかり夜に落ちてしまった。
広い星空の下に出ると、麦田が目に映る。ラフルメの村は、所々に篝火を焚いていた。夜も明りを灯せるのは、村がよく潤っている証拠だろう。




