傷心と唇
「ゼロ。起きたかい?」
どのくらい時間が経ったかわからないが、レギナ・スライムの声が聞こえて、薄眼を開ける。
「やっぱり、あれだけ大きな魔法を使ったから魔力酔いを起こしたね。体調はどう?」
「……体は平気だ。だが傷が痛い」
「傷? どこかに怪我があるの?」
「……心の傷だ」
俺は小屋に戻り、元のベッドの上でふて寝をしていた。毛布はないが、寒さなど感じなかった。
「近くの村がドラゴンに襲われた話でも聞いたのかな。ぼくはどうなっても知らないよと言ったじゃないか……まあ、リスクがあったことだし、仕方がないさ。虐殺されなかっただけまだマシだよ」
「……それもそうだが」
「風の噂だと、パルーバの街は無事らしいよ」
俺は聖人ではない。顔も知らない他人を気遣えるような正義感もない。虐殺されなかっただけマシ……というのは無責任な考えだと思いつつも、パルーバの街に被害がなかったことに、ホッとする。
「ここ、ラフルメの村はパルーバから四百キロほど離れたところにあるみたいだね。魔王城からはさらに離れてしまったけど……まあ、今度からは正確な座標を指定して<移動の術式>を使えばいい話だ」
「……」
「地図は手に入らなそうだから、ここの長老のところへ挨拶に行くついでに、行商の人に依頼してきた。英気を養ってから、また出発しよう」
「……」
「……大丈夫かい?」
「……できれば一刻も早くここを出たい」
ヴェヌサに会うのは避けたい。トラウマもそうだが、俺は彼女の友人を殺している。死体も未だに<手持ち倉庫>の中だ。
「……<蘇生の術式>を練習しないとな……」
「ああ、そういえば、君が殺っちゃった二人がいたね。流石に時間が経っちゃったし、ぼくでも再合成はできないかも」
「……」
「地図が届くのを待つついでに、一週間くらい滞在するのも悪くはないと思うよ。<洗脳の術式>も教える時間がありそうだし」
「……追っ手が来る可能性は?」
「あるだろうけど、幸い、この辺りの魔物は村とつながりがあるみたいだからね。あとで森の主がいる場所にも行って、匿ってもらえるように交渉しよう。君も魔物の王として、会いに行かないとね」
「……レギナの知り合いはいるのか?」
「ぼくは先代の側近だよ? 自分で言うのも変だけど、魔物の中でもエリートだ。こんな辺境に知り合いがいるわけないじゃないか」
「……俺には魔王の存在意義や魔物の民衆性がよくわからない」
どうも、魔王だからと言って、魔物が言うことを聞いてくれるとは限らないらしい。実際のところ、人間と同じように「雲の上の存在」という認識で、常日頃関心を寄せるようなものではないのかもしれないが。
だが、目の前に王様が現れた場合、人はどんな態度をとるだろうか。
まず驚く。次にひれ伏す。政治に不満がない限り、積極的に不敬な態度を取ろうとは思わないはずだ。
魔物は一体どんな態度を取るのだろうか。俺は王様らしく威厳を持って接する必要があるのだろうか。
貴族でも何でもない一般民だった俺には、どういう態度を取るべきなのかいまいちイメージが浮かばなかった。
「……俺が気絶している間、ドライアドの少女が介抱してくれていた」
「ああ。リーリィだね」
「彼女は俺が魔王だということを知らないのか?」
「まだ知らせていないよ。変に噂が広がってしまうのも困るからさ。正体は一部の権力者以外には伝えない方がいいと思う」
「村の長老には?」
「伝えたよ。魔物と仲良くする村というだけあって、理解が早くて助かった。ぼくらを取り巻く事情も説明してある」
「……。受け入れてもらえなかったらどうするつもりだったんだ」
「手荒なことは好きじゃないけど、洗脳と脅迫くらいはしたかもね」
「……それは最早支配だろう」
「聞き入れてもらえないなら仕方がないさ。それに、力ある者が支配をすることに問題があるのかい?」
薄々思っていたことだが、彼女の思考は常軌を逸脱している。柔軟性があるというか、物事に寛容で平和主義だから相手とぶつかりにくいだけで、あまり人間らしい考え方はしていない。
「……魔物は怖いな」
「君も半魔だけど」
「俺は人間として育ってきた。魔物の思想には共感できない」
「それは仕方がないことさ」
「レギナは俺のことも騙した」
「まだ根に持っているのかい? でも理不尽なことはしていないはずだよ」
「……」
俺はベッドから身を起こして、じっとレギナ・スライムの顔を見る。
「……何だい?」
「……。約束のことは覚えているか」
「覚えているよ。焦らなくても逃げたりしないさ。ぼくは君に尽くすし、君の味方だ」
「……」
ぐっとレギナの両手を掴む。
「今夜だ。頼む」
「え? ちょ……」
「……いや今夜は急かしすぎか。とにかく、この村では俺にデレてほしい。フリでも構わない」
「それはまた唐突な要求だね……」
「この村に厄介な冒険者がいる」
俺は農夫の会話から盗み聞いたことを話す。
「……ええっと……? つまり、そのヴァヌサってニンゲンに『俺には彼女います』って見せびらかしたいってことかな?」
「童貞のままでいると、また変に迫られそうだ。何を言われるかわからない……」
「そんなに気にすることだとは思わないけど。まあ、君が言うなら……そうだね」
レギナの動きは一瞬だった。ふわりと髪が揺れて、サーモンピンクの瞳が俺の顔前に来たかと思ったら、唇に柔らかいものが当てられる。
……思考停止。
だがそれ以上のことはなかった。「ここは民家だからさ」と言って、レギナ・スライムはぱっと離れる。
「女の子とキスをするのは初めてだろう?」
「……」
初めてに決まっているが、突然の出来事すぎて言葉が出てこない。
「一応言っとくけど、ぼくは誰にでも自分を許すわけじゃないよ。女王と呼ばれるだけのプライドくらいはあるさ」
「……ならどうして俺に」
「ぼくは魔王をサポートするためにここにいる。でも行動の決定権は君にある。望むことを言ってくれれば、この身の全てを捧げて最善を尽くすよ。それがぼくの務めだからだ」
「……」
「<洗脳の術式>の使い方は早めに教えるよ。それで君が懸念しているというその冒険者も、手玉にとってしまえばいいじゃないか」
「……洗脳はしたく、」
「倫理観で拒否する余裕もなくなってくなるよ。そのうちね」
「……」
「……さて。お腹がすいてきたし、ぼくは食事に行こうかな。三十分くらいで戻ってくるから、身支度を整えておいてね。次は森の主のところに行かないと」
他にレギナにかけるべき言葉も思いつかず、すたすたと出て行く背中を見送るしかなかった。
……果物のような甘い残り香がして、唇に残る感触を反芻する。
女の子がこんな簡単にキスをしていいものなのかとか、レギナ・スライムの唇は本当に唇なのかとか、そもそも恋人同士の口づけのタイミングはどうやって決められるものなのだろうとか、冷静なような動揺しているような、とりとめもない考えが頭の中でぐるぐると巡って。
……考え疲れたので、もう一度ふて寝することにした。




