呪縛
直接的な描写はありませんが、虐待の要素を含みます。苦手な方はご遠慮ください。
全4話の短いお話です。
今日のメインディッシュは、旦那様の好きな鶏胸肉のカレーソースがけ。最近仕事が忙しくてお疲れのようなので、疲労回復に効くメニューを厨房に頼んでおいたのだ。嬉しそうに食べ進めていた旦那様が、「うんん」と咳払いする。何か話があるようだ。
「カリファ、話がある」
「何でございましょう、旦那様」
「うん…」
テーブルに飾られたダリアの向こうで、私の夫、セルブリッジ伯爵家長男のレオン様は少し言い淀む。言いにくい話か。何だろうか。
「子どものことなんだが」
「ええ」
ああ、そのこと。私たちは結婚してもう6年経つが、なかなか子宝に恵まれない。私は22歳、旦那様は25歳だ。同世代の貴族たちはすでに親になっている人が多い。焦りが出るのは当然だろう。
「先日生まれた弟の次男を養子に迎えようと思うのだが、どうだろう。カリファの意見を聞きたい」
ついにこの決断を下す時が来た。私自身もう、本当に自分の子どもが欲しいのか、両親の期待や世間からの目が気になるから子どもを産みたいだけなのか、わからなくなってきている。
ここらが潮時かもしれない。
「旦那様のお考え通りで結構でございます」
「本当にいいのか?」
旦那様が優しい黒い瞳で念押ししてくれる。彼は、夫婦や家族を問題を独断で決めたりはしない。実直で、堅実で、穏やかな人。
幼いころに親同士が勝手に決めた結婚相手の私を、妻として尊重してくださる。陸軍では上官からも部下からも信頼が厚いと聞く。結婚相手としては申し分ない。
「ええ。私にはなかなか子どもができませんし、伯爵家跡取りとしての教育は早くから開始したほうがいいと存じますので」
「随分淡々としているが、大丈夫か?」
「ええ。私も、以前から養子のことは考えておりましたので」
それに、男の子を養子にもらって、自分の子どもを持つことを諦めれば、女の子を産む危険性がなくなる。女の子は産みたくない…
「お前は女として劣っている、機能していない」と言われたような劣等感と、どこかで安堵したような気分が合わさりながら、私は頷く。
「では、デュエリンとアスターに連絡して、手続きを進めるよ」
「ええ。お願いいたします」
食事を終え自室に戻った私に、メイドのラミが心配そうに声をかけてくれる。
「あの、奥様…私には何と申し上げていいのかわかりませんが…奥様は素晴らしいお母様におなりだと思います。私は…私ども使用人は…私のような新人が失敗しても怒らずに見守ってくださって、いつもさりげなく心配りをしてくださる奥様をお慕いしています」
「ありがとう、ラミ」
ラミは励ましてくれるが、心は晴れない。劣等感もなかなか拭えない。
涙を拭いて、「親の決めた結婚だったが、それなりに幸せだ。旦那様を大切に思っていないわけではないし」と思い直す。
旦那様とは、おもしろいことがあれば顔を見合わせて笑うし、嬉しいことがあれば共に喜ぶ。子どもができない以外は何の問題もない普通の夫婦だ。
けれど、どうしてもどうしても言えないことがある。やっぱり、あんなことさえなかったら、私の人生は、結婚生活は、もっと幸せだったはずなのに…
こんな私と結婚して、旦那様は幸せなのだろうか。私が妻でなかったら、もっと幸せだったのではないだろうか。
もしかして、私が心から子どもを望んでいたら、子宝に恵まれていたのかも。身体の問題であって心の問題ではないと思いながらも、そんな思いにとらわれることすらある。
「旦那様、申し訳ありません」
私は小さく独り言を漏らした。
◇ ◇ ◇
養子を取ることを父が知ったら何というだろう。
きっと、まずは「私は子孫を残せないのか」だろう。そして「生物は子孫を残すために生きている」などと、自分の願望を、読み漁っている本から引用した一節で補強して言葉を浴びせてくるに違いない。
これまでも散々「子どもはまだか」「まだ若いといってのんびり構えていてはいけない」「我が国の繁栄のためにも4人くらいは産まないと」などと言われてきたのだ。私がどんな気持ちで聞いているか、想像もしないで。
歳をとったら穏やかになるのかと思いきや、ますます頑固に偏狭になってきている気がしてならない。
養子をもらう選択も、私の生き方も、父に口出しなどしてほしくない。
そう思いながらも、これまでずっと父に従って生きてきた。父が決めた相手と結婚し、呼ばれれば実家に帰って話し相手もし、父が望むような貴族令嬢であり夫人たるべく振る舞ってきた。
「支配」と呼ぶほどのことだろうか、それはわからない。けれど幼いころから、両親の機嫌を損ねないよう立ち振る舞うことが当たり前だったのだ。常に「親がどう思うか」が行動の基準だった。親子喧嘩をしたこともない。我が家では、いつも父が正しかった…
父のことを思い出してしまった。
悪夢をみませんように…
そう祈りながら私は眠りについた。
◇ ◇ ◇
「お願いね」と御者に声をかける。今日は入院している妹を見舞いに行く。たった一人の妹、可愛いエリッサ。
王都の郊外にある精神病院。晴れた日でも、この病院が持つ雰囲気のせいか、ここへ来るときの私の心境のせいか、薄暗く見える。
エリッサの病室へ行くと、彼女は穏やかに寝ていた。飾り気のない病室。花が好きな彼女のために季節の花くらい飾ってやりたいが、花瓶は危険だとして置くことができないのだ。今はエリッサの好きなスイセンの季節なのに…
すっかり顔なじみになった担当の看護師が病状を説明してくれる。
「昨晩も発作がございまして…」
「そう…泣き叫んだのですか?」
「ええ」
寝ているときに突然叫ぶように泣き出すのだ。まだ私が結婚する前、妹が「一人では寝られない」と言って私の部屋で一緒に寝ていたころ、初めてあの発作を見たときには、悪魔に取り憑かれたのかと思った。
いつもしていたように、エリッサの髪を撫でて、静かに話しかける。
「大丈夫よ。安心して眠りなさい。お姉様はここにいるからね」
美しかった茶色の髪は、長期にわたる入院生活のせいで、すっかり乾燥して艶を失っている。月に二回、オイルを持ってきて塗ってやるのが精一杯のお手入れだ。ふっくらと柔らかく透き通っていた肌も、食事をまったくとらなかったり、反対に吐くほど食べたりを繰り返す生活のせいで荒れ果てている。
妹は幼いころからそれはそれは可愛かった。茶色の髪、抜けるような肌にバラ色の頬、大きなグリーンの目。社交界にデビューすれば、きっとたくさんの男性の注目を集め、アスター様のように熱烈に望まれて、良家へ嫁いでいったことだろう。
でも、妹は一度も社交界に出ることはなかった。社交界に出る前に、病気になってしまったのだ。自分を傷つけようとし、夜中に泣き叫び、昼は部屋に引きこもり、ドアノブのロープをかけていたこともあった。
妹が目を覚まさないまま、そんなことを思い出しているうちに面会可能時間が終わってしまい、私は看護師に礼を言って帰途についた。
家に帰ると旦那様も帰宅していた。「病院はどうだった」と聞かれて、「今日はずっと寝ておりまして、話はできませんでした」と報告する。
近しい身内がもうずっと精神を病んでいるなんて、世間体を気にする家ならば離縁されてもおかしくはない。それでも旦那様は、責めたり嫌味を言ったりするどころか、気遣ってくださる。
「幼いころのエリッサは、それはそれは天真爛漫に見えたのにね」
「ええ」
「カリファとエリッサがうちの庭で遊んでいる姿は、二人の天使のようだったよ。二人とも茶色の巻毛が可愛らしくて」
幼いころからの許婚同士だった私たちは、お互いの屋敷に遊びに行くこともあった。それで、旦那様もエリッサのことはよく知っているし、心配してくださっているのだ。
「原因に心当たりはあるのか?」
ある。でもそれを打ち明けることはできない。今はまだ、なのか、もうずっと打ち明ける気がないのか、自分でもわからない。
私は「いいえ」と短く返し、「着替えてまいります」と逃げるようにその場を辞した。