62、再燃 二
「今日からよろしく、ロット」
臙脂色の制服を着た壮年の男性が、にこやかに手を差し出す。近衛団長のセレスタ・ガイルスだ。ロットは硬い表情のまま彼と握手し、その隣にいる人物に視線を移した。
「副団長のエヴァンズ・ラリーだ。よろしく」
やはり、その男の声には聞き覚えがあった。背筋がぞわりとする。間違いない。かつて自分の身体を弄んだ、あの男だ。
こんな顔をしていたのか――そう思いながら、ロットはエヴァンズの顔を見つめた。第二隊とまではいかないが整った、一見、人当たりの良さそうな顔。年齢は40代前半といったところか。
ロットの顔を見ても、エヴァンズの表情に変化は無かった。瞳の色が変わっているせいもあるのか、何も思い出してはいないようだ。
「よろしくお願いします」
昂る感情を必死で隠し、ロットは一礼した。今ここでサーベルを抜き、エヴァンズの喉を掻き切ってやったらどうなるだろうか。そんな考えが頭を駆け巡るが、やはり、実行は出来なかった。
相手は副団長、しかもこの場には団長もいるのだ。力の差は圧倒的で、サーベルに手を掛けた瞬間に動きを封じられるのは分かり切ったことだった。
「リスカスのために、全力を尽くしてほしい。期待しているよ」
エヴァンズはそう言って、ロットの肩を軽く叩いたのだった。
近衛団に入りたてのロットに指導役として付いたのは、ロットより少し年上くらいの青年だった。隙のない身なりと、両手にはめた白手袋からその神経質さが窺える。
「レンドル・チェスです。分からないことは何でも聞いて下さい。若くして近衛団に入ると、大変なことも多いでしょうから」
大理石が敷かれた本部の広間を歩きながら、彼はそう言った。見た目に反して物腰は柔らかだ。
「チェスさんは、おいくつなんですか?」
ロットは尋ねた。
「レンドルで結構ですよ。私は24です。あなたの四期上になりますね。二年前に近衛団に入ったばかりで、前は、ガベリア支部の第九隊にいました」
「やっぱり、引き抜きですか」
「私の場合は違います。ただの、親の縁故採用です」
レンドルはさらりと言ってのけた。
「え……」
普通は隠すものではないのかと驚きながら、ロットは次の言葉を待った。
「父親がかつて近衛団員でしたから。私がいつまでも自警団のままでいるのは、彼のプライドが許さなかったんでしょう」
レンドルはそれ以上話すつもりはないようだった。無言のまま外へ出て、二人は人気のない回廊を進む。
不意にレンドルが立ち止まり、ロットに向き直った。
「先に忠告しておくと、エヴァンズ副団長には気を付けた方がいい」
唐突に出てきたその名前に、ロットはどきりとする。
「どうしてそんなことを?」
「彼は一見して良い人間に見えますが、自分に歯向かう存在が大嫌いだ。そういう人間を、権力を使って排除しようとする。今回、欠員が出たのも彼のせいです」
「副団長が辞めさせた、ということですか」
レンドルは頷く。
「表向きはその団員が重大なミスを犯したからということになっていますが、それも全て、副団長が仕組んだことだと私は思っています」
ロットは絶句した。しかし同時に、納得がいくような気もしていた。エヴァンズは口封じのためにロナーを殺したような人間だ。誰かを組織から追い出すことなど、朝飯前にやってのけるだろう。
「君のように正義感のある人間は標的になりやすい。副団長のやり方が間違っていると思っても、決して口にはしないことです。団長にも話してはならない。彼は既に、団長にも取り入っています」
「……レンドルさんは、おかしいと思わないんですか?」
「思いますよ。だからこそ近衛団にいます」
「どういうことですか?」
「いずれ解ります」
レンドルは微笑み、すたすたと歩いて行ってしまった。
近衛団に入り、一年が経った。エヴァンズを手に掛ける機会は何度かあったが、結局、ロットにはそれが出来なかった。
いくら憎しみを抱いていても、いざ手に掛けようとすると自制心が働く。頭が冷静になり、こんなことをしても無駄だと思えてくる。
殺すのではなく、追い出した方がいい。ロットの心はそう変化していた。それが近衛団のためにもなるはずだ。
「ずいぶん怖い顔だな、ロット。腹でも下したのか」
廊下の窓から外を覗いていたロットは、そう声を掛けられて振り向く。そこにいたのは上官であるエイロン・ダイスだった。精悍な彼の顔にはいつでも自信が溢れていて、ロットにとっては頼れる先輩の一人だった。
「いえ。考え事です」
「お前はいつも考え事ばかりだ。それ以外に趣味はないのか?」
エイロンは笑いながら壁にもたれる。
「あの」
ロットは思い切って、エイロンに尋ねた。
「エイロンさんは、副団長をどう思いますか」
それを聞いたエイロンから笑顔が消えた。彼は周囲を見回してから、少し声を落とす。
「お前、それを他の団員に尋ねたりはしていないか?」
「いいえ」
「ならいいんだが。下手をすると、近衛団から追い出されることになるぞ」
「じゃあ、知っているんですね。彼が――」
「今は口を慎んでおけ。お前のためだ」
エイロンは険しい顔でロットの言葉を遮った。
「俺だって、このままでいいと思っているわけじゃない。考えはある。但し、時間は掛かるだろうな。時間は掛かるが、確実にあの人を副団長の座から引きずり下ろすことが出来るはずだ。今は耐えろ。お前は正しい道を行ける人間なんだから」
翌年、近衛団が少々ざわつくような出来事があった。次期団長であるエディト・ユーブレアが、16歳で近衛団に入ったのだ。
団員たちはほとんど子供とも言える彼女への接し方に、戸惑っていた。年下ではあるが、次期団長。馴れ馴れしくても、丁寧過ぎてもいけない。彼女が人を寄せ付けない空気をまとっていたのも、困惑する原因の一つだった。
英才教育を受けていた彼女の実力は群を抜いて高かった。任務の上では周りと協力もでき、支障がなかったことが、更に周囲と打ち解ける機会を逃していった。
ロットは一度だけ、エディトが泣いている姿を見たことがある。原因は、エヴァンズが彼女に嫌味を言ったことだ。周囲はエヴァンズを恐れて、誰も彼女の味方をしなかったらしい。
「大丈夫ですか」
ロットは廊下の暗がりに紛れている彼女に、優しく声を掛けた。
「……大丈夫です。私なんかに構わないで下さい」
エディトはロットの顔すら見ずに、足早にその場を去ってしまった。
(他人に弱味は見せられない、か……)
ロットはその背中を見送りながら、エディトへの同情と、相も変わらず弱者をいたぶるエヴァンズへの殺意がちりちりと燃え始めたのを感じていた。
更に五年が経過した。エディトと距離を置くのは、近衛団の中で既に当然のこととなっていた。彼女も彼女で、任務以外での団員との接触を好まなかった。
その年、近衛団に新たな団員が加わった。ベイジル・ロートリアンだ。
彼は常に一人でいるエディトに目を付け、早速声を掛けていた。例によって拒絶されるだろうと思っていたロットだが、なぜかそれ以降、エディトの周囲への態度が明らかに変化していた。
「彼女に何て言ったんだ?」
ロットは廊下でベイジルを捕まえて、そう尋ねた。
「そんな、大したことは……」
ベイジルは困ったような顔で答える。
「『人を知らなければ、人を率いることは出来ませんよ』と。どうしても放っておけなくて。偉そうなことを言ったなと、反省しています」
「でも、結果的に良かったじゃないか」
ロットは廊下の向こう端で、他の団員たちと談笑するエディトに目を遣った。まだ笑顔はぎこちないが、打ち解けているのが分かる。今まで距離があっただけで、誰も、彼女を嫌ってはいなかったのだ。
「そうですね。彼女は、いい団長になると思います」
ベイジルはそう言って微笑んだ。屈託のない笑顔だ。ロットは彼が、エヴァンズに支配されているこの組織で無事にやっていけるのか、一抹の不安を覚えたのだった。