61、再燃 一
早朝のガベリアの墓地に、眼鏡を掛けた少年が佇んでいた。目の前の墓石には女性の名が刻まれている。彼はそこに花を手向け、しばらくの間俯いていた。
「……ブラットー。おーい。もう馬車が出ちゃうよ」
遠くから別の少年の声が聞こえてくる。ブラットと呼ばれた少年は軽く手を上げて応え、墓石に向かって小さく呟いた。
「あなたが僕を助けようとしてくれたこと、忘れません。さようなら、ロナー先生」
馬車の中にはブラットの他に、あどけない顔をした少年と、利発そうな少女が乗っていた。これから皆、別々の孤児院に移されるところだ。
ブラットは9歳、少年と少女はそれより一つ二つ下くらいだった。
彼らが元々いた孤児院は、院長が数ヶ月前に急死して閉鎖されることになった。死亡の理由は明らかになっていない。
「……みんな死んじゃうの、怖いね」
少女がぽつりと言った。窓の外を見つめるその目に年相応の輝きはなく、灰色の空と同じようにどんよりと陰っていた。
二年前、孤児院の世話役だった女性、ロナーは謎の死を遂げていた。ブラットがエヴァンズに身を売らされていたことで、院長を咎めた女性だ。
エヴァンズのことを獄所台へ告発すると言った数日後、彼女が乗っていた馬車は暴走し、橋から落下した。馬が何らかの発作を起こしたためとされるが、詳しい調査はされなかった。
三人は押し黙ったままで、馬車は最初の施設に着いた。そこで少年が降り、二人に別れの言葉を贈る。
「元気でいてね! また会おうね!」
遠ざかっていく馬車に、少年は大きく手を振っていた。少女が涙目で窓から手を振り返す横で、ブラットは無表情のまま足元を見つめていた。
二人はしばらくの間無言だったが、やがて、少女の方が先に口を開いた。
「ブラットは、魔力があるんだよね」
「……うん」
「その眼鏡、すごいね。魔術がかかってるの?」
「そう。新しい場所で、いじめられると嫌だから」
ブラットはぼそりとそう話した。いじめられるくらいなら、まだましな方だ。瞳の色が他人と違うことが明らかになったら、またエヴァンズのような人間に身を売らされる可能性だってある。
「……私、ブラットが酷い目に遭ってるの、知ってたんだ」
少女は少し口ごもりながら、そう話した。
「でも怖くて、何も出来なかった。ごめんなさい」
「ミケルは悪くないよ」
ブラットはそう言って、少女の手を握った。
「僕たちは、誰も、何も悪くない」
ミケルは大きく鼻をすすってから、こう尋ねた。
「これから、どうするの?」
「僕は魔導師になる」
ブラットは言った。
「魔導師……、どうして?」
「少しでも近付きたいから」
ミケルはその答えに首を捻る。しかし、ブラットの心は決まっていた。魔導師になって、自警団に入る。自分を弄び、恐らくはロナーも手に掛けたであろうエヴァンズを、その手で葬るために。
「歓迎するよ、ロット・エンバー。第一隊へようこそ」
真新しい紺色の制服に身を包み、拍手で迎え入れられる青年。成長し、16歳になったブラットは自警団本部にいた。
新しい孤児院に移ってすぐ、魔力もあり、成績も優秀だったブラットを養子にしたいという夫婦が現れた。そこに引き取られた際に、ブラットはロットと名を変えた。いじめられていたから、と理由を話すと、夫婦は何の疑問も持たずに了承してくれたのだった。
斯くして、ロット・エンバーは魔術学院に入学した。そこでの成績も申し分なく、卒業後、第一隊に配属されることが決まったのだ。
「よろしくお願いします」
目の奥に憎しみを滾らせながら、それを隠すように、ロットは満面の笑みで応えた。
復讐には時間が掛かることを覚悟していたロットだが、彼にとって想定外だったのは、エヴァンズが既に自警団から近衛団へと移っていたことだった。
「近衛団に入るのって、難しいですか?」
ロットは任務の合間に、それとなく先輩に尋ねた。
「近衛団か。あそこは精鋭の集まりだからなぁ。明確な基準が有るわけでもないし、よっぽど光るものがないと難しいかもしれない。目指してるのか?」
「いえ……」
ロットは小さく歯噛みした。近衛団へ入るには、最低でも8年は掛かると聞かされたことがある。それは余りにも長い。本当は今すぐにでも、エヴァンズの喉を掻き切ってやりたいくらいだった。
そのまま何事もなく年月は過ぎ、二年が経っていた。志望動機が不純であるとはいえ、ロットは自警団の仕事にも誇りを持ち始めていた。
自警団の一隊員が近衛団と関わることはなく、ロットはその間、一度もエヴァンズの姿を見なかった。確認したいと思ったことは何度かある。しかし、実行には移さなかった。以前よりも確実に憎しみが薄れているのを、自覚していたのだ。
(このまま、過去を忘れて生きた方がいいんだろうか?)
ロットは鏡に映る自分の姿に問い掛ける。魔導師としての誇りを持ってしまった今、本当に、全てを捨てる覚悟でエヴァンズを殺せるのか、と。
(……出来ない)
それがロットの答えだった。不幸な生い立ちとはいえ、義理の両親の愛情を受け、仲間にも恵まれた。自分が道を外れれば、彼らにも迷惑をかけることになる。
「俺はロット・エンバーだ。可哀想なブラットじゃない」
そう呟き、鏡に背を向けた。
20歳になった頃、誠実に任務をこなすロットの元に驚くべき話が飛び込んできた。
「近衛団に一人、欠員が出た」
隊長室に呼び出されたロットは、真剣な表情をした隊長からそう告げられた。
「欠員、ですか」
話が飲み込めないロットは、そのまま聞き返す。
「そうだ。近衛団長は、第一隊から一人補充するつもりらしい。優秀なのは当然として、将来的なことを考えると出来るだけ若い方がいいとのことだ。分かるな?」
隊長はにやりと笑った。
「俺は、お前を推薦しようと思う」
「え……」
ロットは言葉に詰まった。近衛団に推薦されるのは当然、名誉なことだ。しかし、近衛団にはエヴァンズがいる。動悸がして、耳許で自分の鼓動が聞こえた。
「どうした。嬉しくはないのか?」
隊長は怪訝な顔でロットを見ている。彼の心の内など、知る由もないのだ。
「……少し、考えさせて頂くことは出来ますか」
ロットの声は微かに震えた。隊長はそれを、緊張と受け取ったらしい。はは、と明るく笑ってこう言った。
「大丈夫だ、すぐに決めろとは言わない。これだけの若さで近衛団に入るのは珍しいしな。だが、ロット。俺はお前を信頼しているし、その実力も認めている。他の隊員だってそうだ。断る理由はないと思うぞ」
「はい……、失礼します」
ロットは隊長と目を合わせることが出来ず、一礼して早々と部屋を出た。
エヴァンズの近くに行ける――その機会を前にして、消えたはずの復讐の炎が再び燃え始めていた。