59、負傷
「なんか、拍子抜けでしたね……」
エーゼルが呟いた。監獄の裏手にある山への侵入は想像以上にあっさりと完了し、一行は木々の生い茂る中を南西の方角に進んでいた。
山の木はほとんどが落葉樹で、月光が枯れ枝の間から煌々と辺りを照らしている。人の出入りも無く、動物の気配すらしない山の中は、見渡す限り同じ景色が続いていた。
「レナ医長に感謝だな。ブロルの道案内が無いのは不安だが……、方角は合っているはずだ」
先頭を行くエスカが、魔術で空中に浮かべたコンパスを見ながら言った。
「一時間程度進めば、ガベリアの山に入る。出来るだけ急ごう。ルースの前では言わなかったが、ミネ・フロイスが危険な状態らしい」
「ミネさんが?」
ずっと俯き加減だったカイが、そう言って顔を上げた。
「危険な状態って、どういうことですか」
「彼女は悪夢で傷を負っていただろう? オルデンの樹の魔力が増したせいか、その部分から侵蝕が始まっているそうだ。魔術で進行を止めてはいるが、このままだと一週間は持たない」
「私がガベリアの洞窟に着いて、樹を制御出来たら、ミネさんは助かるんだろ。だったら急ごう。休憩なんかしなくて大丈夫だ」
セルマは明るい声を出すが、不安が無いわけではなかった。洞窟に辿り着く頃には、一人になっているかもしれない――パトイの言葉は、常に頭の片隅にあった。
「君がそう言うなら、急ごうか。くれぐれも無理はするなよ」
エスカがそう言い、一同は足を速めた。山は険しく、獣道すらない足元には低木の枝や蔓が伸び放題になっている。体力があるはずの隊員たちも、流石に息が上がってきていた。
「少しだけ休もう。ガベリアまではあと少しだ」
辛うじて開けた場所に辿り着いて、エスカは額の汗を拭った。他の隊員たちもどさりと腰を下ろした所で、どこからともなく飛んで来たナシルンがエスカの肩に止まった。
メッセージを聞き取った彼の顔が、瞬時に険しくなる。
「誰からの連絡ですか?」
カイが尋ねた。大体の予想は付く。今誰かが連絡を送ってくるとしたら、イーラかエディトだ。
「イーラ隊長から……」
エスカは数秒間口をつぐみ、それからオーサンを見た。
「何ですか?」
オーサンが怪訝な顔をする。
「キペルでオルデンの樹の暴走を止めるために、近衛団のほぼ全員が重症を負ったらしい。お前の父親も……」
エスカが言葉に詰まると、オーサンは掴みかかる勢いで言った。
「どうなったんですか、言って下さい!」
「右肘から先を失った、と。命に別状はないらしい」
「パパが……」
目を見開き、オーサンは絶句した。
「キペルへ戻りたいなら止めたりはしない。新人が一人欠けた分くらい、俺の力で何とかする。ガベリアへ入る前に、今すぐ決めろ」
あえて厳しい言葉にしたのはエスカなりの優しさだった。オーサンが今すぐ父の元に戻りたいという気持ちは、理解しているつもりだ。彼が他の隊員の手前、それを言い出しにくい空気にはしたくなかった。
オーサンは目を伏せ、長く息を吐いた。誰もが「戻る」という言葉を予想したが、彼は顔を上げ、強い視線をエスカにぶつけた。
「戻りません。パパは命懸けで任務を果たしたんです。結果、生きているならそれでいい。誇りに思います。俺も命懸けでやらないと、胸張って会いに行けませんよ」
人もおらず、明かりも灯されていない王宮の中は不気味な程に静まり返っていた。レナが魔術で手近な照明を点けると、床に点々と血が滴っているのが見える。
レンドルのものに違いない。彼も何かしらの傷を負っているということだ。レナは血痕を辿りながら地下へと急いだ。
巫女の洞窟へ繋がる扉は開いている。通路の中は、漆黒の闇だった。
「……!」
レナは小さな物音を聞いた。通路の奥からどんどん近付いてくるそれは、誰かの足音のようだ。
やがて入口に姿を現したのは、エディトを腕に抱えたレンドルだった。
「レナ医長」
レンドルは呟き、ぐったりとして動かないエディトを床に寝かせると、自身もその場に倒れ込んだ。
彼の左目からは黒ずんだ血が滴り、周囲の皮膚も黒く変色していた。暴走したオルデンの樹の魔力を、そこに受けたらしい。
「私はいいんです。エディトをお願いします……」
そう言って、力尽きたように目を閉じる。
レナは素早く二人を見比べた。今はどちらを優先すべきか判断しなければならない。
エディトは一見して何の外傷も無いが、顔は死人のように蒼白で、呼吸も定かではない。レナは彼女の頚に指先を当てた。脈はほんの僅かしか触れず、体は氷のように冷たかった。
(仮死状態……)
レナは驚いた。エディトは何らかの力によって仮死状態にさせられている。恐らくは巫女の力だ。
体力と魔力の消耗を最小限にして、生命を維持する。今ここで仮死状態を解けば、エディトは死ぬ可能性があった。
「医長!」
医務官のルカが走り込んで来る。そして倒れているエディトに視線を移し、息を呑んだ。
「勘違いするな、仮死状態なだけだ。ここで処置するのは危険だから、二人を病院に……いや、自警団本部に運ぶぞ」
レナは言った。
「病院の方が、環境は良いのでは?」
ルカはそう言いながら、指示されるでもなくレンドルの側に屈んで彼の治療を始める。
「安全面では劣る。近衛団の団長と副団長だぞ。ここぞとばかりに同盟の奴らが襲撃してきたらどうする。医務官が戦闘に向いていないのは百も承知だろう」
「確かに。……よし、完了」
レンドルの片目を覆うように包帯を巻いて、ルカは立ち上がった。
折しも、病院専門の運び屋、オリエッタがその場に現れた。彼女は市民の移送に関わっていたのか、その額に汗をかいている。
「お待たせしました、医長」
「呼んでないけどな」
レナはそう言いながらも、安堵の表情を浮かべていた。オリエッタの能力には信頼を置いているのだ。
「でも、医長の居るところに重病人あり、ですから」
「自警団の医務室に」
レナが端的に言うと、次の瞬間には、その場から全員の姿が消えていた。