55、囮
街の賑わいから遠ざかり、鬱蒼と繁った森を抜ける。拓けた視界の向こうに遠く、それが姿を表す。
隊員たちの視線の先には、スタミシア監獄を囲う高い煉瓦塀がそびえていた。塀から所々突き出して見えるのは監視塔だろう。時折その中で、小さなランプの明かりが移動している。
視線を下ろすと、東西に長く伸びた深い谷が此方と彼方を隔てているのが見えた。谷底では月光を映した川が穏やかに流れている。しんと静まった冷たい夜気の中で、その音が耳に届く。
「間違ってもサーベルは抜くなよ。月明かりが反射したら、獄所台や同盟の奴らに気付かれるかもしれない」
エスカが呟く。彼らは皆、フードの付いた黒い外套を纏って夜陰に紛れていた。
近衛団の援護のおかげか、ここへ至るまでに彼らが同盟に襲撃されることはなかった。だが、まだ安心出来る状況ではない。最大の目的は、獄所台に気付かれずに山へ侵入することだ。
「それより、これ、渡るの……?」
目の前にある古びた吊り橋を指差して、ブロルが恐る恐る尋ねた。橋は辛うじて向こう岸まで繋がっているが、長い間風雨に曝されていたせいか、縄は千切れかけ、床板は所々腐り落ちている。踏み外せば谷底に真っ逆さまだ。
「監獄へ繋がる正式な橋はもっと東の方にあるが、そこを渡るのは危険すぎる。まあ、こっちは別の意味で危険に見えるけど……心配するな、落ちはしないから」
エスカはそう言って進み出ると、吊り橋を支える柱にそっと手を触れる。途端に、橋は真新しい姿に変化した。
「すごい。直したの?」
ブロルが目を輝かせるが、エスカは首を振って否定した。
「いや、橋の元々の姿がこれだ。一般市民が渡ったりしないように、魔術でわざとこんな見た目にしてある。リスカスにはこんな仕掛けが何ヵ所か存在するらしい。……さ、行こうか。ちょうど月も翳ってきたし」
雲がゆっくりと流れて、月を覆い出していた。エスカは吊り橋に一歩踏み出し、隊員たちも粛々と後に続く。
橋を渡り切ったところで、最後尾に付いていたルースがふと後ろを振り返った。
そして、息を呑んだ。
ほんの数歩の距離に、自分達と同じく黒い外套を纏った男が立っていたのだ。足音も気配も、何一つ感じなかったというのに。
雲間に覗いた月明かりに照らされたのは、ルースがよく知る人物の顔だった。
「ロット隊長……!」
全員が一斉に振り向き、ロットの姿を捉える。カイは咄嗟にセルマを後ろに庇い、他の隊員たちも一歩引いて身構えた。
ロットは無表情のまま彼らに近付くと、一人ひとりの顔に視線を移していった。
「どうした。私は人殺しだぞ」
静かにそう言った。それは言葉の綾などではなく、紛れもない事実だ。自警団の魔導師を殺した犯人――それを分かっていても、敵だと切り捨てられない苦しさがルースにはあった。カイも微かに表情を歪め、エーゼルなどは明らかに目を赤くしていた。
「犯罪者を前にして、突っ立っていろと教えたか?」
「……ここへ来た目的は何ですか」
ルースは葛藤を振り払い、毅然として言った。ただでさえロットの裏切りに傷付いている部下に、動揺した姿を見せるわけにはいかない。
ロットはそれを知ってか知らずか、ルースから目を逸らし、質問には答えなかった。
その時だ。
「エイロンを殺すのは許さない」
ブロルがロットの前へ進み出て言った。彼らしくない、強い口調だった。
「ガベリアの悪夢が彼のせいだってことは、僕も知ってる。それであなたの大切な人が消えてしまったことも。でもエイロンは――」
「君がブロルか。スタミシアの、山の民族だな」
ロットは生気のない目でじっとブロルの顔を眺める。その言い方から察するに、彼はどこかでブロルについての情報を得ていたようだ。
「私を説得するのは諦めた方がいい。道を踏み外した人間の心に訴えかけたところで、何も響かないのだから」
次の瞬間、ロットは素早くブロルの手を引いた。体勢を崩したブロルはそのまま彼の腕の中に収まり、目を閉じてぴくりとも動かなくなる。
「ブロル!」
一斉に向かってこようとする隊員たちを手で制し、ロットは言った。
「動くな。邪魔をしなければこの子に危害は加えない」
魔術を掛けられたわけではないのに、隊員たちは身動きが取れなかった。ロットは既に人を殺している。本気になればブロルですら手に掛ける――彼の目を見て、それを感じ取ったのだ。
「お前たちは魔導師だ。……道を間違えるなよ」
ロットはブロルを抱えたまま、じりじりと後退っていく。その後ろは谷だ。
「隊長っ!」
ルースの叫びも虚しく、ぐらりと傾いだ二人の体は、そのまま谷底へと落ちていった。
人気も無く静まった夜の空気の中、監獄へ繋がる正式な橋の上を、人影が駆け抜けていく。自警団の制服を着た少女だ。シルバーブロンドの髪とその背格好はセルマと見紛うようだったが、彼女の腰にはサーベルが携えられていた。
同盟の男が二人、彼女を追っている。徐々に距離が縮まり、腕を伸ばせば届く範囲に男たちが踏み込む。次の瞬間だった。
彼女は振り向いてサーベルを抜いた。敵が動揺したその一瞬に、肩口を切り付け、後ろへ回り込んで脚の腱を切った。
反撃を予想していなかった同盟の人間たちは、為す術なく橋の上に倒れ込んだ。
「セルマが、なんで……」
苦痛に顔を歪めながら、一人が少女を見上げた。巫女がサーベルなど使えるはずがない、そう思っていたのだ。
「私はセルマじゃない」
彼女はそう言って髪を掴むと、唐突にそれを引っ張る。はらりと外れたかつらの下には、黒髪が覗いた。
「クロエ、大丈夫か!」
第一隊のフローレンスが橋の上を駆けて来る。そして倒れた二人に視線を落とすと、魔力を封じるロープで手早く捕縛した。
「お前ら、謀ったのか。セルマはどこだ」
縛られながら、同盟の一人が呻く。
「騙される方が悪いんだぜ。エイロンがいなきゃ、本物と偽物の区別も付かないんだな」
フローレンスが鼻で笑ってその男の額に触れると、男はすぐに気を失った。彼はそのまま、男の上着の中をごそごそと探る。ややあって、そこから拳銃を取り出した。
「なるほどね」
フローレンスはそれを手に、もう一人の男に近付いていく。そして側に屈んだかと思うと、拳銃の撃鉄を起こして男の額に突き付けた。
「魔導師がどうして銃を使わないか、教えてやろうか?」
刺さるように冷たい声音だった。クロエは止めようにも止められず、固唾を呑んで状況を見守る。
男は気丈にも、フローレンスを睨み付けていた。
「銃で魔導師が何人殺されようが、俺たちがこれを使うことはない。人を簡単に殺せる道具だからだ。分かるか?」
男は答えない。
「どんな理由があろうとも人を殺してはならない、それが魔導師の掟だ。たとえ相手が、お前らみたいなクソ野郎でもな」
「綺麗事を並べるな」
男が吐き捨てた。
「ああ、綺麗事だよ」
フローレンスは撃鉄を元に戻して、銃を投げ捨てた。
「掟を破った魔導師なら、身近にいる。だからどうしたって話だ。俺には関係ない」
それがロットのことを指しているというのは、クロエにも分かった。フローレンスは淡々と続ける。
「人を傷付けることが魔導師の仕事じゃないってのは、嫌というほど理解してるんでね」
そう言って、その男も気絶させた。彼は立ち上がり、クロエのサーベルを顎でしゃくった。
「そんなもの、早く仕舞っちまえよ。こいつらは俺が切ったことにしとくから」
本来、クロエは囮になるだけの予定だった。念のためサーベルは持っていたが、剣を抜くことは事情を知るイーラに止められていたのだ。
しかし、襲撃してきた同盟の人数が予想外に多かった。陽動作戦に参加した隊員はクロエも含めて7人。本物のセルマの一団と同じにしてあった。対して同盟は、20人近くいた。
作戦が上手くいった証拠ではあるが、ここで偽物と気付かれてはセルマたちを危険に晒すことになる。少なくとも彼女らが山の入口に辿り着くまでは、時間を稼ぐ必要があった。
そこでクロエは、恐怖に戦いたふりをしてその場から逃げた。医務官とはいえ足は速い方だ。彼女が攻撃など出来ないと高を括って、同盟がたった二人で追ってきたのも運が良かった。
「はい」
クロエはほっと息を吐いて、サーベルを鞘に収める。今回は自制心を失わずに戦うことが出来た。人を傷付けるのが魔導師の仕事じゃない――先程のフローレンスの言葉が、まだ耳に残っていた。
「カイが無事だといいな。君がこの作戦を言い出したのも、あいつのためだろ?」
フローレンスはにやりと笑ってクロエを見たが、彼女は真顔のままこう返した。
「魔導師として自分が出来ることをしようと思っただけです。カイに、許されたかっただけかもしれないけど……」
言葉に詰まった彼女の頬を、涙が一筋伝っていった。