9、目的
「巫女を殺す?」
物騒では済まされないような話に、カイは眉根を寄せて声を落とした。巫女が死ぬ、つまりは魔力の秩序が乱れるということだ。
ガベリアの悪夢で巫女のタユラが消え、秩序は既に乱れ始めている。『魔術で人の身体を傷付けたり、命を奪うことは出来ない』という大きな秩序だ。今までは存在しなかった魔術による殺人事件が、その頃から発生するようになっていた。
秩序は大きく分けて二つ。もう一つは『魔術でゼロから物を作り出すことはできない』だ。それが乱れたらどうなるか――。
「おっと、そろそろ先輩たちも来るぞ。早く行け。絡まれたら面倒臭いことになる。最近殺気立ってるからな……」
第三隊は常に殺気立っていると言ってもいいくらいだが、それ以上にということだろうか。オーサンは何食わぬ顔で、森の出口の方を顎でしゃくった。それからセルマを一瞥して言う。
「その子がどういう理由で参考人になっているのか知らないが、カイ、お前がちゃんと守ってやれよ。自警団の中は絶対に安全ってわけじゃないぜ」
意味深長なオーサンの発言を繰り返し考えながら、カイは本部に向かって屋根の上を走っていた。彼に背負われているセルマは、不服そうな顔で呟く。
「重いだろ。自分で走れるから、下ろせ」
「何のための魔術だと思ってんだ。別に重くない。それに足挫いてるんだから、無理だって」
ぴしゃりと言われて、セルマは口を閉じる。誰かに背負われるなど彼女にとっては屈辱でしかなかったが、助けてもらった恩もあり、今は言うことを聞くしかなかった。
「そういえばお前、さっき逃げたわけじゃないって言ってたけどさ。だったらどうして医務室から出ていったんだ?」
カイが尋ねるが、セルマは無言だ。
「おい、正直に答えないと副隊長に尋問されるぞ」
無論、ただの憶測だが、セルマのこととなるとルースは尋問でも何でもやりかねない雰囲気だった。
「……尋問って何だよ」
「本当のことを喋るまで、魔術で精神的に追い詰めるんだ。耐えられる奴なんていない」
カイも入隊当初、経験を積むために被験者となったことがある。手始めにメモを渡され、何を聞かれてもそこに書かれた言葉を絶対に明かさないように、と指示された。
しかし、尋問が始まると実に呆気なく吐いてしまった。魔術による精神操作によって、恐怖、焦燥、絶望、ありとあらゆる負の感情に心が支配され、真実を話して解放されることしか考えられなかったのだ。
「俺は脅してるんじゃない。心配してるんだ」
なおも無言を貫くセルマに、カイはそう付け加えた。
「お前が本部に連行された理由とか、あの首飾りのこととか……俺は正直、何が起こっているのか分からない。一応新人だから、知らされていないことも多いと思うし。今は上から言われた通りに行動してるだけだ。でも」
不意に足を止める。明かりもまばらな闇の中、遠くに本部の建物が見え始めていた。
「お前が何か酷い目に遭わされるのを黙って見てろって言われたら、それは出来ないと思う」
それを聞いて、セルマは微かに心を揺さぶられた。小さく息を吐き、つぐんでいた口を開いた。
「優しい奴なんだな、あんた。私は友達でも何でもないのに。……分かったよ、話す。とりあえず下ろせ」
カイが背中からセルマを下ろすと、彼女はこう話し始めた。
「約束があったんだ。今日、あの墓地で、人と会う約束をしていた」
「誰と?」
「クリシュターっていう男。黒いローブで、フードをすっぽり被ってて。だから顔は分からない。ただ、凄くがさついた声をしてた。ぞわっとするような。
そいつは一週間くらい前にスラム街に来て、『生き別れた子供を探している夫婦がいる』って、私に写真を見せたんだ。写真の女の人は私と同じ髪色で、そいつは、もしかしたら君がこの人の娘なんじゃないかって言った。生まれてすぐに誘拐されたって」
カイは怪訝な顔をして聞いていた。どう考えても、その黒いローブの男は怪しい人物だ。シルバーブロンドの髪は確かにキペルでは珍しいが、スタミシアにはそれなりにいるし、ガベリアにも多かった。髪色だけで親子かどうか確定は出来ない。
「お前、それを信じたのか?」
「最初は信じなかった。でも、日が経つにつれて、もしかしたらって……。写真も、ちょっと顔が似てたから」
そう思いたくなる気持ちも、カイは分からなくはなかった。一人きりで苦しい生活をしているところに、突然、家族がいて自分を探していると言われたら、希望を抱いてしまっても仕方がない。だからそれ以上、追及しなかった。
ただ、その男は危険だ。目ぼしい少女を連れ去って娼館に売る、闇商人の可能性が高い。家族が探しているというのはよくある連れ去りの口実だ。
「それで、そいつに会ったか?」
セルマは首を横に振った。
「その前に、あの山賊に森へ引きずり込まれた」
良かった、と言いそうになって、カイは慌てて口をつぐんだ。闇商人に連れ去られはしなかったが、山賊には怪我を負わされている。全然良くはないのだ。
「そういうことだったのか……。はっきり言っておくけど、もうその男とは会おうとしない方がいい。きっと、お前を拉致して売るつもりだ」
「そんなの分かってる。馬鹿だなって自分でも思うよ。けど、少し信じてみたかったんだ……」
セルマは俯き、その瞳が微かに光ったように見えた。
冷たい風が吹き、外套をセルマに貸していたカイは寒さで思わずくしゃみをする。すると、セルマは顔を上げてふっと笑ったのだった。
「寒がりなんだな」
「うるさい。さっさと行くぞ」
カイはふてくされたように言って、またセルマを背負った。
ふと、北の空を見上げてナシルンの姿を探した。ルースに送ったナシルンが、未だに返事を持ってきていないのだ。
(返事を送るほどでもないってことか……?)
セルマに関しては何か執着がありそうだったのに、と不安に思いつつ、カイは本部へと向かった。
「また会えて嬉しかったよ、ルース・ヘルマー」
轟々と鳴る砂嵐のように嗄れた声が響き、男の黒いローブが風にはためく。
キペルを縦断して流れるカムス川のほとり。街外れのこの場所に人の気配はなく、流れの速い川面に月光が冷たく光っている。
ルースは男の前で、力なく地面に伏していた。背には深々とナイフが突き刺さり、周りの雪をじわりと赤く染めていく。彼は苦悶の表情で男を見上げるが、フード下の顔は陰になっていた。
切れ切れの息で、ルースは言った。
「お前は……誰だ」
「分からないだろうな。ガベリアの悪夢で、私の顔も声も、変わり果ててしまった。だが、知らない方が幸せだ」
男はルースの横に屈み、ナイフにすっと手を伸ばす。
「やめろ……」
「こんな真似はしたくないが、お前がいると、私の目的を達する邪魔になりそうだから。お前が優秀であるが故だ。悪く思うな」
そう言って、躊躇なく背中のナイフを引き抜いた。
呻き声と共に、血潮が弧を描いて飛んだ。男はもはや抗う気力もないルースの首元を掴むと、そのまま川の方へと引きずって行く。
「魔術で殺しても良いが、魔導師がそれで殺されたとなると沽券に関わるだろう? それに痕跡も残る。私は一般人ではない」
朦朧とした意識の中で、川の流れる音がルースの耳に迫る。
「さようなら、ルース。ああ、冥土の土産に教えてあげよう。……私の次の目的は、スタミシアの巫女を殺すことだ」