54、姿
キペルを包む朝靄が晴れて、街に陽が射し込む頃。中央病院の病室には、患者のベッドサイドに立つクロエの姿があった。
「ミネさん……」
彼女は呟いた。穏やかな寝息を立てるミネの顔を見ていると、今起きていることが全て幻で、自分は夢を見ているのだと思える。
しかし、眼前の光景はクロエに容赦なく現実を突き付けた。布団の上からでも膝から下が無いと分かる、ミネの右脚。腐敗が始まったその脚は、レナですら進行を止めるのが精一杯なのだ。クロエの力では、もはや何も出来なかった。
虚しさに胸を締め付けられながら、彼女は以前、ミネに言われた言葉を思い出していた。
――私たちは医務官である前に魔導師でしょう? 人を助けるのは治療技術だけじゃない。魔力を持つ人間として出来ることをするっていうのは、忘れちゃいけないと思うな。
「あ……」
不意に、あのときの感覚が甦る。同盟に医務室を襲撃され、サーベルを握ったときの感覚だ。
神経が研ぎ澄まされ、体が軽くなる。相手の首筋に刃先が触れる。指先に伝わる、肉を裂く感触。血飛沫。驚きに見開かれた敵の目が――
(駄目だ。もう二度と、あんなことをしちゃいけない……)
クロエは震え始めた手をきつく握った。いくら剣術に優れていようと、理性を失って人を殺そうとしてはならない。それはもう魔導師ではない。
だが、自分を失いさえしなければカイたちの力になれる。私は戦える。クロエはそうも思った。
ふと顔を向けたドアのガラス窓に、自分の姿が映っていた。クロエはそれを見て、医務室で話をしたときのセルマを思い出す。似合ってるね、その格好――自警団の制服を着たセルマにそう声を掛けたはずだ。背格好はちょうど、同じくらいだった。
「……ミネさん、私は私に出来ることをします」
そう言い残し、クロエは病室を後にした。
夜の帳が下りた南特区の街は人で賑わっていた。バル街には煌々と明かりが灯り、陽気な喧騒は途切れることがない。
「治安がいいんでしょうかね。最近はキペルでもこんなに賑わってないですよ」
バル街に程近い宿の窓から外を覗きつつ、エーゼルが呟いた。その手にはサーベルが光る。来るべき時に向け、手入れをしていたようだ。
今晩、監獄の裏手にある山へ侵入せよという本部からの指示は、既に全員に伝えられていた。そこはかとない緊張感が部屋の中に漂い、部屋の隅で食料をリュックに詰めるセルマとブロルの二人も押し黙っている。
「南特区だけは外出禁止時刻が無いからな。獄所台のお膝元で犯罪を起こそうなんて奴もいないだろうし……」
ベッドに腰掛けたエスカはそう言って脚を組むと、指先で軽く膝を叩く。ほとんど無意識だが、それは彼が考え事をしているときの癖だった。
イーラの話では、獄所台が山の入口の監視を緩めるのは、午後9時からわずか5分間だ。レナが身を挺して得た機会を、しくじって無駄にするわけにはいかない。
同盟の人間は果たしてどのタイミングで襲って来るか、エスカはそれを考えていた。自分たちが山へ侵入する前か、後か。
獄所台に足止めを喰らいたくないのは同盟も同じ、とすれば、山へ侵入した後に襲って来る方が効率的だ。
(入口でわざと事を荒立てて、獄所台に俺たちを捕らえさせ、自分たちはセルマを奪って逃走……なんて可能性もあるな)
どちらにせよ、襲撃しないという選択肢は同盟側には無いとエスカは考えていた。ガベリアへ一歩でも入れば消えてしまうであろう彼らは、そこへ至る前に必ずセルマを奪おうとするはずだ。
エスカはイーラの言葉を思い出していた。
――ミネの状況から考えると、同じように悪夢で傷を負っているエイロンも動ける状態ではないはずだ。ただそれでも、奴のセルマへの執念は計り知れない。襲撃してくる可能性も考えておけ。
エイロンがガベリアへ入ることが出来るのかどうかは不明だが、セルマを奪ってしまえばそれが可能になるはずだ。脅すなり、魔術で従わせるなり、巫女の力を使わせる方法はいくらでもある。
ただそれは、エイロンがガベリアを甦らせるつもりであればの話だ。彼がセルマを殺すつもりなら、奪われた時点で彼女の命は無いと思わなければならない。
エスカが考えを巡らせていたその時だった。
「えっ」
窓際に立って外を覗いていたルースが、不意に声を上げてセルマを振り返った。
「え、何?」
セルマはびくりと肩を竦める。
「いや、君に良く似た人が人混みの中に見えたから……」
ルースは言った。
「後ろ姿だけだし、ただの見間違いだと思う。驚かせてごめん」
申し訳無さそうに笑って、もう一度窓の外を覗いた。思いの外、気が張り詰めているのだろうか。冷静にならなければと、ルースは小さく息を吐く。
その人物は、既に人混みに紛れて消えていた。