53、二度目
その店の前に立ち、レナは遠いあの日を思い出す。キペルにある高級レストラン『ファム』。コールと初めて食事をしたあの店だ。
ふと目を遣ったガラスには、別人の姿が映っていた。淡いブロンドの纏め髪に、薄く化粧をした顔、黒い長袖のイブニングドレス。一見すると、どこぞの貴婦人に見える。彼女があのレナ・クィンだと言っても、今は誰も信じないだろう。
(変装……とは言わないのか)
これが本来の髪色、本来の顔である。相応に老けているな、とレナは感じた。やはり、誤魔化しも無しにあの容姿を保っているイーラは化け物らしい。
「いらっしゃいませ。ベアトリス・フロイド様でしょうか」
ウェイターがドアを開け、レナに声を掛ける。もちろん、偽名だ。
「ええ」
「お待ちしておりました、どうぞ」
レナはウェイターに着いて、店に足を踏み入れた。ウェイターは一階の席を抜け、奥の階段を上がっていく。
「個室をご用意しております。こちらです」
ドアの前で立ち止まり、ノックをする。
「オーズ様、お連れのフロイド様が到着なさいました」
「どうぞ」
聞こえてきたその声に、レナはにわかに緊張を覚えた。ウェイターがドアを開ける。シャンデリアの控えめな明かりが、紺色のクロスが掛けられたテーブルとそこに並んだ食器を照らしている。そしてその向こうには、眼鏡を掛けた初老の紳士の姿があった。
レナは彼と視線を合わせないようにしながら部屋に入り、席に着く。ウェイターが一礼して出ていき、ドアが閉まった。
「……私の記憶にある姿だ」
紳士が口を開いた。
「近衛団長から連絡が来たのには驚いたが……君の方から会いたいと言ってくれるとは、思っていなかったよ」
「何の理由も無しに会ったりはしない」
レナは視線を上げ、その紳士――コール・スベイズを見据えた。
「自警団の魔導師として、獄所台のあなたに頼みたいことがあるんです」
コールはゆっくりと瞬きをしながら、言葉の意味を吟味しているようだった。
「……それは規律に反することだと分かって、言っているのか」
「はい。本来ならこうして会うこと自体、危険を伴うことです。私にとっても、あなたにとっても」
レナの視線は揺らがない。
「だから、無条件にとは言いません。私の……あなたの子供の居場所を教えます」
コールは少しだけ目を見開いた。
「なぜ、急に?」
「どうしても頼みを聞いて欲しいからです。人の命が懸かっている。そして時間が無い。お願いします」
コールは微かに眉間に皺を寄せ、考え込んだ。沈黙の中、階下で演奏される室内楽の音が聴こえてくる。初めて食事をしたあの日から、25年。二度目をこんなふうに迎えるとは、二人とも予想すらしていなかっただろう。
やがてコールは深く息を吐き、言った。
「レナ。私は二度までも君を裏切ることは出来ない。それに君は、自分のために他人を利用するような人間ではない。何が起きているのか、全て話してほしい」
「……ありがとう」
そしてレナは、巫女であるセルマと隊員たちがガベリアへ向かっていること、それに付随する様々な事実、オルデンの樹が理性を失い始め、ミネの命が危険であることを早口に説明した。まだ、エイロンのことは伏せておいた。
「彼らは今、スタミシア南特区の中にいる。これから監獄の裏手の山に入り、ガベリアへ向かう。恐らく、獄所台の目に止まるはずです。それを見逃して欲しい。出来ますか」
「事情は分かった」
コールは頷いた。
「不可能ではないだろう。しかし我々が止めようとするのは、そこが危険な場所だからだ。ガベリアへ入れば誰しもが命を落とすのは、君も知っているだろう」
「知っています。でも、彼らは巫女が選んだ隊員たちです。巫女であるセルマもいるし、覚悟も出来ている。私も同じように、覚悟を決めました」
「覚悟……とは」
「投獄される覚悟です」
はっきりと、レナは言った。
「こうして獄所台と通じたことは明確な犯罪です。あなたは全てを私に押し付けて構いません。あなたほどの立場なら、それで丸く収まるはずです」
「そんなことが出来るわけ――」
「そうしないと、誰もあの子を守れない」
レナはここで初めて、声を震わせた。
「あなたまで罪に問われたら、誰が守るんですか。……私たちの娘を」
「教えてくれ、レナ。君が私と別れた後に、どうやって過ごして来たのか」
懇願するようにコールは言ったが、レナは首を横に振った。
「今はどうでもいい。娘の名前はフリム・ミード。キペルに住み、王宮に出入りする銀細工職人です。顔を見れば、あなたならすぐに分かるはず。
私は母親として、あの子に何もしていない。でも、あの子を忘れたことなどない。フリムが幸せでいてくれるなら、監獄に入ることなど辛くはないんです。あなたがあの子を守ると約束してくれたら、命すら惜しくはない。お願いします」
レナの頬を、幾筋も涙が伝っていった。
「これが魔導師として、出来損なった母親として、私に出来る唯一のことなんです」
日が沈んでしばらく経ち、夜が深まる頃だった。静かな第二隊の隊長室、その部屋の隅にある衝立の向こうで、がさごそと人影が動いている。
「お前が洒落込むのに手を貸したのは、これで二度目だな」
イーラは自分の椅子に腰掛けながら、衝立の向こうに声を掛けた。物音が止まり、白衣に袖を通しながら姿を現したのはレナだ。そこで着替えていたらしい。
「安心しろ。三度目は無い」
彼女はブロンドのかつらも取り、化粧もすっかり落としていた。いつもと違うのは、微かに赤いその目だけだ。
「セルマたちを見逃す件は、コールにしっかり約束させた。後はお前が指示を出せ。間違えるなよ」
レナは背を向け、部屋を出ていこうとする。
「レナ」
イーラは呼び止めた。
「本当にこれで良かったのか」
コールとの関係も、フリムの存在も、レナの口から全て聞かされた。その上で悩み抜き、コールと会うことを許可したが、やはり後悔は拭えなかった。
「今更か。自警団トップの台詞じゃないな」
彼女は振り返らず、言った。気丈に振る舞おうとしているのをその背中から感じて、イーラは思わず立ち上がる。
「腐れ縁だから言わせてもらう。お前が獄所台に捕まるかもしれないのに、冷静でいられるほど私は出来た人間じゃない」
「今からでもそうなればいいだろう。お前なら、出来るよ」
レナは振り返り、凪いだ瞳でイーラの目を見据えた。
「そもそもそれは、まだリスカスが続いていたらの話だ。今はセルマをガベリアへ連れていく。それだけ考えろ。私は私の、お前はお前の為すべきことを為せばいい。今までと何も変わらない。違うか?」
「……そうだな」
イーラは呟いた。彼女の目も、微かに赤くなっていた。
「半魚人に構っている暇は、無いな」
「ふん、お互い様だ。……じゃあな、クソ魔女」
今までイーラには一度も見せなかったような顔で微笑み、レナは部屋を去っていった。