52、腐敗
「痛っ……」
夜半、ミネは自室のベッドで目を覚ました。義足を外してある右脚に、いつもと違う痛みを感じる。彼女は枕元の明かりを点け、寝間着を捲った。そして、小さく悲鳴を上げた。
膝下の切断部から大腿にかけて、脚が真っ黒に変色していた。先端は血が滲んだかのようにぬるりと光って、シーツに黒い染みを作っている。
「嘘……」
ミネは速まる鼓動の苦しさに胸を押さえた。医務官として多くの傷を見てきたが、こんなものは初めてだった。それに、寝る前は何事もなかったはずだ。
彼女は震える手で脚の先端に触れた。腐った果物のようにぐにゃりとした感触があり、肉の塊のようなものが剥がれ落ちる。白い骨が顔を覗かせる。
「嫌だ……嫌、嫌ーっ!」
ミネは絶叫し、のたうち回ってベッドから転げ落ちた。
「……ミネさん! どうしたんですか!? ミネさん!」
隣室の女性隊員が激しくドアを叩き、やがて部屋に飛び込んで来た。そして床に這いつくばる彼女に駆け寄り、息を呑んだ。
「ミネさん、その脚――」
「お願い、医長を……レナ医長を呼んで」
震える声でそう絞り出し、ミネは意識を失った。
ミネが目を覚ますと、部屋には燦々と陽の光が射し込んでいた。だが、目に入る景色は自分の部屋とは違う。頭がぼんやりとして全身が熱く、重怠かった。
「気が付いたか」
枕元で声がする。顔を向けると、レナが複雑な表情で彼女を見下ろしていた。
「医長……」
ミネが体を起こそうとするのを、レナは肩を押さえて止めた。
「熱がある。まだ寝ておけ」
「でも、脚が」
「出来るだけの処置はしたから大丈夫だ。ここは病院だし、医務室よりは安心だろう。今は休め」
レナが額に指を添えると、ミネはすっと目を閉じ、穏やかな寝息を立て始めた。
「……すまない、ミネ」
レナは唇を噛む。今ここで現実を突き付けてしまえば、彼女は今度こそ正気を失うかもしれない。無理矢理にでも眠らせておく必要があった。
それに、レナはまだ真実を話す心の準備が出来ていなかった。ガベリアの悪夢で脚を失った彼女に、そこから更に腐敗が始まっている、などとは。
一般的な傷口も壊死することはある。だがミネの脚はそうではない。腐敗と表現する他ないような、現実にはあり得ない状態なのだ。レナがバジスと二人で必死に治療し、何とか進行を止めていた。
「失礼します」
病室のドアが静かに開き、近衛団の魔導師が一人、入ってきた。団長のエディトだ。
彼女はすっとレナの側へ行き、眠るミネに視線を落とした。
「全てが終わるまで、ずっと眠らせてあげたいですね」
「私も出来るならそうしたいが……イプタは、何と?」
エディトは顔を上げ、レナに向き直った。彼女はつい先程まで、洞窟でイプタと話していたのだ。
「医長の予想した通り、彼女の脚がこうなったことにはオルデンの樹が関係しているだろうと。樹の魔力が徐々に増しているのだそうです。悪夢で彼女の脚が奪われたときの呪い……いえ、魔力がまだそこに残っていて、樹と呼応し、彼女を蝕み始めたのだと」
「どうにか止められないのか」
「私が見る限り……イプタの力はもう、底を尽き始めています。理性を失い始めたオルデンの樹は、巫女である彼女すら取り込もうとしている。しかしセルマがガベリアへ辿り着くまでは耐えてみせると、イプタは言っています」
エディトは淡々と続ける。
「もはや猶予は無くなってきました。我々は何としてもセルマをガベリアへ連れていき、オルデンの樹の暴走を止めなければなりません。そうでなければ、この子の命が危ない。……どのくらい、持ちそうですか」
レナは険しい顔でミネを見つめたまま、言った。
「長くて一週間だろう。脚より上が侵食されれば、もう魔術では助けられない。間に合うのか?」
「セルマたちは既に、南特区に入ったという情報を得ています。あとは獄所台裏手の山を抜け、ガベリアに入るだけ。我々は私を含め、その援護に人員を出します。
しかし、彼女らが獄所台に見咎められれば、その分足止めを食らうことになる。彼らは容赦などせずに、尋問をするはずです」
「……見逃して貰えばいいだろう」
レナは真っ直ぐにエディトの目を見た。
「まさか。獄所台が我々の意見を飲むなど、有り得ません」
「私に考えがある。協力してくれるか」
視界が歪んでいる。頭が割れるように痛む。思わず顔を押さえた手に、どろりと嫌な感触があった。
エイロンは呻き声を漏らしながら、廃墟となった建物の床にくずおれた。崩れ落ちた壁や屋根はほとんど用を為さず、静かに降る雪は床を白く染めている。そこに、エイロンの顔からぽたぽたと黒い液体が滴った。
彼は一晩中、ロットから逃げていた。自分に追跡の魔術が掛けられていることに気付き、それを解いてやっと逃げおおせたのは、空が白み始めた頃だった。
「くそ……」
嗄れた声で悪態を吐き、エイロンは這いずるように壁際に寄って、そこに背を預けた。
連なる山の稜線から、朝陽が顔を覗かせ始める。その清らかさが目に刺さるようで、エイロンはきつく目蓋を閉じた。
――俺は何をしているんだ。何のためにこんなことをしている。
自問する声が脳裏に響く。
――ガベリアを甦らせるんじゃなかったのか。それが使命じゃないのか。
もう一つの声が答える。
――リスカスなど滅ぶべきだ。嫌というほど知っているだろう。この国はお前から全てを奪い、そして何も与えはしない。セルマを殺せ。邪魔する者は全て殺せ。
――何故だ。
――お前はタユラを殺した。違うか? 己の罪を責められ、逆上し、その手で命を奪った。お前は生きている限り、その後悔に苦しみ続ける。逃れる術は一つだ。リスカスを滅ぼせ。復讐しろ。お前を造り上げた全てを消せばいい。
時間が無いぞ。オルデンの樹は今もお前の体を蝕んでいる。頭が腐り落ちる前に動け。全てを道連れにしろ。
「やめろ……」
エイロンは目を開けた。今まで辛うじて見えていた片方の視界が、闇に塞がれている。顔を押さえていた手の隙間から、何かが落ちて床を転げた。彼の目だった。
それを一瞥すると、エイロンはよろよろと立ち上がり、建物を後にした。