49、命の懸け方
エディトは音を立てないように、そっと団長室を出る。窓から昼日中の太陽が差し込む廊下は静かで、そこに人の気配はなかった。
彼女は用心深く廊下を進んでいく。銃で負った傷はまだ完全に癒えておらず、「寝ている必要はないが、出来るだけ安静にしているように」と医務官に指示されていた。本部内を歩き回っていたら、レンドルに捕まるかもしれない。
「無理をしてはならないと言われたはずです、団長」
柱の陰から声がし、エディトは立ち止まる。顔を向けると、そこに腕を組んだレンドルがもたれかかっていた。魔術で気配を消していたのだろう。
「部屋に戻って下さい。せめて今日1日はじっとしていて貰わないと困ります」
「……口うるさいですよ、君。傷口は治して貰いました。もう平気です」
エディトは不満顔のレンドルを無視して先へ進んで行く。レンドルは彼女の横に並んで歩きながら、言った。
「何かあるなら私に指示して下さい。そのための副団長です」
「そういう問題ではありません。これは私にしか出来ないことです」
「一体、何をするつもりですか」
エディトは立ち止まり、彼の目をじっと見た。
「止めても無駄ですよ、レンドル。命を落とすその瞬間まで、生きて戦おうとするのが覚悟。そう言ったのは君です。私は戦うために必要な真実を確かめようとしているだけだ」
「真実?」
「ええ。彼女だけが知る真実……、これからイプタに会いに行きます」
洞窟の中は静まり返っていた。キペルの巫女イプタはエディトに気付いているのかいないのか、オルデンの樹を見上げたままそこに佇んでいる。
エディトはやや緊張の面持ちで彼女に近付いていく。手の届く距離になってようやく、イプタはゆっくりと振り向いた。
「きっとここへ来るだろうと思っていましたよ、エディト」
「イプタ……」
エディトは血の気が無い彼女の顔を見て、思わず声を出した。そもそも青白い顔のイプタだが、それでも今まではちゃんと生気があった。今はそれが全く感じられない。
イプタは力なく微笑み、彼女から視線を逸らした。
「今さら驚くこともないでしょう。私の存在はもはや亡霊と同じ。千年も生きるということは、そういうことです」
「……もう巫女の力が無いと?」
「左様。本来ならば、私はとうに役目を終えているはずでした。400年前に、リュマが殺されなければ」
リュマはイプタの後を継ぐはずの、巫女の器だった。まだ赤子だった彼女は、近衛団員の手引きで何者かに誘拐され、命を絶たれたのだ。
「近衛団の裏切りには、私も胸が痛んだ。……貴女を否定しているのではないですよ、エディト。昔の話です」
「存じています。近衛団の腐敗の歴史は。故に自警団が生まれた。彼らは我々を監視する役割も持っています」
「ええ。長い年月を経て、今の近衛団がある。世とは移り変わるもの。……私は、あまりに多くを見すぎたようです」
イプタは目を閉じ、小さく息を吐いた。そしてまた目を開け、黒曜石のように煌めく瞳でエディトをじっと見つめた。
「何を聞きたいのですか、エディト。貴女の覚悟に私は応えねばならない。オルデンの樹に抗える、今のうちに」
巫女とはいえ心は読めぬはずなのに、そうされているような気になる。ごくりと唾を呑んでから、エディトは切り出した。
「ロットのことです。あなたは、ガベリアの悪夢に関する真実を知った彼が、復讐に走ることを分かっていた。分かっていて、全てを話したのですね」
「左様。私はロットに、タユラの首飾りから得た記憶を全て伝えました。復讐に走ることも……ええ、彼が悪夢で家族を失い、それがどれほど彼の心を蝕んでいたか、私は知っていました」
「なぜそれほど彼に肩入れするのですか。かつて近衛団にいて、あなたに謁見出来たというだけの理由でしょうか」
俄に緊張しながら、エディトはそう尋ねた。これが全ての核心だ。
イプタは目を伏せ、こう言った。
「人から見れば、愚かなことと思うでしょう。実際愚かなことなのです。巫女が人への感情を捨てきれなかった末路は、タユラを見れば明らかなのですから。
だが、人間に生まれた我々が人間以外になることなど出来ない。何百年経とうと、どれほど人と隔絶されて育とうとも。
夢に見ることがあります。私が巫女ではなく、リスカスに住む一人の少女であったならと。貴女にも……分かるでしょうか」
視線を上げたイプタの表情はほとんど変わらないが、その言葉に、エディトは切実な思いを感じ取っていた。
近衛団の団長候補として育てられたエディトには、自分が普通の人間であったらと願う気持ちが痛いほどに分かる。巫女と団長の重みは違えど、その孤独は同じはずだ。
エディトが言葉を探していると、イプタはこう続けた。
「人の心に触れたいと願う孤独は、人のみが癒せる。千年あまり生きてきて、私が出した答えです。この身は人としてはあり得ないほどの年を重ねても、心は、巫女になった17歳の頃のまま。永遠にそのままなのです」
冷静に言葉を綴る彼女の頬を、涙が伝っていた。エディトが初めて見る、巫女の涙だった。
「イプタ……」
「ロットは私に、こう言ってくれた。『あなたにも、孤独があるのでしょうね』と。その一言で、私は自分が人間であることを思い知りました。特別な感情……巫女としては許されない感情を、彼に抱いてしまったのですから。
あなたが思う通りなのです、エディト。私はロットを愛しています。彼に愛すべき家族がいようと、それは関係がない。私の一方的な想い、それだけです」
「だから、復讐を止めなかった。ロットの心が癒えるなら、彼が望む通りにさせようと思ったのですか」
エディトは少し語気を強めた。
「結果として彼は人を殺しました。それも予想が付いたことではないのですか。それがあなたの愛だというのなら――」
「間違っている。左様。私にも分かっているのです」
イプタはエディトの言葉を遮った。
「私は自分の愚かさを理解しています。そしてロットが家族のこととなると自分を制し切れないことも、分かっている。私は彼を焚き付けた。破滅に向かわせようとしました」
なぜ、とエディトは呟いた。なぜ愛する人間に破滅の道を行かせるのか。
「私の愛は、タユラとは違う。彼女は純粋にエイロンを愛し、彼が幸せであることを願った。共に生きることを願った。そして彼の間違いを正そうとし、殺された。
しかし、永く生きすぎた故でしょう。私は共に生きるなどという希望には、疲れ果てているのです。どう足掻こうと、私は生き続け、彼は先に死ぬのですから」
イプタは淡々と話す。
「私はもうすぐ役目を終える。それは間違いない。ならば共に滅びたい。それが私の愛です」
エディトは何か言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。目の前にいるのは17歳の少女。どれほど賢く、常人ではあり得ないほどの知見を得ていても、心はそこで止まっているのだ。
誰とも心を通わせず、孤独に消えていく。17歳の少女がそれを恐ろしいと思わずにいられるのか。エディトには分からなかった。
ただ、確かめなければならないことがもう一つある。
「……巫女としてのあなたに問いたいのです。あなたには、どんな未来が見えているのですか」
イプタは微笑み、こう答えた。
「巫女に未来を見る力はありません。しかしこれだけは確かです。セルマは、我らの、リスカスの希望。彼女はガベリアを甦らせ、巫女など必要のない世界を与えてくれます」
「それはつまり……オルデンの樹が消えると?」
樹が消えれば、魔力も消える。文字通り、リスカスの全てが変わることになる。
「分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。でもそれが、タユラが願った世界かもしれませんね。魔力で誰も悲しむことのない世界。恐ろしいですか、エディト」
すぐには答えられなかった。エディトが生まれたときから、魔力は当然のものとしてそこにあった。むしろ、それが全てだった。
魔力が消えれば、自分はただの人。自分だけでなく、魔力を使って生きている人々全てがそうなるのだ。
でも、とエディトは思った。この世界には魔力を持たない人々もいる。彼らはしっかりと生きている。決して不幸ではない。
「……そうなれば、私も何か、手に職を付けなければなりませんね」
エディトは不思議と、悲観する気持ちにはならなかった。魔力が無くなれば、団長というこの重荷からも解放される――心のどこかでそう思っていたのかもしれない。
イプタは頷き、小さく息を吐いてから、真っ直ぐにエディトの目を見た。
「心優しいエディト。貴女はきっと、ロットを救いたいと考えているのでしょう」
「ええ、もちろんです」
エディトの目は凛として揺るがない。
「私が、彼を破滅へ導いたとしてもですか」
「命の懸け方は、自分で決めるものです。誰かに導かれるものではない。ロットは私に『絶対に死ぬな』と言いました。魔導師の道からは外れたとしても、彼はまだ、人間をやめてはいない。私は諦めたくありません」
「……やはり、私は間違っているのですね」
イプタは自分の言葉を噛み締めるように目を閉じる。涙がまた一筋、その頬を伝った。オルデンの樹がざわめき始める。イプタの顔から、更に生気が奪われたように見える。
「人と共に年を重ねられた貴女が、羨ましい。強い心とは、孤独の中では決して生まれ得ぬもの。今更それに気付いたとて、もう遅いのでしょう。タユラが正しかった。私は彼女のことを、突き放すべきではありませんでした」
「間違いのない人間などいません。あなたも、人間です」
エディトは強く言った。樹のざわめきが、ぴたりと止まった。
「ありがとう。しかし、例え人間だとしても、私は巫女として終わらねばなりません」
イプタは目を開けた。何かの決意がそうさせたのか、青ざめていた顔には血色が戻っている。そして、彼女は微笑んでいた。
「行きなさい、エディト。貴女が言うように……私の命の懸け方は、私が決めましょう」