48、優しい眼差し
街の人々が仕事に取り掛かり始める朝8時、カイたちは無事に南6区に到着して馬車を降りた。
「乗換え場まで行かなくても、よろしいんですか?」
馭者がそう尋ねるが、エスカは首を振る。
「ちょっと、駐在所に顔を出さなきゃならないのでね」
「左様ですか。では、お気を付けて」
馬車が去っていくと、エスカは素早く路地裏に入り、手にした大きなトランクを地面に置いた。それを開けると、中からセルマがよろよろと這い出てくる。例によって、そこに身を隠していたのだ。
彼女が立ち上がるのに手を貸しながら、カイはエスカに尋ねた。
「駐在所に寄るんですか?」
「いや。あれは単なる目眩ましだ。同盟の奴等があらゆる交通機関を見張っている可能性もあるだろう? チップは渡したが、あの馭者が口を滑らせないとは限らない」
「確かに」
「追っ手がいるかもしれないなら、急いだ方がいいだろ。早く病院に行こう」
セルマが外套の皺を伸ばしながら言う。
「……そうだな」
心なしか緊張した面持ちで、カイは歩き出した。
カイの母親が入院しているスタミシア第三病院は、街の中心部にあった。少し煤けた煉瓦の壁が歴史を感じさせる、3階建ての病院だ。門から建物の入口に至るまでの前庭は広大で、ちょっとした植物園のようだった。
三人は中央の通路を進んでいく。よく手入れされた灌木や花壇を埋める植物は、冬でも可憐な花を咲かせて庭を彩っていた。
「ロートリアンさん、そろそろ中に入りませんか? 風邪引いちゃいますよ」
右手の方から声が聞こえた。病院の看護官が、庭に出ていた誰かを呼んだらしい。ロートリアンはスタミシアでそれほど珍しい名字ではないが、カイは思わずそちらに顔を向けた。
冬薔薇の木の前で、一人の女性が籠とハサミを手に花を摘んでいる。厚手のガウンを着ているが、その下は病衣だった。どうやらここの患者のようだ。
「もう少しだけ。大丈夫ですよ、今日は暖かいですから」
彼女は優しく微笑み、また花を摘む作業に戻る。看護官は「無理はいけませんからね」と笑い、建物に入っていった。
カイは引き寄せられるように女性に近付いていく。淡いブロンドの髪と、その優しい眼差し。何年会っていなくても、見間違えることなどない。
彼女もまた、自分の方へ向かってくるカイに気が付いて手を止める。そして、みるみるうちにその目に涙を溢れさせた。
「カイ……」
「久しぶり、母さん」
涙を堪えているせいで、カイの目は真っ赤だった。声は詰まり、それ以上の言葉が出てこない。
母親のパトリーは手にした籠とハサミを地面に投げ置いて、言葉は必要ないとでもいうように、カイを強く抱き締めた。
「本当に、魔導師になったんだね」
パトリーは瞳を潤ませたまま、そう話した。病院内にあるカフェに人はまばらで、カイは端の方の席に、母親と向き合って座っていた。
久しぶりにじっくりと見たパトリーの顔は、年を取ってはいるが、以前よりも生気が戻っているようだった。
「私ね、正直に言うと……あなたが途中で諦めて、スタミシアに帰って来ると思ってた」
「確かに、諦めそうになったことはある」
カイは少し照れたような表情をした。他人には絶対に見られたくない顔だが、今はエスカもセルマも別の場所にいる。取り繕う必要もないし、パトリーもその方が嬉しいだろうとカイは考えていた。
「魔術学院って、想像以上に厳しくてさ。途中でやめていった仲間も沢山いたし。でも魔導師になるのは俺が自分で決めたことだから、絶対卒業するって決めてたんだ」
「カイはお父さんに似て、頑固だもんね」
パトリーは笑った。
「性格だけじゃなくて、見た目もすごく似てきた。そのぴょんと跳ねた癖毛とかも」
「これは、似ない方が良かったよ」
カイは慌てて、自分の髪を撫で付ける。どう頑張ってもどこかしら跳ねてしまう分、ベイジルより質の悪い癖毛かもしれない。
「ところで、母さん。退院の話は出てるの?」
「退院かぁ。もう長いこと入院しているから、ここが家みたいになっちゃったけど……、そうだよね」
パトリーの顔は不安に翳った。
「先生からも話は出てるよ。もう治療の必要はないし、そろそろ退院しても大丈夫だって。でも、一人になるのが怖い。また誰かがメニ草を持ってきたらって思うと……」
「母さん」
カイは腕を伸ばし、彼女の小さく震える手を優しく握った。
「また、俺と一緒に暮らそう。これから……大事な仕事があるから、それが終わったら」
ガベリアへ行くという事実は、言わないつもりだった。夫を亡くし、息子まで死地に赴くと知ったら、パトリーの心がもたないと思ったからだ。
生きて帰れる保証はない。しかし、カイは死ぬつもりもなかった。
「俺もやっと、守りたい人をこの手で守れるようになった。ずっと憧れてた父さんみたいにさ。だから大丈夫。一緒に、あの家に帰ろう」
「……そうだね」
パトリーの瞳を曇らせた涙が、まばたきと共にすっと頬を伝う。それが悲しみの涙ではないことは、彼女の微笑みを見れば分かった。
「何だか、びっくりしちゃうな。私が知らない内に頼もしくなって。……ううん、違うか。あなたは最初から、勇敢で強い子だった。よく覚えてるよ」
彼女は涙を拭い、こう続けた。
「カイが6歳くらいの頃かな。家に強盗が入ったことがあったでしょう? 私がナイフを向けられたとき、あなたは『お母さんに何するんだ』って、魔術でナイフを弾き飛ばして守ってくれた。
あなたね、自警団の人達が駆け付けたときに、鼻水垂らして泣きながら『僕は魔導師だから、大切な人を守るんだ』って言ったんだよ。顔はぐちゃぐちゃだったけど、私には立派な魔導師に見えた。それは今も、一緒」
優しい母の言葉に、カイの目頭は熱くなった。泣き顔は見せたくないのに、どうしても視界が曇ってしまう。
パトリーは不意に、自分の首元に手をやった。そして、首に掛かっていた細い鎖のペンダントを外す。
玉虫色の丸いプレートが、その先端で光った。魔導師の認識票だ。
「それ……」
「お父さんのもの」
パトリーはそれを、カイの手に握らせた。
「大事な仕事があるんでしょう? きっと、あの人が守ってくれるから」
「でも――」
「受け取って。あなたがちゃんと帰って来られるように」
彼女の手に力がこもる。カイと同じ形をした瞳が、彼を真っ直ぐに見ていた。その『大事な仕事』が、危険なものであることを察しているかのような目だった。
「私はカイを信じてるよ。あなたが正しい道を選んで、誰かを守るために戦っているって。私たちの自慢の息子なんだから。そうでしょ?」
カイは頷いた。その拍子に、彼の顎の先を伝って、膝の上に雫が弾けた。