45、互いの立場 二
「何だか、雰囲気が違いますね」
約束の日の夕方、レストラン前にスーツ姿で現れたコールは、レナを見て開口一番にそう言った。
レナはいつも適当にまとめてある髪を下ろし、薄く化粧をしていた。服はイーラが見立てたもので、長袖のシックなワンピースだ。色は制服と変わり映えのない紺色だが、これはレナが「女らしい色なんて嫌だ」とごねたせいだった。
「白衣がなきゃ落ち着かない」
レナは目も合わさずにそう言った。普段と雰囲気が違うのはコールも同じで、不覚にもどきりとしてしまったことに対する照れ隠しだった。
「似合っていますよ。さ、行きましょうか」
コールは手慣れた様子でレナをエスコートし、レストランへと入った。
シャンデリアの落ち着いた明かりに照らされた店内は、仕事漬けのレナにとってはまるで別世界だった。
真っ白なテーブルクロスと、そこに並べられた銀食器やグラスの輝き、豪華な絨毯、装飾の凝った椅子、優雅に流れる室内楽の生演奏。それだけで気後れするような雰囲気だったが、今さら帰るとは言い出せなかった。
「お待ちしておりました。こちらでございます」
ウェイターが二人を席に案内した。誰かに椅子を引いてもらうというのも初めてで、レナはぎこちない動きで席に着く。コールはそれを微笑ましく見ていた。
「ワインはお好きですか、レナ」
コールはメニューに目を通しながら尋ね、レナはどぎまぎしながら答えた。
「……はい」
「では白のこれを、グラスで。彼女も同じものでお願いします」
「かしこまりました」
ウェイターが下がってから、レナは率直な疑問を口にした。
「慣れてるんですね。女性と良く来るんですか?」
「女性と、は余計ですよ」
コールは笑った。
「昔、第二隊にいたものですから。マナーとか女性のエスコートの仕方とかは、厳しく教えられました。些細なことでも仕事に直結しますからね。……不愉快でしたか?」
「いや、別に。こんな場所、来たことがなかったから」
本音を言えば、もっと気軽なバルで良かった。その心を読んだのか、コールは申し訳なさそうに言った。
「気を遣わせてすみません。副隊長なんかをやっていると、機密保持上の理由で使える店も限られていまして」
「まあ、こういうお店なら正体を失くすまで酔っ払って、秘密をペラペラ喋ったりはしないでしょうね」
コールは思わず吹き出し、口を押さえてくすくすと笑った。
「私、何かおかしいこと言いました?」
「いえ。素直な人は、好きですよ」
レナは「好き」という言葉に思わず反応した自分を、殴ってやりたかった。
「……確認しておきたいんですけど、あなたは独身なんですか? 既婚者なら、こんな店で女性と二人で食事をするのは危険ですよ。問題になりかねない」
レナは嘘を見抜こうと、コールの目を覗き込む。鳶色の彼の目は真っ直ぐに彼女を見返し、そこに嘘は窺えなかった。
「ええ、もちろん独身です。恥ずかしながら、この歳まで仕事一筋でしたから」
「おいくつですか」
今さらになって、レナはそこが気になった。彼が自分より年上なのは間違いない。
「37歳です。あなたは……いえ、女性に尋ねるものではないですね」
「29歳。私は別に聞かれても気にしない。どっかの誰かは怒るけどな」
誰か、とはもちろんイーラのことだ。
「ではもう一つ不躾なことを聞きますが、お付き合いされている方は?」
「は? ……いませんけど」
「良かった」
コールはほっとしたようにそう言った。
「私で良ければ、恋人としてお付き合い頂けませんか?」
秘密裏に、という条件の元で二人は付き合い始めた。とはいえ、忙しいコールと忙しいレナでは、わざわざ隠す必要もないくらいに会う暇がなかった。
二ヶ月が経ってようやく休暇が合った二人は、ガベリアの観光地に旅行へ行くことにした。もちろん日帰りだ。忙しいのもあるし、大人が二人きりで何処かに泊まるということは、身を許したとも取られかねない。レナはそれを警戒していた。
「同じ本部内にいるのに、こんなに会えないとは思っていませんでした。季節もすっかり夏になりましたね」
川を下る客船の甲板で、コールは溜め息混じりにそう言った。川縁の木々は青々とした葉を付けて、爽やかな風に揺れている。
レナの服装は水色のワンピースだ。コールの存在は、二人で会うときくらいは明るい色の服を着よう、と彼女に思わせるまでになっていた。
「まあ、お互いに忙しいですから。経験が長いほどやることは増えますよ」
レナは好物の堅焼きパンをかじりながら、通り過ぎていく景色に目を遣った。
「長すぎると、逆に暇になるみたいですけど」
それは医長に対する皮肉だ。
「よっぽど嫌いなんですね、医長のこと」
コールはふっと笑い、レナの顔を見つめた。仕事中の険しい顔ではなく、穏やかで楽しそうな顔。口は悪いが、黙っていればまるで人形のように可愛らしい。ただ本人は気付いていないようだ。
「何はともあれ、私は今日を楽しみにしていましたよ。君は、どうですか?」
呼称がいつの間にか、あなたから君になっている。距離が少し近付いたように感じて、レナはどきりとした。
「聞くだけ野暮ですよ。それより、敬語はやめて下さい。そっちの方が上なんだから。……なんでこんなにまどろっこしい会話してるんでしょうね。私たち、結構いい歳なのに」
レナは顔を背けていたが、その横顔は笑っていた。
「年齢は関係ない。私はレナが側にいてくれるだけで幸せだよ」
コールの腕がそっとレナの肩を抱く。レナは少しだけ頬を染めて、されるがままになっていた。胸が高鳴るのは急に外れた敬語のせいか、肩を抱く腕のせいかは分からない。ただ、拒否する気だけは起こらなかった。
「私の人生が終わるまで、側にいてくれたらと思っている」
「どういう意味ですか?」
「分かりやすく言うなら、私と結婚して下さいということだ」
レナは思わず、コールの顔を見た。彼は真剣な表情で、その言葉が冗談でないことだけは確かだった。
答えを保留にしたまま、二人は旅行を終えてキペルへ戻ってきた。夜の帳が下りて、バル街は段々と賑わい出している。隊舎へ向かって道を歩く二人の鼻を、美味しそうな匂いがくすぐった。
「若い頃はよく、仲間とバル街で盛り上がってたんだけどね。もう何年行ってないんだろう」
コールはレナに話しかけたが、レナは少し俯き加減に歩きながら黙っている。
「レナ?」
「あ、すみません。……まだ帰りたくないなと思って」
彼女の口からぽろりと本音が零れた。旅行が楽しかったから名残惜しい、という感情とは違う。単純に、コールと離れたくない。そう思っていた。
「……そうか」
コールはそれだけ言うと、レナの手を引き、そのままバル街の賑わいから遠ざかっていった。
二人はまた忙しい日々に戻り、一月が経った。レナは原因不明の体調不良で、ここ二日ほど仕事を休んでいた。
原因不明とは表向きで、自分ではその理由がはっきりと分かっている。
(こうなるのは分かっていたはずなんだけどな……)
部屋のベッドで天井を眺めながら、レナはそう思った。コールに身を許したあの日から、薄々予想していたことだった。
医務官として、自分が妊娠していることに気付かないはずがない。相手は結婚の約束をした仲で、大きな問題ではなかった。ただ、一時の流れでこうなったことが彼女の心に引っ掛かっていた。いい大人として浅はかだったのではないか、と。
(とりあえず、コールに話さないと)
彼はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。期待と不安が混ざり合う中で、レナは目を閉じた。
翌日には具合も良くなり、レナは仕事に戻った。仲間からは散々心配されたが、たまたま飲んだ強壮剤が体に合わなかったからだと嘘を吐いてごまかした。
夕方、レナの元に一羽のナシルンが飛んできた。コールから『話したいことがある』との連絡だった。
どこか胸がざわつく思いで、レナは約束の時刻に本部の屋上へ向かった。夜空には満天の星が光るが、そんなものを眺める気分ではない。
コールは一人でそこに立っていた。レナが近付くと、彼は振り向いて微笑む。その顔は少し、憔悴しているようにも見えた。
「久しぶりだね。元気にしていた?」
「はい。……あの、話って?」
とにかくそれが聞きたかった。わざわざ呼び出すくらいだから、軽い話でないのは確かだ。
「ああ、うん。単刀直入に言うとね、獄所台に推薦されたんだ」
「獄所台……」
この時代、自警団の魔導師が獄所台に推薦されることは、近衛団に推薦されるのと同様に名誉なことだった。地位も待遇も、自警団よりは遥かに上だ。憧れている者も多かった。
「おめでとう、ございます」
レナは頭を殴られたような思いで、言葉を絞り出した。
「あなたは、その話を受けるんですか」
獄所台の魔導師になるということは、自警団の自分とは縁を切らなければならないということだ。この二つの魔導師は、決して交わってはならないという鉄の掟がある。
コールは唇を噛み、しばらくしてから答えた。
「ああ。受けようと思っている」
唐突に、レナの視界は曇った。言葉が出ない代わりに、涙がいくつも頬を伝っていく。
コールは彼女の肩に触れて、こう言った。
「レナ、私は君を弄んだわけじゃない。側にいたいと思ったのも本当だ。でも、分かってほしい。獄所台への推薦は命令と同義なんだ。断れば自警団ではいられない。断った上でもし結婚したとすれば、君の立場も無くなってしまう」
「言い訳をするくらいなら、推薦を断って下さい。断れないのなら、何も言わずに獄所台へ行って。その方が、私もあなたを忘れられるから」
肩の手を振りほどいて、レナは声を震わせた。
「レナ」
「やめろ!」
レナは叫んだ。
「もう赤の他人なんだ。二度と私の名前を呼ぶな! 二度と顔を見せるな!」
コールの顔を見ていると、呼吸も出来ないほどに胸が苦しくなる。レナは彼の声を背に、屋上から走り去った。