44、互いの立場 一
――25年前。
医務室の中を走り回る、小柄な女性医務官が一人。無造作にまとめられた長いブロンドが背中で揺れ、その大きな丸い目は、怪我人と喧騒で溢れる部屋の中を忙しなく見回していた。
「バジス、さっさと部下に指示を出せ!」
先輩にも容赦なく食ってかかるその人物は、29歳のレナ・クィンだった。
その日、キペル郊外の繊維工場で白昼堂々の爆破事件が起きていた。犯人確保と巻き込まれた人間の救助に向かった本部の隊員たちが、次々と医務室に運ばれて来る。救助中に、二度目の爆破が起きたのだ。
これまでにない惨状が部屋に広がる中で、医務官たちは懸命に隊員の処置をしていた。とにかく生命の維持が最優先で、欠損した手足の再生は後回しだった。
「ちゃんと後で治してやるから、しっかりしろ!」
腕を失って放心状態の隊員を励まし、レナは部屋に倒れ込んで来た隊員に駆け寄った。
「どうした! 怪我を見せろ」
彼女が乱暴に仰向けにした男性は、役職者の襟章を付けていた。第一隊の副隊長、コール・スベイズだ。精悍な顔を苦痛に歪めて、彼は言った。
「廊下に倒れている隊員が、最後です。あとは全員、脱出したはず……」
彼は呻き声を上げて身を捩った。見れば腹部にはガラス片が突き刺さり、そこからじわじわと血が滲んでいる。
レナはそこに指を添えて魔術で止血しながら、素早くその破片を引き抜いた。
「うぐっ……」
コールが顔をしかめるが、レナは動じない。
「内臓は無事みたいだ。傷口は塞いだが、とにかく動くな」
「しかし、私は副隊長だから――」
「隊長だろうが副隊長だろうが、死んだら終わりなんだ。大人しくしてろ!」
そう怒鳴り付けて、レナは他の隊員の元へ駆けていった。
事態が収拾したのはとっぷりと日が暮れてからだった。控え目なランプの明かりが、静寂に包まれた医務室の中を照らしている。ベッドは全て重傷者で埋まり、時折、小さな呻き声が聞こえていた。
疲労困憊の医務官たちは各々床に座って、死んだような顔で壁にもたれていた。ぐったりと寝そべっている者もいる。今は部屋に戻って休む気力もなかった。
「大変だったな。お前たちはよく頑張った。おかげで、隊員からは一人も死者が出なかった」
医長であるヘイラーがやってきて労いの言葉を掛けるが、医務官たちは全員、白けた目で彼を見ていた。彼が医務室に駆け付けたのは、ほとんど事態が収拾してからだ。それまでは中央病院にいたと言うが、面倒事を避けて、タイミングを見計らっていたのではないかと全員が怪しんでいた。
医務官たちが押し黙る中で、レナがすっと立ち上がった。
「……医長、こちらへ」
彼女はヘイラーを連れて廊下に出た。そしてドアが閉まった途端、血走った目で彼に詰め寄った。
「私は何度もナシルンを送りました。緊急事態で、統率を取る人間が必要だと。何故すぐに来なかったんですか?」
「病院も混乱していた」
ヘイラーは決まりが悪そうに答える。
「何故。被害を受けた工場の職員は中央ではなく第二病院に運ばれたと聞いています。それに、中央の医務官は何名かこちらに応援に来てくれました。どう混乱していたと?」
「上には上の事情がある。それに、君たちを信頼しているから任せただけだ。結果的に上手くいっただろう」
「……なんでお前みたいな奴が医長なんだ!」
怒りを抑えきれず、レナは怒鳴った。ヘイラーは一瞬たじろぎ、その後すぐに不機嫌な表情になった。
「どういう口の利き方だ、レナ・クィン。その態度で自警団の医務官が務まると思うなよ」
「辞めさせたいなら勝手にしろ! お前の下で働くなんて屈辱でしかない――」
「どうされました?」
二人の側にすっと人影が立った。コールだ。彼はレナの顔をちらりと見て、ヘイラーに向き直る。
「言い争う声が聞こえたものですから」
「いえ、ご心配なく、コール副隊長」
「彼女を辞めさせるつもりですか?」
コールは一歩、間合いを詰めた。自分より背の高い彼に、ヘイラーは少々怖じ気付いた。
「いや、そんなことは言っていない」
「そうですか。私には脅しのように聞こえましたが。とにかく、この非常事態の中で医務官たちは懸命に隊員を助けてくれました。私も彼女に助けられた。あの現場を見ていない医長には、分からないでしょう」
「こちらの人事は、監察部の人間には関係のないことです」
ヘイラーはむっとした顔で話を切り上げようとするが、コールは動じず、きっぱりとこう言った。
「いいえ。我々の仕事は常に命懸けです。医務官がいなくては成り立たない。彼女は医務官として、最も優先すべきものが何かを分かっている。辞めさせるなど、私たちも黙ってはいられませんよ」
レナは驚きの表情でコールを見た。まさか、彼の口から自分を庇う発言が出るとは思わなかったのだ。
「……失礼させてもらう」
ヘイラーは分が悪いと悟ったのか、踵を返して逃げるように去っていった。
コールはレナに向き直り、微笑んだ。
「お疲れのようですね。先程はありがとうございました。おかげで、こうして歩き回ることができます」
「さっきは暴言を吐いてすみませんでした。大人しくしてろ、なんて……」
レナはばつが悪いような気分で、彼から顔を逸らした。相手は恐らく自分より年上で、経験もある。ましてや第一隊の副隊長だ。
「いえ。あの言葉で、あなたが立派な医務官だということが分かりましたよ。レナ・クィン、とおっしゃるんですね」
「え、あぁ、はい」
彼女はしどろもどろに答える。
「私は第一隊の、コール・スベイズです。そのうちまた、お世話になることがあるかもしれません。……こんなときに言うのも申し訳ないんですが、レナ。良かったら今度、一緒にお食事でもどうですか?」
「は?」
突拍子もない申し出に、レナの目は点になった。この状況で何をどうすれば食事に行こうとなるのか、分からない。
コールは微笑んだまま、こう続けた。
「あなたのことをもう少し知りたくなったんです。いけませんか?」
イーラに何かを頼むのはプライドが許さない。しかし、他に相談出来る相手もいない。レナは悔しさを噛み殺して、彼女の部屋を訪ねた。
自警団で一二を争うとも噂されるイーラの美貌は、非番の日でも健在だった。彼女はレナを部屋に上げるなり、造形美の際立つ顔をしかめてこう言った。
「なんなんだ、半魚人。頼みがあるなんて、気持ち悪い」
酷い言葉だが、これは学生時代からだ。
「……に、何を着ていけばいいか教えてくれ」
レナは目を合わさずに呟いた。
「え、何に?」
「男と食事に行く。だから何を着ていけばいいかって聞いてるんだ」
ぶっきらぼうに言うが、レナの頬は微かに赤くなっていた。
「……へえ。あんたもそういうの、あるんだ。仕事のことしか考えてないと思ってた」
イーラは茶化すこともなく、感心したようにいった。
「私は仕事のことしか考えてない。向こうが誘ってきただけだ」
「誰?」
「お前に言うかよ。放っておけ。とにかく、何を着ていけばいいんだ」
「えー……」
イーラは首を捻った。レナがお洒落をしているところなど見たことがない。顔は可愛いのに、口の悪さとお洒落への興味の無さが残念な奴だと常々思っていた。
「食事って、レストラン?」
「『ファム』ってところらしい」
「あぁ、あの高級レストラン。ドレスコードがある」
「嘘だろ」
レナは眉間に皺を寄せる。普段は本部の食堂で食事を済ませるから、そんな店になど入ったことがなかった。
「まあ、任せておけ。私は第二隊だからな。見てくれを整えるのは得意だ」
イーラは案外乗り気で、困惑するレナの姿を見てにやりと笑ったのだった。