43、その人の名
夜が深まり日付も変わる頃、事件の喧騒から離れた南4区に用意された宿で、一同は再会することになった。
「カイ、セルマ!」
ドアを開けて入ってきた二人に、ブロルが飛び付くような勢いで駆け寄った。彼は自分が我儘を言ったせいで、セルマがエイロンの手に落ちそうになったことに責任を感じていた。故に、人一倍不安な気持ちで彼らを待っていたのだ。
ブロルは微かに憔悴の色が浮かぶ二人の手を取り、その目に涙を滲ませた。
「二人とも、ごめんなさい。僕のせいで危険な目に遭わせた」
「ブロルのせいじゃないから、気にすんな。結果的にあの子供たちを助けられたし、良かったよ」
カイはそう言って微笑む。この状況で「良かった」と言える優しさに、その場にいる隊員たちは少し胸が痛くなった。彼は誰よりも辛い境遇にいるはずなのに、と。
カイ自身はそんなことを知る由もなく、彼らに顔を向けて尋ねた。
「そっちは、無事だったんですね?」
「ああ。近衛団のおかげもあって、全員無傷だよ。お前たちも無事で安心した」
ルースは心底ほっとしたような表情で答え、エスカが言葉を引き継いだ。
「二人ともいい仕事をしたな。おかげでメニ草の栽培人と売人、かなりの数を捕まえられそうだって支部の隊員が言っていたよ。
本当はパーティーでもして労いたいところだが、今日はもう休むといい。夜が明けたらすぐに出発だ」
「次はどこに向かうんですか?」
カイが尋ねる。まだガベリアへ入るためのルートは決まっていないはずだ。
「南7区。そこから、南特区に入る」
全員が驚きの表情でエスカを見た。特区とは他でもない、獄所台の所在地だ。
「獄所台に行くんですか? まさか、街道を通る許可を得るために?」
エーゼルが尋ねた。ガベリアへ繋がる唯一の交通路は、現在は獄所台によって閉鎖されている。
「許可なんて貰えないさ。そこから調査に入って、誰一人帰って来なかったっていう前例があるだろう」
エスカの言葉でエーゼルの表情が曇る。彼の兄は、まさにその一人だ。エスカは続けた。
「俺たちは獄所台の裏手にある山を抜けようと思う。あそこなら山賊もいないし、もしエイロンや同盟の人間が襲撃してきたとしても、一般人を巻き込まずに済む。山には詳しいんだろ、ブロル」
急に話を振られたブロルは、たじろぎながらも頷いた。
「そうだけど……。ガベリアの山は、闇の中だよ。どうやって進むの?」
「それは行きながら考えるさ」
楽観的すぎる、と誰もが思ったが、先行きの見えない今、それに勇気付けられるような気もしていた。
生きて帰れる保証はない。皆、それは分かっている。
「俺たちは為すべきことを為す。そんなに大それたことじゃないだろう。ただ、大切な人を守りたいだけなんだから」
ずっと考えないようにしていたある人の顔が、不意にエスカの頭に浮かんだ。彼は腕を組んだその下で、胸の痛みを誤魔化すように、手の平に爪を食い込ませた。
ナンネルは夜明けとともに病院のベッドから起き出し、カーディガンを羽織って薄明かりの射し込む窓辺に寄った。
具合はほとんど良くなったが、代わりにここ数日、早朝に自然と目が覚めるのだ。元々朝は弱い方なのに、この変化にはナンネル自身も驚いていた。
外はずいぶんと冷えるらしい。窓ガラスは一面結露していて、すっと指先でなぞると、そこから灰色の空が覗いた。
冬が終わる頃には彼も帰ってくるだろうか。彼らの任務がいつ終わるのかは、誰にも分からない。その名前が口を衝いて出ないように、ナンネルは小さく唇を噛んだ。
(彼はリスカスのために命を懸けている。決意が揺らぐようなことは言えない)
そっと自分の腹部に触れると、医務官のような魔力は無くても、そこにある小さな命を感じるようだった。まだ人の形にもなっていないそれは、紛れもなくナンネルとその人を繋ぐものだ。
病室のドアがそっと開き、白衣を着たレナが入ってきた。
「早起きだな。具合はどうだ?」
「すっかり良くなりました。医長、こんな時間でも働いてらっしゃるんですね」
レナは首をぽきぽき鳴らして答えた。
「患者に何かあれば叩き起こされるのが、病院で働く医務官の定めだ。安眠なんてとっくの昔に諦めてる。お前はちゃんと眠れたのか?」
「ええ。ただ、不思議なんです。空が明るくなると自然と目が覚めてしまって。今までは目覚ましを二つかけないと起きられなかったのに」
「妊娠中は不思議なことが良く起こる。心配するな。私も同じ経験をした」
レナはそう言って壁にもたれた。すぐに出ていくつもりはないらしい。ナンネルは彼女の発言に、目をしばたいた。
「医長、お子さんがいらっしゃるんですか?」
「……今のは失言だが、お前には話しておいてもいいと思っている。まあ、とりあえずベッドに戻れ。体が冷えるといけないから」
ナンネルが言われた通りベッドに戻ると、レナは側の椅子に腰掛けてこう切り出した。
「イーラから色々と話を聞いた。その子の父親は、エスカなんだろう」
「……」
ナンネルは答えず、ただ、静かに目を伏せた。
「言いたくない理由は分かるよ。相手の立場を考えたらな」
「私が黙っていればいいのです。彼は必ず戻ると信じていますから。そのときまでは何があろうと、彼の名は胸に秘めておきます」
「お前たち第二隊は強情が過ぎるぞ」
呆れたような声を出して、レナは小さく震えるナンネルの手に、自分の手をそっと重ねた。
「今は体に負担を掛けるのはもちろんだが、心に負担を掛けるのも良くない。話して楽になるなら話せ。私は誰にも言わない。もちろんイーラにもだ。
……そうだな、少し昔話をしてやろう。お前に、私と同じような思いをしてほしくないから」