42、証明
「ベロニカ、おい、ベロニカ!」
スタミシア支部の医務室で日誌を書いていたベロニカの元に、目付きの鋭い壮年の男性が足早にやって来た。支部の医長であるデインだ。
「何でしょう?」
ベロニカはやや億劫そうに、日誌から顔を上げる。エドマーの監視役をしながら日常業務をこなすのは中々骨が折れる。できれば日常業務を減らしてもらいたいのに、それをデインに却下されたことへの不満が顔に滲んでいた。
「……アルゴ隊長が呼んでいる。さっさと隊長室に行け」
デインは渋い顔をして言った。ベロニカの言いたいことは分かるが、支部内で腕の立つ医務官はそう多くない。彼女に頼らざるを得ない部分もあるのだ。
「何故ですか?」
「隊長から直々に、医務官を一人出してほしいと依頼された」
それを聞いて、さっとベロニカの表情が翳る。
「まさか、ルースさんたちが私でないと手に負えないほどの怪我を?」
「違う。彼らのうちの一人が、南3区の外れで13名の子供を保護したんだ」
「13名もなんて、事故でも起きたんですか?」
「いや……」
デインは周囲を気にしてから、声を落とした。
「メニ草関係だ。いわゆる『無垢な労働者』」
リスカスでは違法に労働を強いられている子供たちをそう呼ぶ。彼らの保護は自警団の役目でもあるが、存在を把握しきれていない子供たちも多く、全てを救出するには至っていなかった。
「大きな怪我や病気は無いそうだが、心配なのは心の傷だ。お前は子供の治療が得意だろう?」
デインにおだてたつもりはなかったが、ベロニカは得意気に笑ってこう言った。
「そりゃ、スタミシアで一番の医務官ですから」
そして、スキップでもしそうなくらいに軽い足取りで部屋を出ていった。
月光に照らされたメニ草の花畑はどこまでも静かで、そこには子供たちのすすり泣く声だけが響いている。
花畑の奥にあった小屋に、メニ草の栽培人が三人いた。カイは先程、一人でそこへ踏み込み、多少やり過ぎなくらいに彼らを痛め付けて捕縛していた。
支部への連絡も済ませ、あとは隊員の到着を待つだけだ。ここへ繋がる井戸の件も伝えてある。
「僕たち、これからどうなるの?」
保護した少年が、目を潤ませてカイに尋ねた。突然酷い環境に放り込まれ、やっと助けられたとはいっても、小さな子供にこの先どうしていけばいいのか分かるはずもない。
来る日も来る日も鎌を握ってきた子供たちの手は、年齢にそぐわないほど豆だらけだった。セルマは一人ひとりの手を握ってそれを治している。
カイは地面に膝を着いて少年に目線を合わせ、優しく言った。
「いいか、お前たちはもう働かなくていいし、酷い目に遭うこともない。……今までよく頑張ったな」
声を詰まらせ、カイはおもむろに少年を抱き寄せた。
「世の中には悪い奴もいるけど、お前たちの父さんや母さんを治そうと一生懸命な人たちもいるんだ。きっとまた、一緒に暮らせる」
「本当に?」
少年の顔がぱっと輝いた。
「ああ。少し時間はかかるかもしれないけど、父さんや母さんだって、お前たちと一緒にいたいと思っているんだから」
セルマにはカイの言葉が、彼自身の願望のように聞こえた。メニ草のせいで、一度は彼を殺そうとした母親。それでも、カイは母親を大切に思っている。どれだけ苦しい思いをしても、誰も恨まずに自分が正しいと思う道を行く。眩しく見えるほどに強い心だ。
「俺も、頑張るよ。また一緒に暮らして、笑顔で名前を呼んでもらえるように」
少年の背を撫でるカイの目にはうっすらと涙が光るが、彼は上を向き、それが溢れるのを堪えていた。
診療所の病室では、ベッドに横たわったエディトが穏やかな寝息を立てていた。柔らかなランプの明かりが彼女の疲れ切った顔を照らしている。
ルースたちの手前、気丈に振る舞ってはみたものの、彼女は銃撃でかなりの深傷を負っている。立っていることもままならず、彼らがカイたちの元へ向かった後に倒れたのだ。
「無茶をしすぎなんですよ、あなたは」
側の椅子にはレンドルが座っている。報せを聞いて、彼は取るものも取り敢えず駆け付けていたのだった。
エディトはゆっくりと目を開き、レンドルの姿を捉えた。
「何をしているんですか、こんなところで」
張りの無い声で、彼女はそう言った。
「君は副団長です。私が不在の今、近衛団を放っておいていいはずがないでしょう」
「何度も言いますが、仲間を信頼して下さい、団長。彼らは指示がなければ動けないような魔導師ではありません」
レンドルにはっきりと言われて、エディトは思わず口をつぐんだ。いつもなら言い返すが、今はその気力がない。
彼女は身を起こし、枕元の水差しに手を伸ばした。
「私がやりましょう」
レンドルがさっと手を出して、コップに水を注いだ。それをエディトに渡しながら、じっと彼女の目を覗き込む。
「……なんですか」
怪訝な顔でエディトは尋ねた。レンドルは逡巡するような顔をした後、口を開く。
「もう少し自分を大切にして下さい、エディト」
唐突に名前を呼ばれ、彼女は僅かにたじろいだ。団長になる前は名前で呼ばれていたこともある。ただその頃と、団長と呼ばれるようになって久しい今では、受け止め方が変わってくる。
「大切にしていますよ。団長は私一人ですから」
エディトは突き刺さるようなレンドルの視線から顔を背けた。それでも、耳には彼の淡々とした、それでいてどこか熱のこもった声が届く。
「団長には代わりがいます。でも、エディト・ユーブレアという人間はあなたしかいない。私はあなたという人を失いたくないんです」
「……」
エディトはコップの水を飲み干し、小さく息を吐いた。やはり、レンドルの目を見ることは出来なかった。
「執着は人を弱くします。近衛団にいる以上、そして団長という立場上、私はいつ職務に殉じても構わない覚悟でここまで来ました。君も同じだと思っていたのですが」
「それは詭弁ですよ。あなたは大義を盾にして、自分の命を捨てる機会を求めているだけだ」
「……ふざけるなっ」
エディトは急に声を荒らげ、レンドルにコップを投げ付ける。それは目標を逸れて、床で粉々に砕け散った。
彼を睨み付けるエディトの瞳は、その強さに反して、溢れ来る涙で大きく揺らいでいた。
「やはり、君に秘密を話したのが間違いでした」
言葉は冷静さを取り戻していたが、彼女の頬に伝う雫だけは、どうしようもなかった。
「もういいでしょう、エディト。完全な心を持つ人間などいない。弱い部分は誰にでもある。例え近衛団を率いるために育てられたとしても、あなたは特別な人間じゃない」
レンドルは立ち上がり、部屋の隅に歩いていく。そして、そこに立て掛けてあった物を手に戻ってきた。
錆び付いたサーベル――ベイジルのものだ。エイロンが彼の墓から盗み出したものを、エディトが取り返したのだった。
「ベイジルはあなたの大切な人だった。そして彼を失った悲しみは、今もあなたを苛んでいる。出来るなら同じ場所に行きたいと願ってしまうほどに」
レンドルは錆び付いたそのサーベルを、エディトに握らせる。そしてその上から、自分の手を重ねた。
「でも、エディト。大切な人を失う痛みを知っているなら、考えてみて下さい。あなたが命を捨てて誰が喜びますか。結果として殉職するのと、初めから命を捨てるつもりで戦うのは全く違う。それを覚悟とは言わない。
命を落とすその瞬間まで、生きて戦おうとするのが覚悟です。『近衛団として何が正しいか、証明しなくてはならない』。あなたはそう言いました。ならばカイに、その姿を見せる必要があるのではないですか?」
エディトは俯き、しばらく黙っていた。重ねられたレンドルの手の上に、雫が一つ、二つと落ち、白手袋に染みを作っていく。
「……君が副団長で良かった」
エディトは顔を上げ、泣き濡れた顔で微笑んだ。
「分かりました。私は生きて戦いましょう。着いてきてくれますか、レンドル」
「ええ。どこまでも」
レンドルも微笑んだ。他人には滅多に見せることのない、優しい表情だ。
「側にいて、あなたの泣き顔を他人に見られないようにしなければいけませんからね」