7、追跡
カイがひとまず飛び込んだ医務室には、ルースがいた。彼は、何故か泣きそうになっている医務官を慰めている。セルマが寝ていたベッドはもぬけの殻で、側のテーブルにあった彼女の服は無くなっていた。
「そんなに責任を感じなくていいよ。あの子はただの参考人だから」
「申し訳ありません。まさか、窓から逃げるなんて思わなくて……」
「窓から?」
カイが二人に近付き、会話に割って入った。
「ああ、カイ。来てくれて良かった」
ルースはそう言って微笑んだ。余裕があるようだが、その目の奥は全然笑っていないようにも見える。ぞくりとして、カイは思わず目を逸らした。
「あの子、逃げたみたいだ。僕が怖がらせすぎたのかな」
「分かりません……。俺はあいつが起きたところも見てないですし。いつの間に起きたんですか?」
「夕方4時頃だね。今から4時間くらい前か。ただ、逃げられるほど回復しているとは思わなかった」
「でも窓からって。ここ、三階ですけど」
「屋根伝いに逃げたんだろう。まだ足跡が残っている」
ルースは窓の外に目を遣った。少し雪の積もった二階の屋根に、足跡が残っている。洋瓦の屋根にはやや傾斜があるが、歩幅は大きく、少しも躊躇いを感じさせない。窓からの明かりで見えるのはせいぜい数メートルで、その先は闇だった。
「恐る恐る、って感じではないね。こういうことには慣れていそうだ。カイは足跡を追ってくれ。僕はスラム街に先回りしてみる。見付け次第、連絡を」
「分かりました。確保したらどうすれば?」
「連行。今度は地下牢にでも入れようか……」
ルースは冗談とも本気とも取れるようなことを呟いた。さっきの笑っていない目も含め、なぜ副隊長はそこまであの少女にこだわるのだろう、とカイは怪訝に思う。ただ窃盗の疑惑があっただけなのに。
少女が持っていたあの首飾りに、何か理由がありそうな気がした。だが、今は考えている暇がない。
「じゃあ、行きます」
「ああ、それと。あの子の名前はセルマというらしい。覚えておいて」
三歩歩いたら忘れそうだと思いつつ、カイは頷いた。それから医務官が差し出したランプを片手に窓から身を乗り出し、屋根の上に立つ。吹き付ける風は冷たく、外套をはためかせた。
「寒っ」
思わず身震いをするような寒さだ。こんな中を、あのぼろぼろの服で逃げるとは。よほど必死だったのかと思うと、カイはあまりセルマを責められないような気がした。
(さっさと見付けないと、俺が凍死するかも)
後を追うのに、足跡だけでは十分とはいえない。セルマが街へ入ってしまえば、他の人間のものに紛れてしまう。
カイはその場に片膝を着いて、彼女の顔を思い浮かべながら足跡に触れる。そのまま指先で円を描くと、頭に映像が流れ込んで来た。セルマが今現在、見ている光景だ。
追跡の魔術は魔導師だけに許されるものだった。魔術学院でも教えては貰えず、入隊後に訓練して習得することになる。スパルタな先輩のおかげで、カイもこの術を身に付けていた。
映像は、街の小路を進んでいく。少し開けた場所にある井戸、角を曲がって劇場、左に逸れて馬小屋を通り過ぎ、奥に墓地が見えた。映像はそこで途切れる。
(北4区辺りか……逃げ足の早い奴)
とにもかくにも、距離が開いてしまえば確保は困難になる。大方の目星を付けて、カイは走り出した。
屋根の上を軽やかに進み、建物から建物へと飛び移る。足跡はとっくに地上に降りていたが、彼はそのまま屋根の上を走った。外出禁止時刻よりも前である今、街にはまだ多くの人がいて、間を縫って進むのは時間が掛かる。
しばらく走って、さっきの映像に出てきた馬小屋が見えた。セルマがここを通ったのは間違いない。カイは地上に降り、墓地の方へ目を遣った。墓地を抜けると、その奥は森だ。彼女はそこに入ったのだろうか。
一歩踏み出したところで、誰かがカイを呼び止めた。
「こんなところで何してるんだ?」
魔導師の制服に外套姿の青年だ。第三隊に所属する、カイと同期のオーサン・メイだった。ルースと同じくらいに背が高く、黒髪で、やや垂れ目の穏やかそうな容姿に反して気性が荒い。学生時代から仲は良いが、同じくらいに喧嘩もよくした。
「ああ、オーサン。人を追ってる。この辺で俺たちと同い年くらいの、シルバーブロンドの少女を見なかったか?」
カイが早口に尋ねると、オーサンは肩を竦めた。
「いや。何かの犯人か?」
「分からない。でも、重要参考人だ。じゃ」
片手を挙げて墓地に入ろうとする。オーサンがすぐさま、肩を掴んで止めた。
「待て待て。丸腰であそこの森に入る気か?」
「悪いか」
うっかりサーベルを忘れてきたなどとは言いたくなかった。
「俺たち第三隊がこの辺を巡回している理由を考えてみろ。荒くれ者がいるってことだぜ」
確かに、とカイは納得した。荒くれ者の確保には気性の荒い第三隊が適任だ。
「あの森も危険か?」
「イエス。盗賊山賊危険人物、ついでに猛獣もいるかもしれない。急いでるんだろ? これ貸してやるよ」
オーサンは自分の外套を払い、腰に携えていたサーベルを鞘ごと外してカイに差し出した。鍔の部分に鷲の模様が刻印された、魔導師専用のものだ。何となく、使い込まれている感じがした。
「頻繁に使っているのか、これ」
「第一隊は魔力を持つ人間相手のことが多いだろうが、こっちは違う。魔力のない人間は武器を持って向かって来るのさ。魔術で捩じ伏せていいんだったらいくらでもやるが、規律に反するからなぁ」
不満そうな顔でオーサンは言った。本心は、捩じ伏せたいのだろう。危険な奴だとカイは思った。
「ま、お前は剣術で俺に勝ったことはないが、頑張ってくれ」
「黙れ。いつか寝首を掻いてやるからな」
ベルトにサーベルを携え、カイは森へと向かった。