33、二人の使命
――まだ、自分は生きたいのだろうか。
森の中を這いずりながら、その男は朦朧とした意識の中で考えていた。服はぼろぼろに擦り切れ、辛うじて臙脂色だということだけが分かる。彼の顔半分は黒く変色して爛れ、何かから逃れようとするかのように、伸ばした手は必死にぬかるんだ地面を掻いていた。
――もう生きている理由などないのに、なぜ。
体は鉛のように重く、これ以上は先に進めない。足元から這い上がってくる闇に身を預けるようにして、エイロン・ダイスは静かに目を閉じた。
再び目覚めた彼の視界には、自分を見下ろす瑠璃色の瞳が映っていた。ゆっくりと瞬くその瞳は、まるでこの世のものとは思えないほど美しい輝きを湛えていた。
(ああ……、俺は死んだのか)
エイロンはそう思った。目の前にいるこの少年。髪は月光のように儚く淡い銀色で、どことなく誰かに似ているような気もした。きっと、あの世の使者に違いない。頭がぼんやりとし、考えるのも億劫だった。
「ハル・ニエタ・カトラ?」
少年は小首を傾げて、そう口にした。
「……え?」
エイロンが発した声は、彼自身が驚くほど嗄れて、耳障りな音だった。
少年は気にも止めず、同じ言葉を繰り返す。初めは何を言われているのか分からなかったエイロンだが、不意にその意味を理解した。
少年が話しているのは古代ガベリア語だ。そして、彼は自分に「大丈夫?」と聞いている。
「……ラ・ニエタ」
エイロンが「大丈夫だ」と答えると、少年は驚いたように目をしばたき、再び古代語で尋ねた。
「僕の話す言葉が分かるの?」
「少しだけ、勉強したことがある。……ここはどこだ?」
「僕の家。あなたは、森で倒れていた」
エイロンはゆっくりと体を起こしてみた。灰色の土壁に、簡素な木組みの天井。窓の外には鬱蒼とした森の景色が広がっている。部屋の隅には木製の食器が転がり、壁から壁に渡したロープには、衣服や干し肉のようなものが吊るしてあった。
生活感溢れるこの場所が、どうやらあの世でないことはエイロンにも分かった。
「寝ていた方がいいよ。酷い怪我だから」
少年は心配そうに言った。エイロンはふと、自分の顔に触れた。顔の左半分には布切れのようなものが巻き付けてある。痛みはなかった。
「僕も見たことない怪我だったから、とりあえず痛み止めを塗っておいたんだ。いけなかったかな」
「いや、ありがとう。……鏡はあるか?」
「カガミ?」
少年は首を傾げる。
「カガミって、何?」
「自分の姿を映すものだ。知らないか?」
少年は納得したように頷く。
「ああ、メルカの泉のことかな。あそこなら、天気が良ければ自分の姿がはっきり映るよ」
あまり話が噛み合わない。恐らく、少年の住む世界は一般的なリスカスの暮らしとはかけ離れているのだろう。見れば服装も簡素で、植物の繊維で作ったような粗い素材のものだった。噂に聞いていた山奥に住む民族か、とエイロンは考える。
「いや、今はいい。……俺はどこに倒れていた?」
「森の中、ガベリアとの境目辺りだよ。何があったの? ガベリアの森は……真っ黒な霧に包まれてた」
少年はその光景を思い出し、ごくりと唾を飲んだ。
「あんなの、初めて見たよ。僕は怖くて近付けなかった。あなたはそこから出てきたの?」
「俺は……」
エイロンは突如、激しい耳鳴りに襲われた。甲高い音に混じって声が聞こえる。
貴方は後戻り出来ない場所へ行ってしまった。それを分かって――
「やめろっ!」
そう叫んで耳を塞いだ。少年はびくりと肩を竦め、飛び退ってエイロンから離れる。
ぼんやりとしていた彼の頭に、記憶が鮮明に蘇ってきた。巫女の洞窟、そこに佇むタユラ、彼女の涙、抜いたサーベルの重み、タユラを突き刺した感触、手を濡らす生暖かい血。
(俺は殺した……巫女を殺した……)
両手が震え始めた。自分がしたことの恐ろしさに、もはや声も出せない。何故。その言葉だけが頭を駆け巡る。
吐気が沸き上がり、エイロンはそのまま床に吐物をぶちまけた。ほぼ胃液だ。ここ数日まともな食事を摂った記憶は、彼にはなかった。
「今、水を持ってくるから!」
少年は慌てて家を飛び出していった。残されたエイロンは身を縮め、まるで子供のように嗚咽を漏らしていた。今は後悔以外の感情が何も無い。
自分はガベリアの巫女、タユラを殺した。そして、ガベリアは消えた。それだけが彼に与えられる事実だ。
(生きていてはいけない)
エイロンは顔を上げた。部屋の隅にある食器に混じって、ナイフが置いてある。彼は咄嗟に飛び付き、それを首元に当てた。切っ先が食い込んだそのとき、戻ってきた少年が叫んだ。
「馬鹿っ!」
少年はエイロンの腕に掴み掛かり、必死の形相でナイフを取り上げた。
「何してるんだよ! せっかく助かったのに、死のうとするなっ!」
少年の目にはじわりと涙が浮かぶ。エイロンは呆然と、その瞳を見返した。相変わらず、現実を忘れるような美しい瞳だった。
「俺は許されないことをした」
エイロンは呟いた。
「君には想像が付かないような、恐ろしいことだ。それなのに、こうして生き延びてしまった」
「知らないよ、そんなこと。僕が助けたんだから、僕の前で死ぬのは許さない」
少年は強い口調で言い、涙を拭った。
「僕らの世界では、生き残った人間には必ず使命があるって言われている。だから、有るんだよ、使命。あなたにも、僕にも」
少年の名はブロルと言った。歳は9歳で、もともと彼を入れて5人しかいなかった民族の人間は、1ヶ月前の落雷で彼を除いて全て死んでしまったという。
「突然だったんだよ。皆で狩りに出た日のことだった。僕はたまたま、ホリグマの巣穴に入っていたから助かったんだ」
ブロルは薬草を細かく刻みながら、そう話した。エイロンは小さく頷きながら先を促す。
「僕たちの民族は寿命が短いって言われているけど、それでも50歳くらいまでは生きられる。父さんも母さんも、本当はまだまだ生きられたはずだったんだ。
優しい父さんと母さんだったよ。僕に、色んなことを教えてくれた。いずれこの民族は途絶えるから、お前は山を降りて『新しい人々』と共に暮らしなさいって、いつも言っていた」
新しい人々とは、今のリスカスに住む人間のことなのだろう。古代語を話さない人間は、彼らからすれば新しい人々になる。
「今までに山を降りたことは?」
「一度もない。たぶん、誰もないんじゃないかな。だけど、ケンキュウシャって言う人が何年かに一度、僕たちに会いに来た。それで、新しい人々のことを教えてくれた」
「研究者、か」
「すごく年寄りに見えたけど、まだ生きてるのかな」
恐らくは死んでいる。そして彼の研究も、どこかに埋もれているのだろう。
「あなたのことも教えてほしいな」
ブロルは手を止め、微笑んだ。
「初めて、ケンキュウシャ以外の新しい人々と話すから。名前は?」
「……エイロン・ダイスだ」
彼は不思議と、偽名を使う気にはならなかった。
「王室を警護する近衛団にいた、魔導師だ」
「へぇ?」
ブロルは知らない言葉の羅列に、大きく首を捻っていた。
「良く分からないけど、すごいね」
「難しい話は嫌いか?」
「うん。嫌い」
ブロルが子供らしい表情で笑うと、エイロンの胸が不意にちくりと痛む。かつての教え子たちを思い出したからだ。
こんな風に、屈託ない笑顔を見せる生徒がいた。今でもはっきりと思い出せる。ルース・ヘルマー。無事に自警団に入ったと聞いたが、教官の職を離れてからは一度も会えていない。
「ねえ、これからどうするの、エイロン。山を降りる?」
エイロンは首を横に振った。
「言っただろう、俺は許されないことをした。山を降りれば、そのまま獄所台行き……いや、生かしておいては貰えないだろう」
それからしばらく、彼は口をつぐんでいた。部屋には薬草を刻む、ごりごりという音だけが響く。
「……僕の使命はね」
ブロルが言った。
「山を降りて、新しい人々と共に暮らすことだと思ってる。エイロンは?」
「俺は……」
エイロンはブロルの瞳を見ながら考えた。一つの都市を消し去った自分がすべきことは、何なのか。
そこで、ブロルが誰に似ているのかを突然思い出した。月光のような髪、美しい瞳。自分がその誕生から見守り続けた存在――セルマだ。
ブロルはじっとエイロンの目を覗き込んでいる。まるで、その言葉を待っているかのように。
「俺の使命は、ガベリアを甦らせることだ」