31、邂逅
朝食を終えたカイたちは、出発に向けて部屋で支度を整えていた。オーサンは朝からどことなく元気が無く、口数も少ないように思える。
「オーサン、具合でも悪いのか?」
セルマが心配そうに声を掛けると、オーサンは顔をしかめて答えた。
「ちょっと、虫歯が痛い気がする」
嘘だな、とカイにはすぐ分かった。ラシュカの教育のおかげか、オーサンは虫歯一つ無い健康体であることを知っている。
昨夜の彼の言葉、「悪い血って、どうやったら薄まるんだろうな」。元気が無いように見えるのは、それに関係しているのだろうとカイは思っていた。
「虫歯? 私に治せるかな……」
そう言ってセルマが近寄ろうとすると、オーサンは腕を伸ばしてそれを制した。
「いや、大丈夫。気がするだけだから」
「そう?」
「放っておけ、セルマ。オーサンは意外と神経質なだけだ。肝っ玉が小さい」
カイが口を挟むと、オーサンはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。内心、話を逸らしてくれてほっとしていることだろう。
部屋のドアがノックされ、ルースが顔を出した。
「僕たちは準備が出来たけど、こっちは?」
「大丈夫です」
「そう。出発前に話があるから、食堂に集まって貰えるかな」
全員が食堂に集まると、エスカが口を開いた。
「ここからは二手に分かれようと思う。都市部ならともかく、閑散とした街で魔導師六人がぞろぞろ連れ立っていたら目立つだろう?」
「私は格好だけだけど」
セルマが言うと、一同は笑った。
「まあ、確かに。それはそうとして、班をどう分けるか考えたんだが、俺とエーゼルとオーサン、セルマとカイとルースにしようと思う。異論は?」
エーゼルが少し不満そうな顔をしていたが、何も言わなかった。あわよくばルースと同じ方に入りたかったのだろう。
全員の顔を見てからエスカは続ける。
「目的地は次の宿、南3区にある『丘屋敷』だ。俺たちは西7区経由で、同盟について情報収集しながら向かおうと思う。運び屋も使うから、夕方には着いているだろう。ルースは?」
「こちらはセルマがいるから、運び屋は使えませんね」
ルースはしばし考えた後、カイに尋ねた。
「お前は泳げるんだっけ?」
「小さい頃は川で泳いでいたので、たぶん」
「セルマは?」
「川の泥をさらっているときに何回か流されてるけど、溺れたことはない。……え、南3区まで泳いで行く気なのか?」
ルースは苦笑した。
「まさか、今の時期だと凍え死ぬよ。僕らは船を使おうと思う。ここからならミュース川を下れば、南1区辺りまで行けますよね? それに、エイロンは泳げません」
「知っているのか?」
エスカが少し驚いたように言った。
「はい。学生時代の会話を思い出したんです。ダイス教官……エイロンは水辺から離れた土地で育ったから、全く泳げないと話していました」
「弱点を一つ発見したな。いい案だと思う。幸い、ここからなら貨物船がいくつか出ている。だが、南1区で支流に入る必要がある」
エスカがテーブルを指先で叩くと、そこに青白く地図が浮かび上がる。その一部を指差しながら、彼は続けた。
「ここが現在地、西8区。右下に行って西7区、そこからさらに左下へ行って南3区。これが俺たちのルートだ。
スタミシアの北西から南東へ流れるこの太い川、これがミュース川。見ての通り、ここから南1区までは一本、そこから南3区に向けて支流が出ている。貨物船が進むのは本流の方で――」
真剣にエスカの話を聞く一同の中で、セルマだけが苦々しい顔をしていた。文字が読めないことに加え、地理が全く分からない彼女にとって、地図を読むというのは至難の業だ。
(みんな、これを見ただけでどう進めばいいか分かるのか……?)
セルマは改めて、自分一人でガベリアに向かうのがどれほど無謀なことかを思い知った。
「どうした?」
カイがセルマの顔を覗き込んだ。
「あ、いや……。みんな、すごいなと思ってさ。何が何処にあるか、全部頭に入ってるってことだろ?」
「そりゃ、学生時代に叩き込まれるからね」
エスカが言った。
「何区のどこそこ、って言われて場所が分からないと、俺たちは仕事にならないから。自警団はよく道を聞かれるし。それはもう、恐ろしい指導教官がいるんだぜ」
彼は笑った。
「覚えてこいと言われたことを覚えていなかったら、罰としてその内容を500回書き取りだ。俺はそれで何回も夕飯を食いそびれた」
「俺もです」
「俺も」
エーゼルとカイが苦笑した。その教官はどうやら、まだ現役のようだ。
「……学校って、一度行ってみたいな」
セルマがぽつりと呟く。スラム街に生まれ育った彼女にとっては、仲間に囲まれ、ちょっとしたことで笑い合える環境がとても羨ましく思えた。それが巫女である自分にとっては、叶わない夢だと分かっていても。
「出航、出航!」
船員の声に続いて、汽笛の音がけたたましく鳴る。その船の中、窓の無い乗組員の居室に、ルースたちの姿はあった。
「とりあえず、無事に出航出来たね」
ルースがほっと息を吐く。
「二時間くらいで南1区に到着すると思う。二人は休んでいていいよ」
「でも、船内に同盟の人間がいたら? 俺たち、一応自警団の身分を明かしてここに入っているわけですし」
カイは落ち着かなげに足の爪先を上下させた。セルマは黙り込んで、なぜか宙を見つめている。
「スタミシアの隊員が乗組員のチェックをしてくれている。怪しい人物はいないそうだよ。……セルマ、もしかして酔った?」
ルースが少し顔色の悪い彼女に気が付く。
「……かもしれない。なんか、気持ち悪い」
「ベッドで横になるといい。僕は水を貰ってくるから。カイ、頼んだよ」
ルースはさっと身を翻して、部屋を後にした。カイはセルマが横になるのに手を貸して、毛布を掛けてやった。慣れていないせいか、あまり優しさを感じられないやり方だ。
「船に乗るの、初めてか?」
「うん。そもそも、キペルから出たことないんだから」
セルマは深呼吸して、嘔気をどうにか抑え込んだ。さすがにカイの前でげえげえと吐くのは気が引ける。
「……お前、さっき言ってたけどさ」
カイは遠慮がちに話し出した。
「ん?」
「学校に行ってみたいって」
「ああ……。あれは忘れていい。無理なのは分かってる。私はガベリアの巫女なんだから」
セルマは目を逸らしたが、カイはそのまま続けた。
「無理かどうかは分からない。タユラは、お前がガベリアを甦らせて、全てを変えるって言ってたんだろ? もしかしたら、巫女なんて必要ない世界になっているかもしれない」
船内の廊下を歩くルースは、前方の角から姿を見せた青年に目を止めた。日に焼けた肌と立派な体躯を持ち、薄茶の作業服を着ている。この船の乗組員らしい。
彼もルースに視線を止め、にやりと笑った。ルースの身に緊張が走る。まさか、同盟の人間か。
青年は言った。
「驚いたよ。こんなところで会うとはな」