30、亡霊
朝、街の人々がそれぞれの仕事へと向かう時刻、王宮の門の前にはイーラの姿があった。
「ラシュカ・メイに会わせて欲しい。約束は取り付けてある」
「伺っております。どうぞ」
門番の近衛団員は会釈し、門を開いてイーラを招き入れた。
近衛団本部は王宮の一角にある。団員に続いて荘厳な玄関へ足を踏み入れると、入れ違いで一人の女性が出ていくところだった。
彼女は質素な服装に白い生成りのエプロンをし、髪はターバンの中にまとめ、片手に木箱を抱えていた。何かの職人だろうか。
「……」
イーラの目は自然と彼女の後ろ姿を追う。
「ご存知なんですか?」
「いや……。誰か、知っている人に似ているような気がしただけだ」
「そうですか。彼女は銀細工職人のフリム・ミードです。まだ若いですが、腕は確かですよ。王室御用達の職人ですから」
そう言って、また歩き出す。横の扉を抜けて回廊を奥まで進むと、近衛団本部の建物があった。入り口には既にラシュカの姿がある。
「お待ちしていました。……中へどうぞ」
イーラが来た目的をまだ聞かされていない彼は、怪訝な表情を隠しきれていなかった。
案内役の団員は下がり、二人は本部の中へと入った。大理石の床に、足音がやけに響く。
「さっさと話を聞きたいだろうが、少し我慢してほしい。他人の耳には入れたくない」
イーラは小声で呟いた。本部の広間には何人かの団員がいて、イーラの姿を物珍しげに見ている。ラシュカは答えた。
「誰についての話かだけでも、聞かせて貰えませんか」
「あなたの息子についてだ」
二人は広間を抜け、廊下を更に進んで応接室に入る。ドアが閉まるなり、ラシュカは焦ったように尋ねた。
「オーサンに何かあったんですか?」
「心配するな。オーサン自身の問題ではない」
イーラはそう言うと手の平を上に向けて、そこにナサニエルの顔を浮かび上がらせた。
「反魔力同盟の一人で、カイに危害を加えた男だ。今朝方、我々が確保した。ああ、大丈夫だ、カイなら無事だから。で、この顔に見覚えは?」
ラシュカはしかめ面でその顔を眺め、首を横に振った。
「全く分かりません。分かりませんが……」
彼の頭にはある考えが浮かんでいた。この男がオーサンに関係あるとしたら、それは。
「少し、顔が似ていますね。オーサンと」
ラシュカは自分の言葉に歯噛みした。いくら我が子のように愛情を注ごうとも、オーサンには実の父がいる。切り離すことの出来ない血の関係を、彼は呪いのように感じていた。
「そうだ。それを伝えに来た」
イーラは冷静に、こう続けた。
「名はナサニエル・ファーリー。元魔導師だが素行に問題があり、20年前に自警団から追放された。奴が尋問で吐いた話によると、それから名前を変え、宝石商として成り上がったらしい。金を手にした奴は娼館通いを始めた。そこで出会ったのがダリアと名乗る娼婦だ」
ラシュカの頬がひくりと痙攣した。その名は知っている。一度、オーサンの母についての話を聞きにその娼館へ赴いたことがあるのだ。誰かに目撃されるのではないかと、その時は気が気ではなかった。
「ナサニエルはダリアが自分の子を産んだことを知っていた。もちろん責任を取るつもりなど小指の先程も無かっただろう。それでも、子供の名前は把握していた」
「……それが、オーサンだと?」
イーラは頷いた。
「ラシュカ、あなたがオーサンを引き取った経緯は第二隊として私も知っている。今までどれほど愛情を掛けて育ててきたかもだ。だからこそあなたに確認したかった。この事実を、オーサンに伝えるべきかどうか」
ラシュカは迷わず答えた。
「答えは一つです、イーラ隊長。オーサンには黙っていて下さい。……誰よりも自分の血に悩んでいるのはあの子なんです。実の父が誰かを知り、それが同盟の人間で、更に親友のカイに危害を加えたと知ったら、心が壊れてしまう。
第三隊にはいますが、優しい子ですから。私が一番良く知っています。誰が何と言おうと、あの子は私の息子です」
魔術によって傷付いた患者たちは今日も目を覚ますことがない。レナはベッドサイドに立って彼らの治療をしながら、怒りと無力感に苛まれていた。
「……医長、医長」
医務官の一人が遠慮がちにレナに声を掛けた。
「なんだ」
「お客様がいらしているそうです。応接室で待っているとか。ジェイン・オーズと仰る方だそうですけど」
「ジェイン? 知らないな。誰だ。……とりあえず行く。後を頼む」
レナは病室を後にする。それからノックもせずに応接室のドアを開けた。
ソファに掛けていたその人物の姿に、彼女は一瞬言葉を失った。
「……コール」
口から掠れた声が漏れる。
コールと呼ばれたその客人はゆっくりと立ち上がり、レナを見つめた。
焦げ茶色のコートを着て、白髪混じりの髪を撫で付けた、壮年とも老年ともつかない風貌の男性だった。姿勢の良いその佇まいと頑として揺るがない瞳が、そこはかとなく威圧感を漂わせている。
「私を覚えていてくれたのか。君は随分、容姿が変わったようだが」
コールは真顔のまま言った。それから、その場から動けずにいるレナの元へ二、三歩近付いていく。
「それ以上近寄るな」
レナはコールを睨みながら吐き捨てた。その目に浮かぶのは怒りだ。
「……獄所台の人間が、名を偽ってまで何の用だ」
「今日は獄所台として来た訳ではない。個人的に、君に会いに来たんだ」
「私は会いたくなかった。二度とその顔を見たくなかった」
レナは半ば叫ぶように言った。
「私の中であなたは死んだ人間だ。亡霊と話すことなんて、一つも無い」
「レナ」
コールは懇願するような声を出した。
「私の過ちを償わせてほしい。25年前に君を裏切ったことを」
「四半世紀も経って今更? どういう風の吹き回しか知らないが、帰ってくれ。償わせてたまるか。私は一生許さない」
レナは背を向け、部屋を出ようとする。
「子供を」
コールが言うと、レナの足は止まった。
「君が24年前に、子供を産んだと知った。時期から考えて私との子だろう。……一目でいい、会わせてくれないだろうか」
「妄想も大概にしろ。二度と来るな」
語尾が微かに震えていた。レナは部屋を飛び出し、屋上へ駆け上がった。そこには一面にうっすらと雪が積もり、誰の姿も無い。
彼女はドアの鍵を閉めてそこに背を預け、両手で顔を覆った。叫びたいのを必死で堪えていると、膝の力が抜けていく。
ずるずるとしゃがみこんで、レナはそのまましばらく動かなかった。顔を覆う手を伝って、水滴が一つ、二つと雪の上に落ちていった。




