29、クソ野郎
「ローズさん、おはようございます。気分はいかがですか?」
看護官が病室のカーテンを開けると、柔らかな朝陽が部屋を満たしていく。ナンネルは自分がいつの間に眠りに落ちたのか、全く覚えていなかった。
「はい、この通りです。ご心配をおかけしました」
彼女はベッドに横たわったまま、笑顔でそう答えた。顔色は昨夜より良くなったようにも見える。
「朝食はもう少し後ですから、ゆっくり休んでいて下さいね」
看護官はそう言って病室を後にする。ナンネルは遠ざかる足音を聞きながら、夢現に自分が自警団に入ったばかりの頃を思い出していた。
――初めての給料を手にした後の休日だった。自警団では最初の給料のみ、三ヶ月働いた後にまとめて支給される。しかし衣食住は全て提供されるから、それほど困ることもなかった。
生まれて初めて自分の働きで得たお金。しかも、ナンネルにしてみればかなりの大金だ。ガベリアの貧しい家庭で育った彼女にとっては、何にも代えがたいものだった。
大切なその給料を持って、彼女は街に出た。まず向かったのは銀行だ。そこで給料の大半を、ガベリアの実家に送金した。
(こんな大金を目にしたら、お母様、倒れるんじゃないかしら)
ナンネルは母の驚く顔を想像して、頬を弛ませた。後で手紙を送ろうと思った。『キペルはいいところですから、今度、そのお金でこちらに遊びにいらして下さいね』と。
それから彼女は、便箋を買いに文具屋へと向かう。ガベリアには売っていないような、とびきり綺麗なもので手紙を書こうと思ったのだ。
角を曲がり、隣の路地へ入ったときだった。突然後ろから伸びてきた誰かの手が、ナンネルの鼻と口を塞いだ。
「……っ!」
彼女は抵抗する間も無く、鳩尾に叩き付けられた拳で意識を失った。
気が付くと、ナンネルは何処かの部屋にいた。幸い、拘束はされていないらしい。体を起こすと、自分が装飾の凝った天蓋付きのベッドに寝かせられていたことが分かった。部屋は広く、かなり立派な屋敷のようだ。
(誘拐された……?)
ナンネルは冷静に考えた。自分は今私服で、見た目だけで自警団の人間とは分からないはずだ。とすれば、ただの16歳の少女として誘拐された可能性が高い。
ドアの向こうで声が聞こえる。ナンネルはドアに近付き、息を殺して耳をそばだてた。
「上物ですよ。もう少しお代を弾んでくれてもいいんじゃありませんか」
ざらついた、不快な男の声だった。チャリン、とコインの音がする。男が下品な笑いを漏らす。
「感謝します、ヘッズ様。しかし、キペルには上物が沢山いますよ。遠出した甲斐があります。今日のなんか、ここスタミシアじゃあ滅多に見ませんぜ」
スタミシア? ここは、キペルではないのだろうか。ナンネルは急に不安が迫り上がって来るのを感じた。もしそうだとしたら、霊証で居場所を突き止めて貰うことが出来なくなる。本部の隊員の霊証が地図に現れるのは、キペルの中だけだ。
「あと三人は必要だ。あの方を喜ばせるには、これでは足りないかもしれない」
ヘッズと呼ばれた男の声がした。
「へぇ。鑑賞用、お慰み用、それから……?」
くくく、と男が笑うのを聞いて、ナンネルはぞっとした。この下品な男は少女の誘拐役、ヘッズはその少女を誰かに売る仲介人なのだろう。とすれば、ここは完全な裏社会だ。
ナンネルの手は小さく震え始めた。しっかりしろ、自分は魔導師だろうと鼓舞してみても、一度顔を出してしまった恐怖は消えない。
一人の足音は遠ざかり、一人はドアに近付いてくる。ナンネルは後退り、隠れる場所を探した。
(ベッドの下なんて、すぐに見付かってしまう。でも他に……)
ふと、窓が目に入った。取っ手は無く、嵌め殺しだ。ナンネルは駆け寄って下を覗いた。建物の裏側なのだろうか、そこにあるのは地面ではなく、流れの穏やかな水路だ。距離からすると、ここは三階くらいの高さらしい。
ガチャガチャと鍵を回す音がした。もう時間は無い。ナンネルは魔術を使って窓を破壊した。
男が飛び込んで来るのと、ナンネルが窓から飛び出すのは同時だった。
「逃げたぞ! 逃げた!」
頭上で男の声を聞きながら、彼女は派手な水飛沫を上げて水路の中へと消えた。
幸い、ナンネルは泳ぐことができた。特に潜水は得意だ。水の中に潜んだまま流れに乗って数十メートル進むと、水路の壁に梯子が掛かっているのを見付けた。
ずぶ濡れのまま急いでそこを登ろうとするが、焦りと、梯子に生えた苔のせいで手が滑ってしまう。
(急がないと……!)
そのとき、突如として上から身を乗り出してきた人物がいた。
自分が普段着ているのと同じ、紺色の自警団の制服。顔を見ると、はっと息を飲むほどに美しい青年だった。
「掴まれ!」
青年は腕を伸ばしてそう言った。ナンネルがそれを掴むと、彼は易々と彼女の体を引き上げた。
青年が地面に座り込む彼女の肩に触れると、ずぶ濡れだったその体は一瞬にして乾いていった。
「君を保護しに来た。あいつらは今頃仲間が取っ捕まえてるだろ。安心していい」
「ありがとうございます。お恥ずかしいです、私も魔導師なのに……」
「え? 君、魔導師?」
青年は目をしばたいた。
「はい。第二隊のナンネル・ローズと申します。配属されたばかりの新人です」
「なるほど。非番の日に事件に巻き込まれたってことだな?」
ナンネルは頷き、目を伏せた。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。私が油断したのがいけなかったのです」
「俺だって非番の日まで気を張ってたら疲れるぜ。悪いのは誘拐した方だ。奴らに関しては俺たちの方が詳しいから、俺からイーラ隊長に説明するよ。行こう、本部まで送る」
青年はそこで初めて笑みを見せた。つい見惚れてしまうような、魅力的な笑顔だ。
「あの……あなたの、お名前を」
青年がどこの隊の誰なのか、ナンネルはまだ聞いていなかった。
「エスカ・ソレイシア、第三隊だ」
「第三隊……」
ナンネルは少々面食らった。第三隊は手の付けようがないほどの荒くれ者が集まる隊と聞いている。イーラも、絡まれると面倒だからあの隊には近寄るなと言っていた。
「そんなに警戒するなよ。気性が荒いのは隊の一部だぞ。フィズとかいうクソ野郎が——」
「クソ野郎……」
ナンネルが一生使わないであろう、汚い言葉だ。完全に引いてしまった彼女の顔を見て、エスカは自分の失言に苦笑したのだった。
二人は運び屋を使ってキペル本部に戻った。誰もいない廊下を隊長室に向かって歩きながら、突然、ナンネルは膝が抜けたように座り込んだ。
「あ……」
勝手に手が震えてくる。誘拐されたときの恐怖が今頃になって甦ってきたのだ。
エスカはナンネルの側に屈み、すっと彼女の肩に手を置いた。
「やっぱり、怖かったんだろ。何かおかしいと思ってたんだ」
「……はい」
ナンネルは素直に認めつつ、溢れそうになる涙は必死に堪えた。こんなことで泣いていては、この先自警団が務まるはずはない。
エスカはポケットからごそごそと何かを取り出す。いつから突っ込んであったのか分からない、皺の寄ったハンカチだった。
「君が泣いてたことまで報告する義務はないから。今のうちに、どうぞ」
それから一週間後、第二隊に新たな隊員が加わった。女性隊員たちはわいわいと盛り上がり、男性隊員たちは少々嫉妬の色を覗かせながら、彼を迎え入れた。
「第三隊から異動になりました、エスカ・ソレイシアです。魔導師6年目の21歳です。不束ものですが、よろしく」
彼はナンネルをちらりと見て、こっそりウィンクしたのだった。
ナンネルは二人きりになったときを見計らって、彼に尋ねた。
「どうしてこんな時期に異動になったんですか?」
「イーラ隊長からスカウトされてね。俺も、第三隊には嫌気が差してたんだ」
「そうでしたか。……これ、お返しします」
ナンネルはきちんとアイロンをかけたハンカチを差し出した。エスカに借りていたものだ。
「ハンカチは常に美しいものを。第二隊の掟です」
「ありがとう。気を付けるよ」
二人は顔を見合わせて笑う。出会って僅かだが、確実に心は通じていたのだった。