27、後遺症
夜半、『干し林檎』の粗末なベッドの上で、ルースは小さな悲鳴を上げて飛び起きた。
「……っ」
荒い呼吸をしながら、彼は冷や汗が額と背中を伝っていくのを感じる。
今までに見たこともない夢だった。
――どことも分からない、ぼんやりとした空間に立っていたのはベイジルだった。彼は口を開き、自分に何かを言う。しかし声は聞こえない。
やがて彼は悲しそうに背を向け歩き出し、ふっと消えた。次にカイが現れる。ベイジルと同じように何か言っているが、やはり声は聞こえない。
背後で、嗄れてざらざらした声が自分を呼んだ。振り向くと、そこにはあの、爛れた顔をしたエイロンが立っていた。
彼の足元にはロットがうつ伏せに倒れている。ぴくりとも動かない彼の体の下から、じわじわと血溜まりが広がっていく。
ミネが現れ、倒れているロットに駆け寄った。やめろ、行くなと叫ぶが、声にはならない。次の瞬間、エイロンはナイフを振り上げてミネの喉を掻き切った。
血飛沫と、くぐもった彼女の声。背後で同じような声がいくつもこだまする。振り返れば、カイが、エスカが、エーゼルとオーサンが、血に塗れて床に転がっていた。
血の気が引き、力が抜けたように地面に膝を着く。嘘だ、これは夢だ。そう思ったとき、景色が一変した。
視界に広がるのは巫女の洞窟だ。オルデンの樹の下には、巫女の装束を纏ったセルマがいる。
自分は彼女に近付いていく。彼女は悲しそうに自分を見つめ、何かを言った。その蒼い目からは涙が溢れ落ちている。
自分の手が、意思に反してサーベルに伸びる。必死で抵抗しても無駄だった。洞窟の明かりに煌めいたサーベルは、セルマの胸を深々と突き刺し――
「どうした、ルース」
カーテンから漏れる月明かりに人影が動く。隣のベッドにいたエスカが起きたようだ。
「いえ、嫌な夢を……」
ルースは答えるが、その声は震えていた。エスカはベッドを降りると、彼の側へ寄ってその額にすっと指を添える。
「落ち着け。深呼吸だ」
ルースは言われた通りにする。不思議と夢の後味が消え、平常心を取り戻すことが出来た。エスカの魔術だろうか。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
「それならいい」
エスカは手を離し、こう続けた。
「エイロンに受けた拷問の後遺症だろうな。やっぱり、お前には休息が足りなかったか」
ルースは首を横に振った。
「いいえ。ただの夢ですから」
「ただの夢でも、それが何度も続けば普通ではいられなくなる。良く分かっているだろう」
エスカがミネのことを言っているのは分かった。繰り返し見る悪夢のせいで彼女が正気を失いかけたのを、ルースはその目で見ている。
「絶対に無理はするな。少しなら俺の魔術で何とか出来るかもしれないから。いいな?」
エスカが念押しすると、ルースは頷いた。
「心配をかけて、すみません」
エスカはふっと笑い、ベッドに腰掛ける。窓際のベッドでは、二人の話し声では起きる様子もないエーゼルが静かに寝息を立てていた。
「今さらだ。俺はお前が新人の頃から知ってるんだから。しかし、最近やたらと時が過ぎるのが早い。イーラ隊長の口癖だが、歳は取りたくないな」
「エスカ副隊長、いくつでした?」
「34歳だ。見えないだろ?」
「そんなこともないですけど。僕は年相応だと思います」
ルースが笑うと、エーゼルが何かもごもごと喋って寝返りを打った。
「いいんです、傷んだって……はい……副隊長と同じ……あ、その色で」
恐らくは髪色のことだろう。エーゼルはルースに少しでも近付きたくて、黒髪をわざわざブロンドに染めているのだ。
「……睡眠を邪魔しちゃいけないですね」
「どうせ眠れないんだったら、見回りついでに下に降りようか。食堂は自由に使っていいってここの主人も言っていたし」
そして、二人は静かに部屋を出た。
廊下を挟んで向かいにあるドアがカイたちの部屋だ。エスカはノブに手を掛け、ドアを細く開く。室内は何事もなかったらしく、彼は音を立てないようにそれを閉めた。
「……ぐっすりだ。まあ、今日くらいはな」
「スタミシアの隊員も巡回してくれていますしね。カイたちは、良く頑張ったと思います」
そう言ったルースの眼差しは優しく、どこか悲しげだった。
一階の食堂は暗く、もちろん人の気配はない。エスカが指を鳴らすと、天井から吊るされた古ぼけた笠の下で、ランプが一つだけ柔らかな光を放った。
木製の丸テーブルが三つの、小さな食堂だ。二人はランプの真下にある席に、向い合わせで座った。
「こうやってお前とゆっくり話せる時間があって、良かったよ。本当なら酒でも飲みながらが理想だけどな」
エスカは微笑んだ。何の狙いも無い、心からの笑みだ。
「副隊長、確か、お酒は飲まないでしょう?」
「よく覚えてるな。というか、副隊長と呼ぶのはやめろ。お前も副隊長だろ」
「じゃあ、エスカさん。……懐かしい呼び方ですね」
およそ10年前、ルースが自警団第二隊に配属された頃、エスカはまだ副隊長ではなかったのだ。
「そうだな。お前が配属初日に転んで、頭から窓ガラスに突っ込んだのは昨日のことみたいに覚えているよ」
エスカから見て新人のルースは、つい手を掛けたくなるような可愛らしい少年だった。人懐こく、笑うときはぱっと花が咲いたように顔を綻ばせる。何か新しいことを指導すれば、目を輝かせてそれに挑戦した。
それがガベリアの悪夢以降は、すっかり変わってしまった。冷酷さがその表情を凍り付かせ、時折笑顔を見せても、目の奥にある闇は隠しきれない。最初は嫌がっていた犯罪者への尋問も、躊躇なく行うようになった。
しばらくして、ルースは唐突に第一隊への異動を希望した。エスカはそれを聞き入れたイーラに反発した。今、彼から目を離せば、魔導師の道を外れて良からぬことをするかもしれないと。
彼女は「逆だろう。あいつは正しく力を使う為に、第一隊に行ったんだ」と言った。事実、そこからのルースの働きぶりは目を見張るものがあった。
策を練って街に跋扈する犯罪集団を一網打尽にしたり、メニ草の売人を懐柔し、その裏にいる栽培人を捕らえてその畑を没収したり。どれも第二隊にいては不可能だったことだ。21歳、最年少で副隊長となるに相応しい活躍ぶりだった。
「エスカさんには感謝しているんです。魔導師の基礎を教えてくれたのはあなたですから。僕はきちんとお礼も言わずに、第一隊に行ってしまったので……」
ルースは申し訳なさそうに目を伏せた。
「お前にも心配の絶えない部下がいるんだから、あの頃の俺の気持ちもちょっとは分かるだろう? 胃薬がいくらあっても足りない」
エスカが冗談めかして言うと、ルースは少しだけ笑って頷いた。細めたその目の奥にまだ闇があるかどうかは、分からなかった。