25、例え話
カイが囚われていたのは廃墟となった紡績工場だった。一階の作業場には何列もの紡績機がずらりと並び、窓から射し込む太陽に、糸の代わりに好き放題張られた蜘蛛の巣がちらちらと光る。
間の通路に、ロープで捕縛された同盟の6人が転がっていた。全員、目を閉じて気絶しているようだ。
「無事だったか、カイ」
地下から上がって来たカイたちにルースが駆け寄った。彼の外套にも、銃弾の貫通した孔が開いている。
「ちょっと危なかったですけどね。セルマのおかげでこの通りです」
カイが言うと、横にいたセルマは恥ずかしそうに俯いた。ルースは少しだけ笑い、レフに向き直る。
「君も。さっき、報告があったよ。家族は無事に保護したって」
レフは感極まって、また嗚咽を漏らしながら言った。
「ぼ、僕は、獄所台に送られますか? スタミシアの隊員たちにも、被害が……」
「それは無いと思うよ、脅されていたわけだし。隊員たちも気絶しただけで、大きな被害はなかった。まあ、一番の被害者のカイが訴えるって言うなら別だけど」
ルースがそう言うと、レフはばっとカイを振り返った。
「訴えるかよ。でも、そうだな。誘拐するときに俺の脇腹蹴り上げたのは、謝ってもらおうか」
カイはにやりとした。
「あれは本当に、ごめん。あのときは、反撃されたらと思うと怖くて」
「冗談だよ。家族が無事で、良かったな」
そう笑って肩を叩くと、レフもやっと穏やかな表情になった。
「これからどうするんですか?」
オーサンが口を開き、倒れている同盟の人間たちを見遣った。エスカとエーゼルが、彼らから没収した拳銃を前に何か話し合っている。
「自警団の人間がもうすぐ彼らを引き取りに来る。僕たちはこのまま、西8区に滞在する。せっかく長距離移動したし、いちいち支部に戻るわけにもいかないからね」
ルースはそう言った。エスカがふとこちらに気付き、何かを手に歩いて来る。
「ほら、カイ、お前のだ」
投げて寄越したのは、奪われていたサーベルだった。
「こんなもん奪って、どうするつもりだったんだか。魔導師以外は使えないだろう」
「いえ……。俺を痛め付けていた男、元魔導師らしいです」
「なんだって? どいつだ」
エスカはカイの腕を引いて、倒れている人間たちの側へ連れていく。カイは嫌なふうに鼓動が速まるのを感じながら、一人一人の顔を確認する。
「……いないです」
「なに?」
「この中にはいないです」
何度も確認したが、やはりあの男の顔は無かった。
「ちくしょう、取り逃がしたか」
エスカが舌打ちをした。
「元魔導師が絡んでいるとなると厄介だな。カイ、そいつは何か言っていなかったか?」
「問題のある尋問の仕方をして、イーラ隊長に自警団を追放されたと。何年前のことかは分かりません」
「なるほど。それなら隊長は覚えているはずだな。あの人の記憶力は恐ろしいから」
工場の入り口が騒がしくなる。見れば、自警団の人間が十人ほど連れ立って入ってくるところだった。
「無事ですかー?」
先頭を切って歩いてくる青年が、間延びした声を出す。
「フロウさん」
カイが呟いた。刺々しい榛色の短髪に、鼻ピアス。荒々しい容姿のその青年は、第一隊のフローレンス・グルーだった。副隊長補佐ライラックの弟で、カイにスパルタ指導をした先輩の一人だ。
彼は女性のような自分の名前が嫌いらしく、決して本名を呼んではいけないことになっていた。
「お疲れ様です、エスカ副隊長。引き取る荷物はそれですか?」
フローレンスは床に転がる人間たちをちらりと見た。
「ああ、頼む。ただ、一名取り逃がしたようだ」
「どんな奴ですか? 帰りに捜索しておきますよ」
「カイ、そいつの顔を思い出せるか?」
エスカが話を振ると、カイは頷き、手の平を差し出した。
「上手く出来るか分かりませんけど……」
彼は集中して男の顔を思い浮かべる。すると手の平から靄が浮かび上がり、徐々に色彩を帯びてあの男の顔を形作った。
「上出来。成長したな」
フローレンスはそう言うと、にっと歯を見せて笑う。任務に関することにはめっぽう厳しいが、誉めるところは素直に誉めるので、カイは彼のことが嫌いではなかった。
フローレンスがその靄を手で絡めとるようにすると、男の顔はぼやけて消えていった。
「指名手配もしときますか?」
「いや、油断させておいた方が捕まえやすいだろう。元魔導師らしいから、十分警戒するように」
「了解。では、とっとと行きます」
フローレンスは隊員達に指示を出し、同盟の人間を運び出していく。去り際にカイの肩を叩き、無事に帰ってこいよ、とウインクしてみせたのだった。
「あー、疲れた」
部屋の粗末なベッドに倒れ込みながらオーサンが言った。西8区の外れにある『干し林檎』。一行は自警団が手配した、その安宿に泊まることになった。
彼と同じ部屋にはカイ、そしてセルマがいる。カイはカーテンの隙間から、夜に沈んだ窓の外を警戒するように眺めている。セルマは既に、壁際のベッドで深い眠りに付いていた。
「怪しい奴、いるか?」
オーサンが尋ねる。
「いや。何も見えないけどさ」
カイは溜め息を吐いてカーテンを閉め、セルマの隣のベッドに腰掛けた。
控え目なランプの明かりに、セルマの人形のような寝顔が照らされている。もしかすると、彼女は自分を助けたことで体力を使い果たしたのだろうか。カイは情けなさを覚え、また溜め息を吐いた。
「俺さぁ、ちょっと思ったんだけど」
不意に、オーサンが言った。
「なんだ」
「多分、もう他人を傷付けても気持ち良くなったりはしないんだろうなって」
今までの彼の嗜虐性を考えればそれは嬉しいことだが、何故急にそんなことを言うのか。カイが怪訝な顔をしていると、オーサンは続けた。
「お前があんな姿にされてるのを見て、生まれて初めてぞっとした。『ガブロの狼』に出てくる、母狼ってとこかな」
ガブロの狼とは、リスカスで親が小さな子供に話して聞かせる、少々残酷な昔話だ。
遥か昔のリスカスに、ガブロという街があった。森に近いその街では、夜な夜な雌の人喰い狼が人間の子を拐って、臓物を食い荒らしていたという。
それに怒った人間は、ある日、罠を仕掛けて人喰い狼の子供を捕まえた。そしてその子供を撃ち殺し、森に捨て置いて様子を窺った。母狼が出てきたら、そこを仕留めてやろうとしたのだ。
しばらくして母狼がやってきた。変わり果てた我が子の姿を見て、母狼は何度も悲しそうに遠吠えをした。その目からは、驚いたことに、涙が流れていたという。
人間は母狼を仕留めるのを止め、そっとその場を離れた。それ以来、人喰い狼が人間の子を拐うことは無くなったそうだ。
「……自分の身に降りかかって、初めて気付いたってことか?」
カイが言うと、オーサンは神妙に頷いた。
「馬鹿なことしてたなって思ったよ。パパに申し訳ない」
彼は少し落ち込んでいるように見えた。カイがこれほど弱気なオーサンを見るのは、初めてだった。
「一体誰に似たんだか。こんな危ない人間になるなんて。……悪い血って、どうやったら薄まるんだろうな」
オーサンは天井を見つめたまま、それ以上は何も喋らなかった。