6、逃亡
朝5時に勤務を終えて部屋に戻ったカイは、制服を脱ぐのも面倒で、隊舎の自室に入るなりそのまま床に伏して眠ってしまっていた。彼が目を覚ましたのは、すっかり日も落ちてからだった。誰かが部屋のドアをノックしている。
「はい……」
寝惚け眼を擦りながらドアへ向かう。そこを開けると、制服姿のクロエが立っていた。彼女はカイの寝癖だらけの頭を見て、ぷっと吹き出す。
「ひどい格好。制服のまま寝たでしょう。今起きたところ?」
「ああ、うん。床でな。何時? 日付変わってないよな?」
廊下の眩しさに目を細めながら、カイは尋ねた。夜勤明けの当日は原則として休養日だが、翌日は仕事のことも多々ある。寝過ごしては大変だ。
「まだ当日の8時だよ。夕食も食べないで、お腹空かないの? ほら」
クロエは持っていた紙袋を差し出す。
「なにこれ」
「今日の夕食。ローストチキンのサンドイッチだよ。すっごい美味しかったから、食べないなんてもったいないと思って。食堂のおばさんに包んで貰った」
「へえ。ありがと」
カイは袋を受け取り、顔をくしゃくしゃにして大あくびをした。可愛らしい子犬のようだとクロエが頬を緩めていると、廊下の端から男性の話し声が聞こえてくる。二人くらいで会話しているようだ。
途端にカイの表情が険しくなり、クロエの腕を掴んだかと思うと、そのまま部屋に引きずり込んでドアを閉める。彼女は訳も分からず、勢いのまま部屋の床に尻餅をついた。
「痛っ……」
「静かに」
カーテンを開けたままの窓から射し込んだ月光が、ドアの向こうを睨み付けるカイの横顔を照らす。クロエの胸は変なふうに高鳴り、その顔を直視できなかった。
やがて声が通り過ぎていくと、彼の表情は緩み、慌ててクロエを助け起こした。
「ごめん。怪我しなかったか?」
「び、びっくりしたよ。なに?」
まだ動悸がするのは、単に驚いたせいだけではない。しかし、それはカイには絶対に悟られたくないことだった。
「いや、クロエが部屋に来てるところ、見られたくないから」
その発言に、彼女は少なからずショックを受けた。友人だと思っていたのに、見られると都合が悪いとは。
「何よ。私が来たら迷惑ってこと?」
「違う、逆だ。クロエに迷惑がかかるってことだよ」
カイは息を吐き、呟くようにこう続けた。
「あいつ、クロエが俺の部屋に来ている所なんて見たら、有ること無いこと言い触らすに決まってるんだ」
「あいつって、誰のこと?」
おそらくはさっきの声の主を指しているのだろう。カイは口ごもり、顔を逸らした。
「……別に知らなくていい。こっちの問題だから」
「さっきの、第一隊の先輩でしょう。ルース副隊長の話をしてた」
耳敏いクロエは二人の会話を聞き取っていたのだ。
「違う?」
「いいから。食事、ありがとう」
「え、ちょっと」
カイは彼女の背中を軽く押して、有無を言わせず部屋から追い出したのだった。
「ちっ……」
クロエの足音が遠ざかってから、カイは思わず舌打ちをした。声だけで分かってしまうとは、我ながら嫌な習性がついたものだ、と。
第一隊の先輩だというクロエの読みは当たっていた。その先輩こそまさしく、カイに嫌がらせをしてくる人物だ。
4期上のエーゼル・パシモンは、見た目は普通の好青年だった。中身は少々変わり者で、ルースを崇拝とも言えるくらいに慕い、少しでも彼に近付こうと黒い地毛をわざわざブロンドに染めたりしている。
ただ、慕いすぎる故なのか、ルースとは滅多に口を利くことがない。たまに利いたとしても、興奮して耳まで赤くなってしまい、まともに話せていないのをカイは目撃している。
そんな彼だから、カイが新入りのくせに自分よりルースと親しくしているのが許せないのだろう。入隊してすぐの頃から、すれ違いざまに小突いたり、二人きりになると暴言を吐いたりしているのだ。
こんなことに巻き込むのは申し訳ないと思って追い出してしまったが、クロエには後で謝っておかなければならない。カイはそう思いながら部屋の明かりを点けた。
「うわっ!」
そのとき初めて、部屋の中央に佇む生物に気が付いた。魔導師の連絡に使われる青い鳩、ナシルンだ。急かすように羽をばたつかせている。
「なんだよ、いつからいた?」
窓を開けた記憶はない。が、そもそも一部のナシルンには壁抜けをする力がある。それが使われたということは、何かしらの重要連絡ということだ。
「……」
カイはナシルンに近付き、おずおずとその体に指で触れた。これで、連絡を送ってきた相手のメッセージを聞き取ることが出来る。直接脳内に響いてくるので、カイも馴れるまでは不気味で仕方なかった。
メッセージはロットからだった。
『あの少女が医務室から逃げた。まだ遠くまでは行っていないはずだ。至急、追ってくれ』
「嘘だろ、あいつ!」
寝癖をなんとか手櫛で整え、外套をひっつかむと、カイは部屋を飛び出した。