24、気配
「カイっ!」
地下室のドアを蹴破ったのはオーサンだった。彼が手にしたサーベルには血が付着し、外套は所々破れ、銃弾が貫通したかのような孔も開いている。ここへ至るまでに激しい戦闘があったことを思わせた。
目に飛び込んで来た光景の凄惨さに、オーサンは一瞬言葉を失った。いくら嗜虐性のある彼でも、友人が血塗れになって天井から吊るされていたとなれば話は別だ。
「……おい、手伝え!」
オーサンは傍らのレフに向かって怒鳴り、自分のサーベルを投げて寄越す。レフが怯えながらそれを受け取ると、オーサンはカイに駆け寄り、肩に担ぐようにしてその体を支えた。生暖かい血がぬるりと手に触れ、反対に自分の血の気が引くのが分かる。
「ロープを切れ、早く!」
「う、うん」
レフは大慌てでロープを切る。崩れるようにオーサンに身を預けたカイを、彼は慎重に床に寝かせた。
「しっかりしろ。生きてんのか?」
彼の問いにカイは片目を開けた。もう片方は鞭で打たれたせいで、額から頬まで縦一直線にミミズ腫れになって開けないようだ。
「……何だよ、びびってんのか」
オーサンの引きつった表情を見て、カイは呻き声混じりにそう言った。
「痛むか?」
オーサンは冗談を返す余裕もなさそうだった。よほど自分は酷い見た目なのだろうとカイは思う。オーサンでこれなら、セルマが見たら失神するだろうか。
誰かが息を呑む音がし、視界の端にセルマの顔が映り込んだ。
「カイ……」
彼女は飛び付くようにカイの側に膝を着き、手を握った。その目にはみるみるうちに涙が浮かんでくる。
「大丈夫。今、治してあげるから」
彼女はそのまま目を閉じた。涙が一筋頬を伝うのと同時に、光る羽虫が一斉に湧き立ち、カイの視界は目映い光に満たされた。
日溜まりにいるかのように全身が暖かくなる。波が引くように痛みは消え、耳元で子守唄のような優しい歌声が聞こえた。
カイは心地よさに目を閉じる。このまま眠りに落ちてしまいそうだ。そう思った途端、目蓋の向こうの光はふっと消えた。
カイは再び目を開けた。自分を見下ろすセルマとオーサンの顔には安堵の色が浮かんでいる。彼はゆっくりと体を起こし、自分の全身を眺めた。さっきまで血塗れになっていたはずの体は、何事も無かったかのように綺麗になっている。
不意に、カイは後ろに押し倒されるかのような衝撃を感じた。セルマが自分に抱き着いたからだと気付くまで、数秒掛かった。
「良かった」
彼女は一言、涙混じりにそう言った。カイは腕を伸ばし、セルマの背中を優しく叩いた。彼女が自分をどれほど心配してくれたのか、言葉にせずとも、触れ合った肩に感じる震えで十分に伝わっていた。
ちらりとオーサンを見ると、彼は感激しているような半分にやけているような、実におかしな表情をしていた。
しばらくしてセルマは、はっとしたようにカイから離れて目を伏せる。その頬に少し赤みが差していた。オーサンが咳払いをし、口を開いた。
「……とりあえず、脱出するぞ。上で副隊長たちが大掃除してるからな」
「大掃除?」
「同盟の人間とやりあってる。この建物には6人くらいいたな。奴ら、銃を使いやがった」
オーサンは孔の開いた外套を摘まんで、顔をしかめた。
「その中に……」
カイは言いかけ、口をつぐんだ。自分を痛め付けたあの男――オーサンに面差しの良く似た人間。彼の本当の父がラシュカでないことは、カイも知っていた。かといって、こんな場面で偶然本当の父親に出会うとも思えない。
だが、あの男が自分を痛め付けていたときの恍惚の目。かつてのオーサンも、あれと同じ目をしていた。
(そんなもの偶然だ。絶対に)
カイはその考えを頭の中で打ち消した。
「なんだ?」
オーサンは怪訝な顔で尋ねる。
「いや、なんでも。……それより、レフの家族が同盟に囚われているって」
「安心しろ。エスカ副隊長が上手いことやってくれてる。今頃、保護されてると思うぜ」
オーサンが言うと、レフは膝の力が抜けたように座り込んで嗚咽を漏らした。
「おい、めそめそしてんじゃねえ。行くぞ」
「う、うん」
びくりと肩を竦め、レフは立ち上がる。学生時代から彼はオーサンが苦手だった。乱暴な物言いだけではなく、その嗜虐性を感じ取ったが故の本能的なものだったのかもしれない。
そしてレフも、口には出さないが思っていた。あの男とオーサンの顔が良く似ていると。
本部の医務室の入り口に、一人の女性隊員が姿を見せた。彼女の顔は青白く、今にも倒れそうだ。
「ナンネルさん、どうしたんですか」
クロエが慌てて駆け寄り、彼女の体を支えて手近なベッドに誘導した。
「ごめんなさい、お忙しいのに。少しだけ休ませて下さい……」
ナンネルは倒れ込むように横になると、そのまま目を閉じた。クロエはベッド周りのカーテンを引き、彼女の手首に触れる。やや脈が速いようだ。
「診察させてもらいますね」
頭、首、胸と順番に触れていく。特に異常は見られない。ナンネルの顔は以前より少しやつれたようにも見え、胃腸の病気だろうかとクロエは考える。
彼女の手が鳩尾に触れ、更に下へと移動したときだった。
「……結構です」
ナンネルは目を開け、クロエの手を掴んだ。
「え?」
「ただ疲れているだけですから。休ませて頂ければ、それで」
「でも」
「お願いします」
ナンネルは懇願するように言った。なぜそれほど診察を嫌がるのか、クロエには理解できなかった。
「どうしてですか? 私の腕が信用ならないということ――」
「そうではありません、決して。私は医務官の方々を信用していますよ。……でもこれは、私の問題。誰に迷惑を掛けるわけにもいかないのです」
あくまでも頑ななナンネルに、クロエも意地になってくる。医務官は命を助けるのが仕事なのだ。
「病気や怪我は迷惑なことなんかじゃないです」
少し声が大きくなった。
「どうしたの? 何かあった?」
カーテンの隙間から、ミネの顔が覗いていた。彼女はナンネルの姿を確認し、驚きに少し目を見開いた。
「ナンネルさん。どうしたんですか?」
「あの……」
クロエは口ごもった。診察を受けてくれないと話すのは、告げ口するようで気が引ける。
ミネはナンネルの表情とクロエを交互に見て、何か察したように言った。
「私が代わるよ、クロエ。あなたに包帯の発注を頼もうと思ってたの。いい?」
「……はい」
クロエは心配そうに視線を残しながら、カーテンの外へ出ていった。
ミネはナンネルに向き直り、言った。
「ごめんなさい。クロエが何か失礼なことを?」
「いいえ。彼女は医務官として、間違っていません。私がいけないのです。でも、診察していただく必要はありません。病気ではないのですから」
ナンネルは目を伏せた。
「病気ではない……」
ミネは呟く。そして、はっとしたようにナンネルを見た。
「やはり、経験が十年目ともなれば分かってしまいますか」
ナンネルは観念したように、小さく息を吐いた。
「……診察、させてもらっても?」
ミネの申し出に、ナンネルは素直に頷いた。ミネはゆっくりと、彼女の下腹部に手を添える。
「……」
やっぱり、とミネは思った。手に感じた小さなものの気配。それは決して魔術で操ることの叶わない存在。新しい、命だ。
「ナンネルさん、……妊娠しているんですね?」