21、顔
突如として現れたその人物と共に、カイは支部の二階の部屋に倒れ込んだ。視界は霧のような白い煙で満たされ、自分の足元すらはっきりとは見えない。
床に叩き付けられた衝撃で、カイはその煙をまともに吸い込んでしまった。
「げほっ……!」
むせかえるような刺激臭だ。同時に、意識が朦朧としてくる。
(なんだこれ……火事じゃないのか?)
焦げたような臭いは似ている。だが同時に、口の中に微かな甘味を感じていた。カイは出口を探して必死で床を這いながら、学生時代、薬学の授業で聞いた話を思い出す。
――特定の物質、例えば植物から精製した油ですとかね、それを燃やすことで、各種の煙を発生させることが出来ます。代表的なのは、煙幕効果があるゲボンの精製油。視界を奪うことで逃走の時間を稼ぐわけですよ。
それからジヤギス。霧のような白い煙が発生して、視界を奪うのはもちろん、その煙を吸うと意識が飛んでしまいます。火災の煙と臭いは似ていますけど、口の中が甘く感じたら、それはジヤギスの煙。さっさと逃げないと――
黒い影がカイの側で動く。次の瞬間、それは容赦なく彼の脇腹を蹴り上げた。
「がっ……」
息が詰まり、彼は何が起きているのか考える間も無く意識を手放した。
カイの背から落下したセルマを、間一髪でオーサンが抱き止めていた。
「大丈夫か!」
彼はセルマを降ろすと、急ぎ、二階に目を遣った。カイと何者かが突っ込んで粉々に砕けた窓からは、白い煙がゆっくりと立ち上っている。折しも、各階の窓からは隊員たちが次々と脱出してきていた。
二階からの脱出者は意識が無いのか、ほとんど落下と言ってもいいくらいの状態だ。あっという間に二人の周囲が喧騒に包まれる中、セルマが青い顔でオーサンの腕を掴んだ。
「今の……襲ってきた奴、見たことある顔だった」
オーサンは目を見開いた。
「なんだって?」
「本部の医務室にいた。いつも咳き込んでた患者だ。黒髪で、灰色の目をした男。クロエと仲良さそうに喋ってた」
オーサンには思い当たる人物が一人だけいる。特徴を聞いた限り、それは自分たちの同期に間違いなかった。
誰かの咳き込む声でカイは意識を取り戻した。ぼやけた視界には、どこかの地下室だろうか、裸電球に照らされた染みだらけの石壁が映る。
肩がやけに痛む。僅かに体が動くと、今度は手首に締め付けられたような痛みが走った。
「……っ」
カイは冷静に自分の状況を観察してみる。どうやら、両手をロープで括って天井に吊るされているらしい。魔導師が捕縛に使う、魔術を封じるロープだ。
(俺は魔導師に捕まったのか……?)
魔術も使えず、爪先だけが僅かに地面に着いている宙吊り状態で、カイには為す術がなかった。
制服の上着は脱がされていた。シャツの首元は開いていて、首に提げていた自分の認識票は無くなっている。
「こほっ……けほっ……」
部屋の隅でまた、誰かが咳き込んだ。目を遣ると、そこには見知った顔があった。
「……レフ! お前も捕まったのか?」
カイと同期の隊員、レフ・エイドだった。気が弱く、教官に叱責されては泣くような子だったが、成績は群を抜いて優秀だった。今は第四隊に所属している。
「ちが……違うんだよ、カイ。僕……こほっ」
レフは咳き込みながら、灰色の目を潤ませて答えた。彼は極度のストレスを感じると咳の発作に襲われる。学生時代も、よく医務室に通っていた。
カイはレフのその格好に、疑問を覚えた。なぜ黒いローブなど纏っているのか――不意に血の気が引くような感覚を覚える。まさか。
「お前……同盟の人間じゃないよな?」
レフの咳は一層激しくなる。彼は必死で、首を横に振った。
「けほっ、違う。さっき、君を襲ったのは確かに僕だけど……僕は、脅されて――」
「無事に帰りたいなら、余計なことは言うな」
黒ずくめの男が部屋に入ってきたかと思うと、間髪を入れずにレフを蹴り飛ばした。小柄な彼は物のように吹っ飛び、壁に当たって大人しくなった。
「レフ! おい、ふざけんな!」
カイが怒鳴った。男は意に介さず、フードをすっぽりと被った顔をカイに向けると、鼻でせせら笑った。
「そんな状態で、仲間の心配か?」
「うるせえ。お前、同盟の人間だろ。なんで俺をここに連れてきたんだ」
身をよじって暴れるとぎりぎりと手首が締め付けられ、肩も外れそうになる。カイは思わず顔をしかめた。
「本部に囚われている我々の仲間を解放してもらおうと思ってね。お前の隊が、彼らをずいぶん可愛がってくれたんだろう?」
男はカイに歩み寄り、彼の顎を掴んだ。
「羨ましいな。魔導師は合法的に、人を痛め付けることが出来るなんて」
「痛め付けてなんかいない。尋問しただけだ」
「ものは言い様。尋問も拷問とそう変わらないだろう」
男は手を離し、部屋の隅に歩いていく。そして、そこにあった何かを手にして戻ってきた。フードの下に愉快そうにつり上がった口の端が見える。
「人質にするならセルマを誘拐しても良かった。だが、そうなると近衛団が動くかもしれない。俺は面倒なことは嫌いなんだ。ただ楽しみたいだけだから」
男は小さく口笛を吹く。すると壁を抜けてナシルンが現れ、その肩に止まった。
「お前が痛め付けられる映像を見たら、流石に自警団の連中も動くだろう。特別扱いのカイ・ロートリアン君。安心しろ、魔術の拷問なんてしないから。あれは地味だ」
そう言って、カイの後ろに回り込んだ。ひゅんと風を切る音に続いて、カイの背中に焼けたような鋭い痛みが走る。彼は思わず叫び声を上げた。
「いいね。やはり拷問は派手に苦しんで貰わないと」
舌なめずりし、二度、三度と男は手にした鞭を振るった。カイの背にはじわりと赤いものが滲んでいく。
「やめて……」
レフが消え入りそうな声で嘆願する。男は一度手を止め、レフに顔を向けた。
「黙ってろ。お前の大好きなママがどうなってもいいのか?」
「それは……」
レフは大粒の涙を流しながら、俯いてしまった。
彼は家族を人質に取られている。カイはそう理解した。そうでなければ、あの気弱で優しいレフが仲間を売るような真似はしないはずだ。
痛みを堪えながら、カイは男を睨み付けた。
「目的は果たしたんだろ。だったら、レフは解放しろ。もう関係ない」
「駒は多い方がいいだろう。何かに使えるかもしれないし」
振り向き様、男はカイの顔面に鞭の一撃を浴びせた。
「がぁ……っ!」
片方の視界が赤く染まり、床にぽとりと血が滴る。
「思い出すよ。昔は犯罪者相手に、こうやって尋問したものだった。懐柔するより、魔術の尋問なんかより、余程手っ取り早い。それを、あいつ……」
男は舌打ちし、八つ当たりのようにカイに鞭を食らわせた。
「あの女、今も自警団に、居座っていやがる、イーラ隊長様が」
為されるがままに、カイの体には血が滲んでいく。レフは涙を流しながらも手を出すことは出来ず、激しく咳き込んでいた。
カイは絶え間ない痛みに意識が飛びそうになりながらも、考えた。こいつ、元魔導師なのか。
「俺を自警団から追放しやがった。獄所台に送られたくなければ自警団を去れ、だと。ふざけるな!」
激昂した男は滅茶苦茶にカイを打った。途中、フードが脱げてその顔が露になる。
(この顔……!)
怒りに歪みながらもどこか端整なその顔は、カイが知る、あの人物と良く似ていた。