20、落下、再び
エディトの告白を聞き、レンドルはその切れ長の目を微かに見開いた。
ベイジルのことが好きだった――他人の恋愛に口出しする趣味は無くとも、それが普通のものでないことは明らかだった。エディトとベイジルが近衛団で出会った14年前、彼は既に妻子ある人間だったからだ。
僅かな沈黙の後、彼女はこう続けた。
「それが常識的でないことは、世間知らずだった私にも流石に分かっていましたよ。でも、彼に心惹かれてしまったのは事実です」
エディトは言葉を切って窓際へ歩いていくと、おもむろに窓を開け放った。
曇り空から冷たい風が吹き込み、彼女の髪を揺らす。そこに垣間見えたのは、凛とした彼女の横顔だった。
「ベイジルがあの瞬間、魔術を使って弾道を逸らしたかどうかですが……答えは君の考える通り、イエスです。でもそのことは、あの混乱の最中で誰も気に止めなかった。彼はたまたま、王族を狙った凶弾に当たったと思われていました。ですが、確たる証拠があります。彼が身を挺して、王族を守ったという証拠が」
エディトは机の引き出しを開け、奥から手の平に乗るくらいの小瓶を取り出す。コルクで栓がしてあるその瓶の中には、僅かに先端のひしゃげた銃弾が一発入っていた。
「それは……」
「見ての通りですよ」
ベイジルの命を奪ったその弾丸は、彼女の手の中で銅色に鈍く光っていた。
「この弾は彼の頭を貫いた後、私の右肩に当たり、そこに留まりました。故に、紛うことのない本物と断定できます。誰にも触れさせないよう、ナイフを使って自分で抉り出しましたから」
その場面を想像して、レンドルは顔をしかめた。医務官の助けも借りずに傷口から銃弾を抉り出すなど、狂気の沙汰だ。だが、エディトは真逆のことを言った。
「私は案外、冷静だったのだと思います。だてに団長候補として育てられたわけではないですから。彼がこの弾に何らかの魔術を使った可能性もある。医務官が弾を取り出すために魔術を使えば、その証拠が消えてしまうかもしれない。そう思ったんですよ。
忌々しいことこの上ない銃弾ですが……ここには間違いなく彼の魔術の痕跡が残っています。彼の生き様そのものですよ、レンドル。近衛団として使命に殉じる——皆がその覚悟を持っているようでいて、いざとなれば迷うのが真実。でも彼は迷わなかった」
彼女は目を閉じ、すっと息を吸う。レンドルにはそれが、涙を必死で堪えたかのようにも見えた。再び目を開いた彼女は、小瓶を机に置いて静かに言った。
「カイは恨めしく思うのかもしれませんね。ベイジルは遺される自分たちのことを考えなかったのかと。近衛団の魔導師である前に、父親であって欲しかったかもしれない。死後の名誉より、魔導師の資格を失ってでも生きていて欲しかったかもしれません」
「むしろ、あなたがそう思っているのではありませんか?」
レンドルがはっきりと言った。
「王族を犠牲にしてでも、生きていて欲しかったと」
「……そんなことを考えていたら、私は今すぐ獄所台送りですよ。仮にも近衛団長がそのようなことを言ったなら、一生出て来られないでしょうね」
エディトは笑った。レンドルが今までに見たことがないほど、痛々しい笑顔だった。
「カイに伝えてもらえますか。ベイジルを助けられずに申し訳なかった。恨むなら私を恨んでほしいと。いずれは私も使命に殉じます。近衛団として何が正しいか、証明しなくてはなりませんから」
いつもより口数の少ないカイに付き添われ、セルマは長い廊下を隊舎へと戻っていた。その上の空な態度からして、自分が洞窟にいる間に何かあったのは確実だろう。それを彼に尋ねようとした、そのときだ。
「止まれ」
カイが緊迫した声を出し、セルマを自分の後ろに庇った。彼の手は既に、腰のサーベルに添えられている。
この先の廊下は突き当たりで右に折れている。人影は見えないが、確実に気配はあった。徐々に近付いてくる足音は何かを警戒しているかのように、進んでは止まるを繰り返していた。スタミシア支部の隊員だとしたら、妙な動きだ。
「隠れろ」
小声で言って、カイは柱の陰にセルマを押し込む。自分もそこへ身を隠すと、首を伸ばして前方の様子を窺った。
「まさか、同盟の……?」
セルマが呟いた。こんなにも早く来るとは想定外だ。それに、本部襲撃を受け普段より警備が強化されている中でどうやって侵入したというのか。
「分からない。でも、怪しい」
床に影が映った。カイがごくりと唾を飲む。緊張の一瞬の後、その人物は素早く、身を翻すように角から姿を現した。
カイと同じように片手をサーベルに添えた、オーサンだった。
「オーサンかよ。紛らわしいな」
カイは溜め息と共に肩の力を抜いて、柱の陰から出た。セルマもほっと息を吐いて、それに続く。
オーサンも自分が警戒していた相手がカイだと気付いたのか、表情を弛めて駆け寄って来た。
「仕方ないだろ。支部の中とはいえ、気を抜いたら殺されるぞってエスカ副隊長が脅すからさぁ」
そう愚痴をこぼしてから、セルマに顔を向けた。
「とりあえず無事で何より。さ、戻ろうぜ。ベロニカさんから話があるみたいだから」
それから三人は連れ立って黙々と廊下を歩いた。途中、セルマは不意に足を止めて、鼻をひくつかせた。
「なんか、焦げ臭いような……」
「焦げ臭い?」
カイとオーサンも臭いを嗅いでみる。確かに、喉に染みるような刺激臭がする。ただ、目に見える範囲に煙が立ち込めている様子はない。
「まさか、火事?」
オーサンが言ったその瞬間、けたたましい鐘の音が建物内に鳴り響いた。短く繰り返すその音は、直ちに外へ避難するよう呼び掛けるものだ。カイもオーサンも、訓練以外では初めて聞く音だった。
こういった場合は、窓からの脱出が最優先とされる。オーサンはすぐに手近な窓を開け放ち、身を乗り出して下を確認した。
「下は芝生だ。人もいないし、安全に着地出来そうだぜ」
「嘘だろ」
セルマが顔を引きつらせた。彼は安全と言うが、ここは四階だ。本部の屋上から飛び降りたときの感覚が甦り、体がぶるっと震えた。
「先に行け。俺はセルマと一緒に降りる。ほら、早く乗れ」
そう言うと、カイはセルマの前に屈んだ。
「じゃ、お先に。セルマ、五階が平気なら四階なんて楽勝だろ?」
オーサンはにやりと笑い、躊躇いもなく窓から飛び出していった。
「俺を信用しろ。オーサンよりはゆっくり降りられるから」
カイは安心させるように言い、半ば無理矢理にセルマを背負った。それから窓の縁に足を掛け、一気に身を乗り出す。
結論から言って、彼の言う通りだった。二人は歩くくらいの速さで、ゆっくりと落下していく。
「本当だ……」
セルマがそれに感動しつつ、二階の高さ辺りまで降りたときだ。
「オーサンっ!」
カイが突如大声を出し、セルマの体を振りほどいた。
「えっ」
彼女の体は途端に、重力に引かれて落ちていく。遠ざかる視界に、勢いよくカイに突っ込む黒い影が映った。その何かごと、カイは窓を突き破って建物の中へと消えた。