18、元の姿
セルマの頭に流れ込んでくるガベリアの悪夢の記憶は、場所を変え、人を変え、繰り返し彼女を苛んだ。
(なんで悪夢の記憶ばかり……?)
平和な日々が一瞬にして闇に染まり、人々は何が起きたのか知る由もなく消えていく。声すら上げることはない。
もう何人の記憶を見たのか分からない。心は擦り切れ、これ以上耐えられそうになかった。
その時、セルマは再び闇の中へ投げ出された。呻きと悲鳴が耳をつんざき始める。耳を塞ぎながら、彼女はふと気が付いた。
(声……。そうか、これって)
これが全て、ガベリアの悪夢で消えた人々の声なのだとしたら。この空間がどこなのか、理解出来るような気がした。
(私、オルデンの樹の中に閉じ込められているんだ)
そして樹に囚われたままの魂が、自分に助けを求めている。きっとそうに違いない。そう思うと、消えかけた気力が不思議と湧いてくるようだった。
(忘れかけてた。私は、ガベリアの巫女なんだ)
セルマは耳を塞いでいた手をゆっくりと離す。深呼吸して心を落ち着けると、形にならない無秩序な叫びの中に、はっきりと言葉が聞き取れた。
――もう一度会いたい。
セルマの頬に涙が伝った。悪夢で消えた彼らの苦しみを理解するには、その一言だけで十分だった。
セルマは胸元の首飾りを握った。今こそ、真の理由が分かった。タユラがなぜ、意志だけの存在になってまでも自分を見つけ出し、導いたのか。
彼女は、救いたかったのだ。自らの過ちで、ここで永遠に彷徨うことになってしまった人々を。
セルマは涙を拭い、叫んだ。
「約束するよ。私はガベリアを甦らせる。あなたたちがもう一度、大切な人に会えるように!」
夢から覚めた時のように、頭がぼんやりとしていた。セルマの視界には洞窟の高い天井が映る。そこへ、すっとパトイの顔が現れた。
「耐えましたか」
パトイは呟き、セルマが体を起こすのに手を貸した。
「……耐えた、って?」
セルマはまだ自分の頬を濡らしていた涙を、手の甲で拭った。意識を失う前に黒水晶の葉で体中に刻まれた傷は、不思議と消えていた。制服も元に戻っている。
「オルデンの樹は貴女の心を弱らせ、取り込もうとしたはずです。だが、セルマ。貴女は自分の役目を忘れなかった。……こんな方法で試したことを詫びます。そして前言を撤回しましょう。貴女はガベリアを託すのに、相応しい巫女です」
そう言って、驚いたことに、パトイは微笑んだのだった。セルマは思わず口走る。
「笑った……」
「私とて笑うときはあります。400年振りくらいでしょうか」
そして真顔に戻った。
「オルデンの樹と巫女は、リスカスの歴史の中で永く共存してきました。樹の強大な魔力を制御し、秩序を守り、人々に平和な日々を与えるため。貴女は驚くでしょうが……この樹は元々、このような色ではなかったのですよ」
パトイが目を遣った先には、今も黒々と輝くオルデンの樹がある。
「え? 黒じゃなかったってことか?」
「左様。私が巫女になった540年前、この樹は確かに、何色にも染まらず透き通っていました。それがあるときを境に、このような色に変わったのです。400年ほど前……キペルで巫女の器が殺されたときから」
「うそだろ? だって、新たな巫女になるはずの人間がいなくなったら、巫女が途絶えてしまう……」
セルマはそこで、はっとしたように言った。
「だから、イプタは千年も?」
「左様。イプタが千年にも渡りキペルの巫女を続けているのは、そのせいなのですよ。本来であればその巫女の器、リュマに引き継がれ、彼女は役目を終えるはずでした。が、まだ赤子だったリュマは殺された。近衛団の中に、裏切り者がいたのです」
「そんな」
セルマは言葉がなかった。今の近衛団、例えばエディトやレンドルを見ていると、そんなことをする人間があそこにいるとは思えなかった。
「どんなことでも言えますが、昔と今は違います。あの頃の近衛団は今よりも大所帯で、末端まで統制が取れていなかった。一部の人間が危険な思想を持っていたことに、気付けなかったのです」
「危険な思想?」
「巫女が魔力の秩序を守ることを、良しとしない人々がいた。要するに巫女は必要ないと。その当時、巫女が消えればガベリアの悪夢のようなことが起こるとは、誰も想像しなかったのです。
彼らは、魔力はもっと自由に使われるべきだと考えていたのでしょう。どこか、反魔力同盟と似たところがありますね。
だが巫女を手に掛けるには、洞窟に入らねばなりません。洞窟へは、オルデンの樹が認めた者しか立ち入ることが出来ない。そこで彼らは、手に掛けやすい巫女の器を選んだ。……なんと罪深いことか。無垢な赤子を殺めるなど」
パトイの表情が悔しさで歪んだ。彼女はオルデンの樹に顔を向けて、こう続ける。
「樹は巫女の器が殺されたことを知って、激昂した。それを期に、このような色に変わってしまったのです。そして以前よりも、制御するのが難しくなっていった。
そこに、タユラの死が止めを刺しました。秩序は失われ、魔力が人を殺めるように……。もはや、巫女の力を失いつつある私やイプタだけでは、秩序を取り戻すことは出来ません」
彼女はそう言って、黒曜石の瞳でじっとセルマを見た。
「貴女がどれほどの重荷を負わねばならないか、私は理解しているつもりです。故に、貴女がオルデンの樹に打ち勝てるのか試すような真似をしました。重荷を負うだけの、力があるのかと。
この洞窟を出れば、貴女は多くの危険に晒されることになります。仲間がいるとしても、ガベリアの洞窟へ辿り着く頃には一人になっているかもしれない。それでも、私は貴女に託したい。ガベリアを甦らせ、オルデンの樹を元の姿に。この世界に生きる、愛する人々のためです」
セルマの蒼い瞳がパトイを見返した。凪いだ水面のように穏やかな瞳は、覚悟を決めた彼女の心の内を映していた。
「タユラは記憶の中で、私がガベリアの洞窟に辿り着いて、全てを変えるって言ってたんだ。そうでなければリスカスは滅びるって。だったらもう、私は行くしかない。例え一人になってでも」