17、側にいた人
「セルマは、まだですか」
地下でセルマを待つレンドルの元へ、カイがやって来た。セルマが洞窟へ入ってからまだ二十分ほどしか経っていない。隊員たちは部屋で待機するよう言われていたが、短気なカイは痺れを切らしたのだろう。
「まだ中にいる。何かあったか?」
「いえ。……心配になったので」
少し間があった。レンドルは不可解に思い、カイの顔を覗き込む。白手袋をはめた手が、無意識にサーベルの柄を撫でた。
「本当は違うと、顔に書いてあるね。何か他の目的が?」
カイはぎくりとした表情をする。天と地ほどに経験の差がある魔導師に誤魔化しが効くはずもなく、白状するしかないとすぐに悟った。
「あなたに用があって来ました」
もちろんセルマが心配なのは本心だ。だが、目的はレンドルだった。彼に、どうしても聞きたいことがあった。
「そうか。聞こう」
柄から手を離して、レンドルは穏やかに言った。カイはほっとして、こう切り出した。
「副団長は、知っていますか? ベイジル・ロートリアン……俺の、父さんのこと」
一瞬、空気がひりついた。カイはごくりと唾を飲む。ある種、タブーの質問をしてしまったかのような焦りを感じた。
だがレンドルはカイの目を見ながら、ゆっくりと頷いた。
「もちろん。個人的な付き合いはなかったが、同じ近衛団の仲間だったから」
「じゃあ、父さんが死ぬことになった任務について、知っているんですね?」
すがるような視線がレンドルに刺さる。彼はそれを、逸らさずに受け止めた。当時を知る人間として、ベイジルの息子である彼に答える義務がある。
「ああ」
「教えてくれませんか。俺は、ずっと疑問に思ってたんです。エヴァンズ隊長が仕組んだこととはいえ、同盟の放った銃弾が、そんなに都合よく父さんの頭に命中するのかって」
「最初からベイジルが狙われていたと?」
カイは首を振って否定した。
「いいえ。同盟が父さんを狙う理由がない。奴らが王族を狙ったのは本当だと思うんです。俺が考えているのは、その……」
カイは口ごもった。自分でも認めたくない事実を、自分の口から言おうとしている。無性に胸が苦しかった。しかし、確かめずにはいられない。
「父さんは、責任感のある人でしたよね」
「そうだな。模範と言ってもいいくらいだ」
「近衛団は、王族を命に代えても護る」
「ああ。それは間違いない」
声が震えてくるのを必死でこらえて、カイは続けた。
「近衛団員なら、魔術で銃弾を止めることは出来ますか?」
レンドルは少し考えてから、こう答えた。
「それは、無理に近いだろうな。それが出来るなら、過去に同盟の犠牲になった魔導師はもっと少なかったはずだ。ただ、間一髪で弾道を逸らすくらいなら出来るかもしれない。本当に一瞬の判断だが」
カイの目が涙で曇り始める。レンドルも、彼が何を言いたいのか理解していた。
「やっぱり……。俺は父さんが、弾道を、あえて自分の方に逸らしたんじゃないかと思っているんです。王族を護りながら、周囲の人にも犠牲を出さないように。俺の知っている父さんなら、そうしたと思うんです。間違っていますか?」
「落ち着いて聞いてほしい」
レンドルはカイの肩に優しく手を置いた。
「私はあの時、ベイジルの近くにいたわけではない。だから、彼が撃たれた瞬間も目撃していない。君の考えていることが真実だとしても、私には確たる答えを出すことが出来ないんだ。……だが、あの瞬間、彼の側にいたのが誰かは知っている」
「誰なんですか。教えて下さい」
「エディト・ユーブレア。今の近衛団長だ」
地面に倒れたまま動かないセルマの側に、パトイは膝を着く。そして、彼女の額に掛かる髪を指でそっと払った。
セルマの薄い目蓋の下で、眼球が忙しなく動いているのが分かる。どうやら夢を見ているようだ。彼女の苦しそうな呼吸からして、いい夢でないことは確実だった。
「私は私なりに、リスカスの人々を愛している。だからこそ忠実に巫女の役目を果たしてきたのだ。魔力が、人の命を奪うことのないように」
パトイは手を離し、微かに表情を歪めた。
「私とて、ガベリアが甦ることを望んでいる。……貴女に託すことが正しいのか、見定めさせてもらいましょう」
セルマは闇の中で声を聞いた。地を這うような呻き声と、甲高い悲鳴が混じりあったそれは、徐々に大きく、耳をつんざくほどになる。
「ここ、どこなんだ……」
彼女は耳を塞ぎ、周囲を見回す。目を凝らせども見えるのは闇。自分の体すら判然としない。
どこから響いているのか分からないその声は、いつまでも止む気配が無かった。
(気が狂いそうだ。どうしたら……)
鼓動が乱れ、思考も纏まりを失っていく。背中を駆け上がる恐怖にセルマが目を閉じた、その時だった。
ふと、声が消えた。そして、目蓋の向こうが徐々に明るくなっていく。セルマが恐る恐る目を開けると、闇に包まれていた景色は一変していた。
目の前に広がるのは、どこかの街並だった。石畳の広場では子供たちがはしゃぎ回り、噴水の水が穏やかな陽射しにきらきらと輝いている。平和な光景だ。
また、誰かの記憶を見ているのだろうか。セルマはそう思った。視線をずらそうとしても、自分の意思では動かすことが出来ない。
「何だろう、あれ」
広場で遊んでいた少年の一人が空を指差し、セルマの視線もその方向へ向かう。快晴の空に遠く、微かに黒い点が見えた。
「何? 見えないけど」
他の子供たちは首を傾げている。
「そう? 気のせいかなぁ……」
「そんなのより、次、お前の番だよ。早く早く」
少年は仲間たちに急かされ、その黒い点のことなど忘れたかのように遊びの輪に戻っていく。
セルマは鼓動が速まるのを感じた。視線はもう一度、空の黒い点に向かう。それはまだ、間違いなくそこにあった。
これは一体誰の記憶なのか。考える間も無く、セルマの体は走り出していた。
(ここ、ガベリアだ)
走りながら、セルマは思い至った。空に浮かぶあの黒い点は――悪夢の予兆だ。
路地を抜け、広い通りに出た。多くの人々が行き交う中、一人の後ろ姿に目が止まる。紺色の自警団の制服、そして、燃えるように赤い髪の女性だ。
(ミネさん……?)
彼女は立ち止まり、空を見上げていた。さっきまで黒い点だったものは、水に滲んだように空に広がり始めている。
間に合わない、そう直感した。セルマは離れた場所にいる彼女に手を翳す。視界に入り込んだ腕は、男性のものだった。
自分が消えたとしても、彼女だけは守りたい。セルマは胸が裂けそうな程の強い思いを感じた。
彼女の名前を呼ぶことは叶わず、次の瞬間、視界は闇に呑み込まれていた。