5、失ったもの
7年前のその日、ミネはガベリアにいた。医務官となって三年目の18歳、先輩に着いて各地の病院で研修していた頃だった。
自警団の中だけでは、患者の層が限られて見識が狭くなってしまう。老若男女、様々な症状を持つ患者がいる病院での研修は、重要な仕事の一つだ。
病院で治療に当たるのは無論、医務官だった。二年生で医療科に振り分けられた学生は、魔術学院を卒業する際、今後自警団で働くか病院で働くかを選ぶことが出来る。
ミネはどちらも捨てがたかったが、自警団監察部に入った想い人を追って自警団を選んだのだった。
「いい? 私たち医務官は、技術あってこそよ。経験こそ宝、まずは数をこなして自信を付けなさい。内から滲み出るものは、言葉なんかよりずっと説得力があるわ」
熱く語る先輩のリーナに、ミネは大きく頷いた。彼女の語ることはもっともだと思う。かつて自分が治療を担当した患者に「お前は信用ならない」と言われてから、彼女はとにかく自信がないのだった。
その日、二人はガベリアで一番大きな病院へと向かっていた。街はキペルほどではないが、人々が行き交い、活気に満ちている。街を縫うように伸びる石畳の小路、店の軒先に掛かるお洒落な看板、広場の大きな噴水と、そこで遊ぶ無邪気な子供たち。ミネはそんな、平和なガベリアの街が好きだった。
「確か、七日風邪が流行っているんですよね?」
「そう。何より子供が心配よね。体力が無いから――」
リーナはふと足を止めた。視線は遠く、南の空の方へ向けられている。
「リーナさん?」
不思議に思い、ミネもそちらへ目を向ける。
「あ……」
異常だ、と直感した。
澄んだ水の中へ墨を流したように、そしてそれがじわりと広がるように、冴えた青空が黒煙に覆われていく。人々も皆、一様に空を見上げてその場に固まっていた。
「リーナさん、あれって」
「逃げなさい、ミネ! 早く――」
低い地鳴りが聞こえた気がした。次の瞬間、ミネの視界は闇に染まっていた。
ミネが意識を取り戻したのは、キペル本部の医務室だった。ベッドの周りを何人かの魔導師が囲み、深刻な顔で彼女を見ている。襟章を見るに、各隊の隊長のようだった。
「あの……私は……」
目の前が闇に染まった後の記憶が無い。そうだ、先輩は。
「リーナさんは? 無事ですか? 何があったんですか?」
隊長たちは何も答えない。何か言いたそうに、けれど、何も言葉が出てこないようだった。ミネはふらつく体で起き上がり、再度尋ねた。
「教えて下さい。ガベリアで、何があったんですか? 仲間は無事ですか?」
ガベリアには同期の魔導師も沢山いた。仲の良い友達も、彼女の想い人も。
隊長たちは顔を見合わせるだけで、やはり何も答えなかった。ミネが起きたことに気付いた医務官が、慌てて駆けてきた。
「落ち着いて、ミネ。まだ回復していないんだから」
「何があったんですか。教えて下さい。教えて! 教えてくれないなら自分の目で確かめます!」
やや興奮気味のミネは、止めようとする医務官を押し退けてベッドから降りる。床に片足を着き、もう一方を降ろそうとして、恐ろしいことに気が付いてしまった。
「え……」
右脚の膝から下が、無かった。何度見ても、寝間着のズボンの裾が虚しく垂れ下がっているだけで、そこにあるはずのものが無い。
「私の……脚……」
ミネの頭は考えることを拒み、激しい耳鳴りに襲われる。声にならない悲鳴を上げ、彼女は床にくずおれた。そしてそのまま、意識を失った。
次に目覚めたときは、別の人物がベッドの脇にいた。
「ルース」
掠れた声でミネは言った。まだ頭はぼうっとしていて、視界は霞んでいる。それが涙のせいだとは、自分でも気が付いていなかった。
「ねえ、みんなは――」
「消えたよ」
彼は無表情に、残酷な言葉を呟いた。虚ろな目はもはや、ミネを捉えてはいなかった。
「ガベリアは消えた。そこにいた人たちもみんな。僕の家族も、君の友達も。全部消えたんだ」
「嘘。だって、私は生きている」
「君だけだよ、ミネ。生き残ったのは、君一人だけだ」
――ミネはセルマの話を聞いていることに耐えられず、廊下へ飛び出した。しかし角を曲がった所で、バランスを崩して派手に転ぶ。冷たい床に伏して、彼女は少し冷静さを取り戻した。
足元に外れた義足が落ちている。こうなるから、本来、走るのは禁止されていた。そんなことも忘れるなんてと彼女は自嘲し、義足を着け直す。
「ミネ」
ルースが静かに歩いてきた。そして彼女の脚に、ちらりと目を遣る。
「ああ、これ。最近合わなくなってきて、すぐ外れるんだ。太ったのかな?」
ルースはそれには答えず、ミネにすっと手を差し出して立ち上がるのを手伝った。
「……痩せたんだろ。最近、やたらと夜勤ばかりじゃないか。理由は?」
彼の真剣な視線を受け止め切れず、ミネは俯いて手を引っ込めた。沈黙が流れる。薄暗い廊下に二人以外の姿は無く、どこまでも静かだった。
ルースとは同期以上に、ガベリアの悪夢を経験した仲間としての関係がある。それは忘れたくても忘れられず、生きている限り永遠に付きまとうものだった。逃げることなど、到底出来ない。
ミネは小さく息を吐き、顔を上げた。
「夜に眠ると、夢を見るの。ガベリアの悪夢の日を何度も繰り返し。明るいうちに眠れば大丈夫だから、夜勤を多く入れてもらって昼間に眠るようにしてるんだ」
「最近になって急に?」
「そうだね。ひと月くらい前から。あれから7年も経って、もう大丈夫だと思ってたのに」
初めの頃は毎日、あの夢を見ていた。悲鳴を上げて飛び起き、脚が無いことに気付いて、更に絶叫する。最終的に医務室では手に終えず、ミネは病院の精神棟に収容されていた。
通常、事故で欠損した身体の部位は魔術で元に戻すことが出来る。しかし、ガベリアの悪夢で失ったミネの脚は、誰がどんな魔術で治療しても元には戻らなかった。
「僕も最近、夢を見るようになったよ」
ルースは言った。
「ミネの夢ほど恐ろしくはないけど。ほとんどがクラウスとの思い出で、それが突然、闇に呑まれて消えるんだ」
クラウス・ヴィットはルースの親友で同期――そして、ミネの想い人――だった。
「僕らがまた夢を見るようになったことと、あの首飾りが見付かったこと、無関係とは思えない。どちらもガベリアの悪夢に繋がることだから」
ミネはクラウスの名に微かに動揺を見せたが、努めて冷静に言った。
「首飾りが、ガベリアと? じゃあ、あの子も?」
「分からない。でもあの子が拾った首飾りは、ガベリアの巫女タユラのものだった」
ミネは思わず息を呑んだ。
「本当に? だって、あの日」
「全て滅びた。それは間違いないと思うよ。首飾りも巫女と一緒に。でも、隊長が誰かから聞いた話では、首飾りだけはどこかに存在していたらしい」
「一体、誰から?」
ルースは肩をすくめた。
「隊長は絶対に言わないだろうね。でも、大体の察しは付く。キペルか、スタミシアの巫女のどちらかだと思うよ」
「そっか、ロット隊長、昔近衛団にいたんだもんね。あり得なくは無いかも」
「この件は隊長に任せるつもりだったんだ。見ていたら分かるだろう。ガベリアが絡むと、僕は冷静ではいられない」
ミネには、その気持ちが痛いほど分かっていた。家族も親友も、帰る場所も失った。もしそれが戻ってくるのなら、僅かでも希望があるのなら。必死で縋りたいと思うのは当然だ。
ただ、この世には絶対に覆らないことがある。死んだ人間は、生き返らない。どんな魔術をもってしてもそれは不可能だ。
「私、ルースの考えていることが少し分かる気がするよ。巫女の首飾り、それがあればもしかしたら……」
失った人々を生き返らせることが出来るかもしれない。だがそれは、口には出来なかった。不可能と分かっているのに、口にすると、それに頼ってしまう気がした。
「僕もミネの考えていることが分かる。だから、あえて言わないよ。……やっぱり、全て隊長に任せるべきだね。僕らは全然、冷静になれないから」
ルースは悲しげに微笑み、静かにその場を去っていった。