11、冷酷
子供のはしゃぐ声が聞こえる。目を閉じていても、弾けるような笑顔が頭に浮かぶ。唐突に、何かが腕の中に飛び込んでくる。その柔らかな髪を撫で、小さな体を抱き締めると――
鬱蒼とした森の中、獣の唸り声がロットを夢想の中から引きずり出した。倒木に寄り掛かって体を休めていた彼は、ゆっくりと目を開ける。日が落ちはじめた薄闇の中、ぼんやりとした獣の輪郭が眼前に迫った。
吐き出される息がロットの鼻先にかかる。まだ消化され切っていない血肉の匂いがした。この獣は、腹を空かせているわけではなさそうだ。
「狼か……。ここは君の縄張りかい。失礼したね」
ロットは焦る様子も無く立ち上がり、身に纏った黒いローブの埃を払う。そろそろ、動き出しても問題ない時間帯だ。
狼は不思議と、唸るのをやめていた。ロットが魔術をかけたのだ。魔導師の掟では動物を操ることも禁止されているが、今の彼には関係のないことだった。
ロットはフードを深々と被り、歩き出した。行く先は明確だ。エイロン自身に掛けた追跡の魔術はまだ生きている。本人に気付かれない限りは、追跡を続けられる。
その刹那、銃声が響き、ロットの足元の泥が跳ね上がった。
ロットは素早く木の陰に身を隠した。すぐに二発目の銃声。また地面の泥が跳ね上がる。単に技術がないのか、威嚇なのか。
人影を捉えたロットは、そこへ向かって手を翳す。くぐもった声を上げて、その人影は地面に倒れ込んだ。
「狙うなら、獲物をちゃんと見ることだ」
その人物に近付きながら目を凝らす。そこにいたのは、まだ年端も行かない少年だった。小柄で、カイよりももっと年下に見える。暗闇に紛れるためか彼も真っ黒な外套を纏っていた。
「黙れ。お前がエイロンにくっついてる虫か」
少年は反抗的な目でロットを見返した。
「君は、反魔力同盟の?」
「それ以外何がある。山賊に見えるか?」
少年は立ち上がり、後退りながら銃を構える。同盟の仲間たちには、少しの間足止めすればいいと言われている。それに加えて、彼には油断があった。
(こいつは俺みたいな子供に手荒な真似はしないって、皆は言ってたし。適当に話を延ばして……)
「可哀想に」
ロットは一言呟き、指先を小さく動かす。
銃を握り締める少年の手が、血飛沫と共に肉片となって弾け飛んだ。
「……っ!?」
状況を飲み込めないまま、少年は尻餅をつく。側には自分の手であったはずのものと、粉々の破片になった銃が落ちている。
「あ……あ……」
言葉が出てこない。何が起きたのか理解出来ず、手首から先が無くなった両腕を見ても、痛みすら感じなかった。
ロットは平然と、少年に近寄った。
「すまないね。銃は今、一番見たくない武器なんだ」
そう言って、少年の髪を鷲掴みにする。
「君はエイロンを見て学ばなかったのかい? 敵に対してどこまでも冷酷になれる人間が、この世にはいると」
「う……」
少年の顔は恐怖で引き攣り、涙も鼻水も流れるままになっていた。
「助けて……助けて下さい」
「大人しくしていれば、誰かが救ってくれるかもしれない」
そう言ってロットが手を離すと、少年は力無く地面に倒れ込んだ。その目は閉じられているが、胸はゆっくりと上下している。気絶しただけのようだ。
ロットは振り返ることすらせずに、先へと進んでいった。
「なんだ、これ……」
セルマが物珍しそうに眺めていたのは、鉄の格子扉の向こうに広がる空間だった。漆黒の霧が中を覆い尽くし、奥行きがあるのか、床が続いているのかすら分からない。
ここは本部の一室にある、スタミシア支部との行き来が可能な『連絡通路』だ。不思議そうにしているのはセルマだけで、ガベリアへ向かう他の一行は平然としていた。
「魔術でスタミシアと繋がっています。落ちたりはしませんから、ご安心を」
門番の隊員がそう言って微笑みかけ、扉を開けた。
「お話はイーラ隊長から伺っております。ご無事を祈っております」
「行こうか」
エスカが先陣を切って、通路に足を踏み入れる。一瞬にしてその姿は見えなくなった。
「えっ、どうなってる?」
セルマは目をしばたいた。
「何だか、新鮮な反応だね」
ルースは笑ってから、ふと思い出したように言った。
「そういえば君は魔導師じゃないから、一人では通れないか……」
少し思案して、彼はセルマに手を差し出す。
「手を。僕が連れていくから」
「副隊長、俺が」
カイが早速口を挟むが、ルースは首を横に振った。
「人ひとりを無事に連れていくには、ある程度経験が必要だ。この通路の中ではぐれたら、一生出てこられないかもしれないよ」
そう言われ、カイはぐっと黙る。オーサンはそれを横目で見てにやにやしながら、自分はさっさと通路へ姿を消した。
「さあ、行こうか」
「あ、うん……」
セルマは緊張の面持ちでルースの手を取り、二人は通路へと消えた。残るはカイとエーゼルだ。
「なかなか、格好いいところ見せられないな」
エーゼルは真剣な面持ちでそう言ったが、言葉が震えていて、笑いを堪えているのがはっきりと分かる。
「まぁ……頑張れ。な」
「俺、やっぱり先輩のこと嫌いです。好きになれない」
捨て台詞を吐いて、カイも通路に走り込んでいった。
通路を抜けた先は、先程の部屋と似たような一室だった。特に何があるわけでもなく、扉の横には同じように門番がいる。
「全員、到着したようですね」
門番は人数を数えて、今しがた隊員たちが出てきた通路の扉を閉めた。
「ここで少々お待ち下さい。案内の者が――」
「やだ、もう着いちゃってる! こんばんは。スタミシアで一番の医務官、ベロニカ・アーシュです!」
目が覚めるような溌剌とした声が響く。弾むような足取りで歩いてきたのは、真っ青に染めた髪を高い位置でポニーテールにし、白衣を纏った若い女性だった。その姿に全員、既視感を覚える。
「あ、分かっちゃいます? 私、レナ医長に憧れてて……」
ベロニカは照れたように、肩にかかる毛先をいじった。伏し目がちなその顔は、口さえ開かなければおしとやかに見えなくもない。
「でも、さすがに眉を剃り落とす勇気はなくって。ふふ。……お名前、聞かせて頂いても?」
彼女は真顔に戻って尋ねた。なんだか忙しない人だ、とカイは妙に感心する。
全員が簡単に名乗っていき、ルースの番になると、ベロニカは目を見開いて小さく悲鳴を上げた。
「生で見たら、さらに格好いいです。やだもう、恥ずかしい!」
彼女は両手で顔を覆って身をよじる。一行は思わず苦笑いだった。これほど個性の強い人物は、とりあえずキペル本部にはいない。本当に大丈夫なのかと、全員が先行きを不安に思うのだった。