7、悪魔の子 二
ラシュカは結局、身寄りの無くなったオーサンを引き取ることになった。彼は独身者限定の自警団の隊舎を引き払い、街中に小さな一軒家を借りた。自分が仕事の間は、念のため魔力を持つ友人にオーサンを預けることにした。
「ごめんなさい、パパ。もうしないから」
納屋の柱に括り付けられたオーサンは、すがるように言った。近所の子供を馬車の前に突き飛ばそうとした所を、ラシュカが間一髪で止めたのだ。
「お前のもうしないは信用出来ない。これで何度目だ、オーサン」
ラシュカは言い聞かせるように、出来るだけ感情を抑えて話す。
「他人を傷付けてはいけない。もちろん動物もだ。……可哀想に、お前には人の痛みが分からない。でもそれはお前のせいじゃない」
彼は慈愛を込めた表情で、オーサンの頭を撫でた。
「きっと分かる日が来るよ。お前は優しい子だ」
ラシュカは手を放し、背を向けた。
「待って、パパ。お願い! 嫌だ! 暗い所は怖いんだ――」
オーサンの請う声にもラシュカは振り返らず、納屋を出て扉を閉めた。泣き叫ぶ声が胸を裂く。だが、ここで負けてはいけない。心を鬼にして、彼はその場を離れた。
それから一年が経って6歳になったオーサンは、ラシュカの根気強い躾のおかげで嗜虐性もかなり薄まってきていた。初等学校に入学し、平穏な日々が続く。だが安心したのも束の間、今度は別の問題が出てきた。
「魔力、ですか?」
学校へ呼び出されたラシュカは、担任からオーサンが危険な状態だと告げられた。
「ええ。彼は友達と言い争いになると、こんなふうに……」
担任は片手を挙げ、軽く拳を握った。頭上で何か弾ける音、次いで部屋が少し暗くなったかと思うと、ラシュカの横にランプシェードが丸ごと落ちてきた。それは派手な音を立て、床に破片を飛び散らせる。ラシュカは僅かに目を見開いて、担任を見た。
「意図的に相手を傷付けようとする。ご家庭で、魔力の徴候は見られていませんか?」
「いいえ。よく注意して見ていますが、私の知る限りでは」
「責めるつもりはありません」
担任がさっと手を振ると、落ちたランプは元通りになった。
「彼が特殊な子であることは、我々も承知の上です。話で聞く限り、メイさん、あなたの苦労は相当なものだったはずです」
「苦労というほどのことでは。私の子ですから」
きっぱりと言い切ったラシュカに、担任は複雑な表情で頷いた。
「まだお若いのに、立派です。そんなあなたに、これを言うのは心苦しいのですが……。オーサンは、魔術矯正院に入れなくてはなりません。このままでは、魔力で人を殺すことにもなりかねない。秩序があるとしても、彼はそこを掻い潜るでしょう」
「矯正院……」
ラシュカは呟いた。魔力の誤った使い方をする年少者を、数年かけて矯正する施設だ。
「悪いイメージが浮かぶでしょうが、あそこは最新の知識に基づいています。児童が理不尽に虐げられることはない。きちんと矯正され、日常に戻れます。私がその証拠ですよ」
担任は微笑んだ。ラシュカが尋ねる。
「あなたは、あそこにいたんですか?」
「ええ。私は5歳で魔力が発現してから、8歳まで入っていました。気に入らないと魔術で物を燃やしてしまう、悪い癖がありまして。今はなぜそんな恐ろしいことをしたのかと、反省するばかりですが。……メイさん、魔導師ならお分かりかと思いますが、矯正院出身の者が犯罪に手を染める確率は極めて低いでしょう?」
「ええ。ここ十年は、ゼロです」
「魔力を持って生きていくということは、知らずにリスクを負うということなんです。物心着いたばかりの年少者は特に。オーサンは優しい子です。そのリスクさえ取り除ければ、立派な大人になれます」
これほどに心が痛む経験は後にも先にもない。檻のような矯正院の門扉の向こうで、オーサンが泣きわめいている。胸が裂けそうな思いでそれに背を向けたラシュカは、一人、家路に着く馬車の中で涙した。
月に一度だけ、面会が許されていた。矯正院に入れられたことを恨んでか最初は目も合わせず、口も利かなかったオーサンだが、一年、二年と過ぎ、その眼差しに穏やかさが戻ってきていた。
「……俺の部屋、まだあるの?」
ある日の面会で、8歳になったオーサンは生意気な口調でラシュカに尋ねた。表情には少し緊張が窺える。
「ああ、もちろん。いつでも帰って来られるようにしてある」
ラシュカの元には、矯正院から卒業の達しが来ていた。矯正が終了し、オーサンは日常に戻れると判断されたのだ。そして今日が、その日だった。
「パパ、誰かと結婚したりした?」
知らぬ間に過ぎた時間の中で、自分の居場所が無くなってしまったのではないか。オーサンの胸には、その不安があった。
ラシュカはふと表情を和らげて、首を横に振った。
「まさか。俺はお前の父親をやるので忙しいんだぞ。そんな暇無い」
「本当に? だって、パパ、女の人好きでしょう」
「昔はな」
ラシュカは苦笑する。
「息子を矯正院に入れておいて、自分はそんなことが出来ると思うか? オーサン、言っておくが俺はそんな人間じゃないぞ。今は何よりもお前が大切なんだ」
それを聞いたオーサンの目には、知らずに涙が溢れた。見捨てられたと思っていたのは自分の勘違いで、ラシュカはずっと待っていてくれたのだ。
「……俺、血は繋がってないけど、パパの子で良かったよ」
初等学校の進級に、矯正院にいた年数は加算されない。故にオーサンは二年分遅れを取ることになったが、無事に卒業し、15歳で魔術学院に入学した。その数年の間に、ラシュカは自警団から推薦され近衛団に入っていた。
「パパみたいな魔導師になる」。ラシュカにとっては嬉しい言葉だったが、不安も尽きなかった。魔力を持った状態で、また、あの嗜虐性が甦ってきたら……。学院から呼び出されない内は大丈夫だと自分を納得させてみても、心が落ち着くことはなかった。
そんなある日の夜、非番で街を歩いていたときのことだった。いつも通り隊舎に戻るための道を進むと、明かりを消した画材屋の前に、椅子に座って佇む人影がある。フードを深く被った猫背の、一見すると年老いた男性のようだ。
キペルでは宿無しの人間が夜の街にいても珍しいことではなかった。他人に害を為さなければ、魔導師もそれほど厳しく取り締まったりはしない。
(どう見ても画材屋の主人ではないな。危険な感じは受けないが……)
横目でその人物を捉えながら、通り過ぎようとする。
「ちょいと、近衛団の」
嗄れた声がラシュカを呼び止めた。私服なのに、何故自分が近衛団と分かるのか――警戒心が沸き上がる。
男は億劫そうに頭をもたげ、顔の皺に埋もれた小さな目でラシュカを見つめた。ラシュカは暗闇の中で、その目の奥に澄んだ光を見たような気がした。
「驚かなくてもいいでしょう。某はあなたの敵ではありませんよ」
「何者だ」
「ただの、占いを生業にしておる者です」
「占い師か。残念だが俺は、何も視てもらうことはないぞ」
ラシュカはそう言ってその場を離れようとする。
「息子さんのことでお悩みでしょう」
「……何?」
「あー、しかし、血の繋がりは無い」
「お前、何か俺のことを嗅ぎ回っているのか。連行するぞ」
ラシュカは掴みかかる勢いで男に迫るが、彼は微動だにしなかった。
「某は占い師。求めに応じて現れます。あなたは某を求めている。知りたいことを、仰ってご覧なさい」
男の目の奥にある澄んだ光が、更に強くなったように感じられた。ラシュカの額に、つと汗が伝う。
「……何も無い。それに近衛団の人間として、見ず知らずの者に何かを話す気にはなれない。スパイはどこにでもいる」
「では、某の独り言を聞いていくといいでしょう。取り留めのない言葉も、必要とする者には意味を成す……」
男は軽く咳払いをして、続けた。
「一つ、それは巫女を殺した。二つ、それは未だ死せず、再びかつての仲間と見える。三つ、悪夢は繰り返す。そして四つ、抗う者は光の下に集い、追う者は闇に堕ちる。……では、ごきげんよう、心優しい魔導師殿」