6、悪魔の子 一
夏が近付いた頃のことだった。夕刻を過ぎても日は長く、薄闇の路地の間を生温い風が吹き抜けていく。明かりを灯し始めたバル街は心地よい喧騒に包まれ、風が美味しそうな食べ物の匂いを運んでくる。
第三隊に入って8年目、23歳のラシュカ・メイは、どこかで一杯引っ掛けようかとキペルの街をうろついていた。明日は非番だ。気兼ねなく羽根を伸ばせる。
今日は祝日とあって、どこの店も繁盛している。混雑した店内は、大柄なラシュカが入る隙間すら無さそうだった。
メインの通りは諦めて、一本向こうの路地に入る。自警団の立寄所になっている店があったはずだ。今は制服姿ではないが、別に制服でなければ入れないというわけではない。
「いらっしゃい」
店に入ると、喧騒の合間を縫ってマスターの声がする。彼はラシュカの顔を見るなり、破顔してこう言った。
「おや、しょっちゅう見る顔だ。お前さんほど熱心に街を巡回する魔導師はいないぞ」
「それは嫌味ですか? 仕事はちゃんとしてますよ。相変わらず繁盛してますね、このお店も」
ラシュカも笑い、カウンターの席に着いた。非番とはいえ、いつもの癖で店内を端から端まで注意深く観察する。怪しい人物はいない。
ただ、隅の方に見慣れない、というよりは場にそぐわない人物を見付けた。暗く俯いた若い女性と、その子供だろうか、五歳くらいの男の子だ。
「……マスター、あのお客さんは? 見慣れないけど」
ラシュカは小声で尋ねた。
「あぁ。あの人は、未亡人かねぇ、たまに子連れで来るんだ。気晴らしだろうね。怪しい人じゃないよ。お金もちゃんと払うし、あの子供も大人しいし」
確かに、その男の子は騒ぎもせずにじっとしていた。ふとラシュカの視線に気付いたのか、顔を上げる。その目を見て、ラシュカは何か不穏なものを感じた。
「名前は?」
「お、声を掛ける気か」
マスターがにやりとした。
「違います。勘ですよ、勘」
そう言うと席を立ち、その親子に近付いていく。近付けば近付くほど、その男の子の不穏な目の色が際立ってくる。
「少し、ご一緒しても?」
ラシュカは女性に声を掛けた。びくりと肩を竦めた彼女は、彼の顔を見て微かに目を見開いた。そしてそれは、ラシュカも同じだった。
「カミラ……」
女遊びの絶えないラシュカが、何度か夜を共にしたことのある女性だった。最後に会ったのはふた月ほど前だ。かつての輝くような美貌も何処へやら、今の彼女は見る影もなくやつれている。
「やっと会えた」
カミラは呟いて、ほっとしたように表情を緩めた。男の子はまだじっと、ラシュカのことを見つめている。
「ここなら、いつかはあなたに会えると思ってた。……自警団に押し掛ける勇気はなくって」
「俺に? どうして」
「真面目な話がしたいの。場所を移してもいい?」
カミラが言った。どこか切羽詰まったような雰囲気だ。ラシュカは頷き、二人を連れて店を出た。
「その子は、君の?」
路地を歩きながら、ラシュカはそう尋ねた。カミラはそれには答えない。
「……とりあえず、この子が遊べる場所に行きましょう。近くの公園でいい」
三人は遊具のある公園に着いた。夕闇の迫るこの時間帯に、人の姿はない。ラシュカがぱちんと指を鳴らすと、消えかかっていた外灯がぼんやりと優しい光を放った。
「すごいや」
男の子が初めて言葉を発して、ラシュカを羨望の眼差しで見た。やっと子供らしい表情を見た気がする。
「遊んでおいで」
カミラが言うと、男の子はすぐに遊具へ走って行った。二人はその様子を眺めながら、ベンチに腰掛ける。沈黙の後、カミラが先に口を開いた。
「あの子は、あなたの子供。……っていうのは冗談だけど、あたしの子供でもないの。友達の子」
「預かっているのか?」
「引き取ったっていうのが正しいかな。死んじゃったの、友達。ひと月くらい前に、病気で」
カミラは悔しそうに唇を噛んだ。
「娼館で働いてた子だから、いつかはそんな日が来るんじゃないかって思ってたけど。本当にね……」
「あの子の父親は?」
ラシュカが目を遣ると、男の子は一人で楽しそうに遊んでいた。最初に見たあの不穏な目は、母を亡くした故だったのだろうか。
「娼館の客じゃないかって。友達の仕事仲間が話してたんだけど、あの子、何年か前まで、凄く怖い客が付いてたんだって」
「怖い客?」
「そう。女を痛め付けて喜ぶような……」
カミラはぶるっと身震いして、自分の腕をさすった。
「あの頃、友達は傷だらけだった。ナイフで切り付けられたような痕とか、首を絞められたような痕とか……逃げなよって言ったけど、あの子は聞かなかった」
彼女の声は震えていた。
「仲間の話では、その客、金払いは凄く良かったみたい。見た目も悪く無かったって。……あの子に、良く似てるって」
そう言って、カミラは男の子に目を向けた。
「優しそうな顔してるでしょ、あの子。オーサンて言うの。友達が付けた名前なんだけど、古代キペル語で『慈悲深い』って意味。でも、中身は悪魔」
「どういうことだ」
「やっぱり父親の血を引いてる。他人が苦しむのを見て、笑ってるのよ。あたし、いつかあの子に殺されるかもしれない」
「まさか……」
「嘘だと思うなら、あなたが育ててみてよ」
ヒステリックな声を上げて、カミラは両手で顔を覆った。
「あの子ね、あたしのこと階段から突き落としたり、鳥やネズミなんかを痛め付けては、にやにや笑ってるの。悪魔よ。毎日怖くて仕方ないの」
「カミラ……」
「それでも、友達の血も引いてるから、優しいところもある。だから頑張って面倒見てきたけど……もう限界。だから、あなたのこと探してた」
カミラは頬に涙を伝わせ、すがるようにラシュカの手を握った。
「あの子にはまだ魔力がないけど、これからどうなるかは分からないわ。あんな悪魔みたいな子が魔力を持ったら、もう終わりよ。あたしにはどうにも出来ない。
無理なお願いなのは分かってる。でも、あなたは魔導師だから……あの子を何とか出来るんじゃないかと思ったの。少しでも父親の血を薄めて、優しい子にしてほしい。あたしはね、自分が施設で育って、あそこがどれだけ酷いところか知ってるから、あの子を施設へ入れようとはどうしても思えないの。
だから、恥を忍んで頼みます。引き取って下さい。お願いします。あたしも死にたくないけど、あの子も死なせたくないんです」
「そんなことを急に言われても……」
ラシュカは大いに動揺した。突然、男の子の親になれと。しかも、人格にやや異常がある。無理難題に近い。
「ねえねえー、おじさん」
オーサンが無邪気な笑顔でこちらへ走って来た。
「この子の怪我、治せる?」
そう言って両手を差し出す。そこには、片方の羽根がひしゃげた小鳥が乗っていた。カミラは青ざめ、次の瞬間、思い切りオーサンの頬を張った。
「オーサン、お前はどうして分からないの! なんでそんなに酷いことが出来るの!?」
「違うよ、僕――」
「あたしには、もう、無理!」
カミラは絶叫し、止める間も無く走り去ってしまった。後には呆然とするオーサンと、ラシュカが残された。小鳥は地面に落ち、苦しそうにもがいている。
「……おじさん、この子、治して」
オーサンは小鳥を拾い上げて、涙声で行った。
「僕がやったんじゃないよ。本当なんだ」
真摯なその目に嘘は窺えなかった。それとも、自分は騙されているのか……。逡巡した後、ラシュカは小鳥を受け取った。
「ああ、信じよう」
魔術を使って、羽根を元に戻す。小鳥は逃げるように空へと飛んでいった。
「すごいや。ありがとう、おじさん」
オーサンはそう言って弾けるような笑顔を見せた。悪魔とは程遠いようにも感じられたが、ラシュカは後に、それが甘い考えだったと思い知ることになる。