1、失踪
「医長、この遺体、どうしましょう」
エヴァンズの遺体をじっと見下ろし続けるレナに、第四隊の隊員が痺れを切らして声を掛けた。検案を終えてから、かれこれ20分はこの状態だったのだ。
身なりを整えて傷口も塞がれた彼は、端から見れば安らかな死に顔だった。誰も、自害などという壮絶な最期を想像しないだろう。
「医長、あの……」
レナは眉間に皺を寄せ、不機嫌な口調で言った。
「やかましいな。まだ検案の途中だ」
「でも、ペーパーナイフを使った頸動脈の損傷による失血死、それで間違いないのでは?」
「直接的な原因はな。だが、怪しい。魔術の痕跡があるような気がする」
「え?」
隊員は遺体を見る。レナが言うように魔術の痕跡を探ってみるが、何も感じられなかった。
「私には分かりませんが」
「そんなもん、経験の差だ」
小馬鹿にしたように、レナはふんと鼻を鳴らした。
「誰かが魔術で殺したということですか?」
「状況から見るに、自害するように仕向けた、と言った方がいいだろう。……イーラを呼べ」
「第二隊長の?」
「他にあんなクソ魔女がいるか。自警団登録簿も持ってこさせろ。急げ」
レナが睨みを利かせると、隊員は急いで部屋を出ていった。
五分と経たず、イーラが分厚い本を手に部屋に入ってきた。
「なんの用だ半魚人。エヴァンズの骸なんて見たくもないのに。それにこんなもの、何に使う」
手近な机に本を投げ置いて、イーラはぶつぶつと文句を言った。
「とりあえず見ろ。魔術の痕跡がある。自害の動機が怪しくなってくる」
端的に言って、レナは遺体を顎でしゃくった。
「魔術の痕跡?」
イーラは嫌々近付き、上から下まで目を走らせた。それから二、三度同じことを繰り返し、険しい顔でレナを見る。
「確かにある。……思考操作の魔術だ」
「他人の思考を自在に操る、禁じられた魔術か。それで、エヴァンズは自害させられたと。隊長がそんなものに掛かるとは、油断しすぎじゃないか?」
「油断する何かがあったんだろう。部屋に何か痕跡は?」
レナは首を振った。
「何も。鍵は閉められていたし、あそこには窓もない。部屋の外から魔術を掛けるのは現実的じゃないし――」
「壁だ」
イーラが声を上げた。
「壁抜けの出来るナシルン。それに魔術を乗せて、エヴァンズの元へ運んだ。だから奴も何かの連絡だと思って油断したんだろう」
「ナシルンに魔術を乗せて、か。洒落た料理のメニューみたいだな、ははっ」
「こんなときにふざけるな」
睨みを利かせつつ、イーラは不安になった。レナが焦っている時ほどふざけるのは、学生時代から知っている。彼女は今、何かに焦っているのだ。
レナは真顔に戻り、言った。
「なかなか高度な技術だろう。隊長級の力がいる。……登録簿を開け、イーラ」
「自警団の中に犯人がいると?」
イーラは素早く登録簿を開き、レナに差し出した。中にはびっしりと、隊員の名前や個人情報が書き込まれている。
「それをこれから調べる。いないのを願うけどな」
レナはエヴァンズの遺体に手を翳す。数秒経って遺体から浮かび上がった白い靄を片手で掴むと、その手を登録簿の上に持っていった。
「ここには魔力の霊態も登録してあるだろう。同じものがあれば、すぐに分かるはずだ」
そう言って手を開いた。靄は水のように手から溢れ、すっと本に吸い込まれていく。次の瞬間、自動的にページが捲られていった。
開かれたページにある隊員の名前が、赤く変化している。二人は頭を殴られたような思いでその文字を見た。
第一隊隊長、ロット・エンバーの名前を。
破壊された部分の修繕が終わり、医務室はまた以前と同じように機能し始めていた。ただ、窓の外側には物々しい鉄格子が付けられている。誰がまた襲撃してくるか分からないため、防護を強化したのだ。
「失礼します」
医務室に第二隊のナンネルが入ってきた。彼女は真っ直ぐに、デスクにいたミネとクロエの元へやってくる。
「お待たせしました。会議の結果が出ましたので、あなたにご報告を」
そう言って、折り畳んだ紙を差し出した。クロエはそれを恐る恐る受け取り、開いてみる。
「あ……」
襲撃犯を殺しかけた件については、不問とする旨の文書だった。
「良かったね、クロエ」
ミネは微笑み、うっすらと涙ぐんだクロエの背を優しく撫でた。
次にナンネルはミネに向き直り、彼女にも紙を差し出す。そして少し声を落とした。
「サインを頂きたい書類が。エドマー・ワーズの遺体検案書です。医務官二名のサインが必要ですから」
「……」
ミネは無言のまま、その偽物の検案書に目を落とした。襲撃で負った傷が原因による、失血死。事故死の扱いだ。一人目のサインはレナだった。
「嘘でも、書くのは気が引けますか?」
ミネは複雑な思いで頷いた。
「エドマーは、これから……」
「スタミシア支部に送られます。向こうでも手筈は整っていますから、ご安心を。しかし、暗いですね」
ナンネルは辺りを見回すが、朝陽が降り注ぐ部屋の中は十分過ぎるほどに明るい。
「仲間を失うのは、お辛いことでしょう」
彼女は部屋にいる医務官たちの、暗い表情を見て言ったのだった。レナから真実を知らされた彼らは一様に驚き、そして悲しんでいた。エドマーは面倒見が良かっただけに、彼の後輩の中には泣き崩れる者もいた。
「ナンネルさん、彼は……またいつか医務官に戻れるでしょうか」
ミネは呟いた。遺体検案書には躊躇いのある自分のサインが滲む。偽物の、便宜上のものだと分かっていても、エドマーを見放してしまったような気持ちは拭えなかった。
「それは、私には何とも。獄所台が決めることですので」
「そうですよね。すみません」
ミネは書類を差し出し、俯いた。
「お預かりします。……でも、ミネさん。獄所台にも人の痛みが分かる魔導師はいます。こんな立場にいる私から言わせて貰えば、人を裁くのもまた人なのです。常に無感情でいられる人間など、いないと思いますよ」
ナンネルは一礼し、寂しげな顔をして部屋を出ていった。
第一隊の隊長室に入ったルース、カイ、エーゼルの三人は、部屋に入るなり異変を察知した。まず、主であるロットの姿がない。不在ならば魔術で扉の錠を下ろしてあるはずなのに、今はそれもなかった。
「なんか、焦げ臭くないですか?」
カイが顔をしかめて部屋を見回すが、火元らしきものはない。代わりに、床に落ちていたものに気が付いた。
何かの燃えかすが散らばっている。ルースはその中から、辛うじて原形を留めている小さな紙片を拾い上げ、目の前に翳した。
「何ですか?」
エーゼルが問う。
「……地図だ。霊証を見るための」
ルースが険しい顔になる。霊証を示す特殊な地図が燃やされた――目的は一つ。誰かが、第一隊員の居場所を分からなくするためにやったのだ。無論、それにはロットも含まれる。
ルースは机の上に目を移した。そしてそこに置かれていたものは、残念ながら彼の悪い推測を裏切らなかった。
綺麗に畳まれた魔導師の制服だ。襟章を見るに、ロットの物で間違いはない。その横に、玉虫色に輝くコインのようなものが置いてある。ただ、コインにしてはやや薄く、端の方に小さな孔が開いていた。
「これ……」
カイが近付いてそれを手に取り、二人に見せた。コインの表面にはロットの名と、第一隊の「Ⅰ」、裏には自警団のシンボルである鷲の姿が刻印されていた。
「それって、自警団の認識票じゃないか」
エーゼルが呟く。氏名と所属が刻まれたその認識票は、隊員が常に身に付けていなければならない物だった。自警団の任務は命の危険を伴うものであるため、いつ何が起こっても、確実に身元を確認出来るようにする必要があるからだ。隊員は皆、孔の部分に鎖や紐を通し、首から提げたり、足首に着けたりしている。
「隊長、まさか誘拐されて――」
「ロット!」
息急き切って部屋に飛び込んで来たのは、イーラだった。彼女は三人の姿を見るなり、早口に訊いた。
「お前たち、ロットは?」
ルースは首を横に振る。
「分かりません。ただ、制服と認識票はそこに。何があったんですか?」
「遅かったか……。奴はエヴァンズを殺して、失踪した」