32、怒りの矛先
「こっち来んな、犯罪者!」
苛烈な言葉と共に、少女は階段の上から突き落とされた。彼女はそのまま、意思の無い人形のように転がり落ちていく。腕があらぬ方向に曲がっても、口の中が血の味になっても、大した問題ではない。
死ねないのが一番の問題だった。運がいいのか悪いのか、どんな酷い目に遭わされても、命に関わるような怪我に至ったことはなかった。
レイチェル・マーベスは8歳だった。父親は半年前にキペルで起きたクーデターの後、一斉摘発で確保された反魔力同盟の一員だった。
父親の名が新聞に載った次の日から、誰もがレイチェルに軽蔑の眼差しを向けるようになった。貧しい家庭で、周囲の人間に助けて貰いながらの生活だったせいもあり、当たりは余計に強かった。
魔導師、しかも近衛団の殺害に加担するという所業を、善良な市民が許すはずはない。その怒りの矛先は全て、幼いレイチェルに向けられていた。
「お前も監獄に行け!」
レイチェルを突き飛ばした少年は、そう吐き捨てて逃げて行った。事件の前まで、毎日のように仲良く遊んでいた友達だった。
レイチェルは立ち上がって、血の付いた口元を拭い、折れ曲がった腕をさする。そして、何事も無かったかのように歩いていく。
彼女は魔力を持っていた。頻繁に危害を加えられる中、それは必要に駆られて発現したようなもので、大抵の怪我は自分で治すことが出来た。
家に帰っても、出迎える人は誰もいない。事件後、母親はレイチェルを置いて我先に姿を消していた。
「……」
戸棚を見ても、食べるものすら無い。今日もガベリアの街へ出て、残り物を恵んで貰うしかないだろう。
「……死んだ方がましだ」
レイチェルは呟いた。初等学校にも行けなくなった今、将来まともな職に就くことは絶望的だ。身を売るか、泥棒になるか――この歳でそんなことを考えなければならないほど、彼女の生活は悲惨なものだった。
人々が家路を急ぐ夕暮れの街を、レイチェルは出来るだけ存在を消して歩いていた。知っている人間に見付かれば、また理不尽な暴力を受けるかもしれない。
パン屋の裏口に着いた。いつも残り物を恵んでくれる店だ。ドアを三回ノックすれば、初老の優しい店主が顔を覗かせてくれる。
だが、その日は違った。顔を出したのは、派手な服装をした若い女だ。彼女は侮蔑の表情でレイチェルを見下ろして、言った。
「いつも来る乞食って、あんた?」
「あの……」
レイチェルは戸惑いながらも頷いた。そして、この人から残り物は貰えそうにないと直感する。
女は店から出てきて後ろ手にドアを閉めると、レイチェルに詰め寄った。
「あのさ、自分の立場分かってる? あんたの親は魔導師を殺したの」
例え実行犯でなくとも、他人からしてみれば加担者も同じ罪なのだ。それはレイチェルも痛いほど感じていた。女は続ける。
「しかも、あんたと同じくらいの子供がいる魔導師だ。よくもそんな悪魔みたいなことが出来たもんだよ!」
それは初めて聞いた話だった。レイチェルは激しく動揺し、一歩後ずさる。
「私は……何も知らない」
「知らない? むかつくガキだよ、ほんとに。帰れ、二度と来るな!」
女はレイチェルを突き飛ばし、店に入っていった。地面に尻餅を着いたまま、レイチェルはしばらく動けなかった。
(何をすれば監獄に入れるんだろう)
レイチェルは明かりもない部屋の中で、一人考えていた。クーデターで亡くなった魔導師の子供は、私が苦しんでいる何倍も苦しいに違いない。私も監獄に入るべきなんだ。
窃盗、いや、殺人か――考えるほど馬鹿馬鹿しくなってくる。それでは忌々しい父親と一緒だ。誰のせいでこんなことになっているのか、レイチェルは思い出して冷静になった。
(スラム街に行けば、まだましなのかな……)
キペルには行き場を無くした人間が集まる街があると聞いたことがある。もしかしたら、自分のような仲間もいるかもしれない。
ガベリアからキペルに向かうには、山を越えてスタミシアを通り、更に先へ進まなければならない。お金があれば魔術で人を運ぶ『運び屋』に頼むことも出来るが、一文無しのレイチェルには無理な話だ。
しかし、途中で野垂れ死んだとしても今よりはましかもしれない。レイチェルは思い立ち、急いで準備を始めた。そして月も無い真夜中に、そっと家を出た。
街外れの宿場の前に、馬車が一台停まっていた。これから宿泊客が出立するようだ。レイチェルは見咎められぬよう、暗闇に紛れて先へ進もうとした。
「待ちなさい。君みたいな子供が、こんな時間にどこへ?」
呼び止めたのは、馬車に乗り込もうとした紳士だった。彼が手にしたランプの明かりに、整った身なりと、若々しい精悍な顔が照らされる。
「……」
レイチェルは答えなかった。走って逃げれば、追ってはこないだろうか。そう考えながら男の様子を窺う。
「まるで冒険にでも出るような格好だ」
男はランプを翳し、レイチェルが背負ったリュックに目を遣る。見た目はかさばっているが、大したものは入っていない。擦りきれた毛布、水筒、地図と数枚の着替えくらいだ。
「家出かい? だとしたら、私は自警団に連絡しないと――」
レイチェルは走り出した。もし自分が自警団の魔導師に捕まったりすれば、どんな目に遭わされるか分からない。彼らには、この街の人間以上に恨まれているに違いないのだ。
「……っ!?」
突如、レイチェルの足が止まった。どれだけ力を振り絞っても、ぴくりとも前に動かない。
「危害は加えない。安心して」
男は側へ来て、穏やかに言った。
「私には未成年者を保護する義務がある。今まで色んな青少年を見てきたよ。君みたいに、自警団と聞くと逃げ出す子とかもね。事情があるんだろう。良かったら、聴かせてくれるかい?」
心地よく揺れる馬車の中で、二人は向かい合わせに座っていた。男はアンドレイ・フィゴットと名乗った。キペルで働く保護官で、これから家に帰るらしい。
スラム街へ行くには都合がいい、とレイチェルは思っていた。ここは大人しくして、キペルに着いたら逃げよう、と。
「……保護官?」
レイチェルは首を傾げた。耳慣れない言葉だ。
「ああ。主に、身寄りがない未成年者の保護をしている。保護官は人によって魔力が有ったり、無かったりだ。金持ちがする自己満足の慈善事業だと言われることもあるけど、私は誇りを持ってやっているつもりだよ」
「あなたは、魔力が有る人なんですね」
レイチェルは言った。さっき、動きを封じられたのは魔術のせいだったのだ。
「そう。思うに、君も魔力が有るんじゃないかな?」
アンドレイはレイチェルの目を覗き込んだ。
「治療に関しては、かなりの力がある」
レイチェルはごくりと唾を呑んだ。
「……分かるんですか」
「何年も保護官をやってるとね。子供の性格も何となく。君はたぶん……ずっと厳しい暮らしをしてきたけど、曲がったところが無くて、優しく礼儀正しい子だ。悪いことは出来ない」
「そんなの」
彼女は口ごもり、目を逸らした。キペルに着くまでアンドレイを利用しようとしていたことが猛烈に恥ずかしくなってきた。彼の言う通り、悪いことは出来ないのだ。
「そんなの、違う。私は悪い子。悪い親から生まれたんだもん」
隠し通そうと思っていたことが、不意に口を衝いて出た。そして一度出てしまった言葉は、止めようが無かった。
「魔導師を殺した、犯罪者の子だから」
「魔導師を……。もしかして君の親は、反魔力同盟の?」
レイチェルは頷き、両の目から大粒の涙を溢した。
「なんでクーデターなんて起こしたんだろう。魔力の何が憎いの? 正しく使えば、色んな人を助けられるのに」
「……君はやっぱり、優しい子だ」
アンドレイは微笑んだ。
「君みたいに思える人が沢山いれば、この国ももっと平和になるのに。ああ、そうだ。今さらだけど、名前を教えてくれるかい?」
だが、彼女は口をつぐんでいた。さっきはうっかり口を滑らせてしまったが、せめてもの抵抗だ。
「言いたくないなら、無理には聞かない。でも、何て呼んだらいい? ずっと『君』って呼ぶのもね。勝手に付けてもいいかい?」
レイチェルは頷いた。
「じゃあ……」
アンドレイはしばらく思案して、こう言った。
「クロエ、なんてどうかな?」