26、対峙
閉じた目蓋の向こうで影が動くのを感じ、ミネはうっすらと目を開けた。ここはどこだろうか。
「目が覚めたか」
声のした方へ顔を向けると、フィズがベッド際の椅子に険しい顔で腰掛けていた。一見すると怒っているかのような表情だが、単に心配しているだけだろう。
ミネはそのまま部屋全体に視線を巡らせる。小さな棚とベッド以外は何もない、誰かの寝室のようだった。
「フィズ隊長……ここはどこですか?」
「医長の部屋だ。安心していい。気分は?」
「はい、大丈夫です」
彼女はゆっくり体を起こしてみる。死んだ方がましにも思える苦痛を味わったはずだが、今はこれといって、体に異常は感じられなかった。
頭は少しだけぼんやりとしていた。拷問を受けている最中にレナが現れたところまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。
「おい、どけろ!」
突き飛ばすような勢いでフィズを押し退け、現れたのはレナだ。彼女は鬼気迫る表情でミネの肩を掴み、およそ病人に対する扱いとは思えないくらい乱暴に揺すった。
「自分の名前を言ってみろ。年齢は? 所属は? 私が誰か分かるか?」
そう問われ、ミネは呆気に取られながら答える。
「え……っと、ミネ・フロイス、25歳。自警団医療部です、レナ医長」
「正常みたいだな」
レナは手を離し、大きく安堵の息を吐く。それからその青い髪を掻き回して、呟くように言った。
「良かった」
邪魔者扱いされたフィズが、不機嫌な顔で椅子に座り直した。
「なんなんだ、医長。心配いらないと自分で言っていたじゃないか」
「馬鹿野郎が。魔術の拷問を受けて何の問題もない奴がいるか。良くて精神崩壊、度が過ぎれば死ぬ。あれはあの場を収めるための嘘だ。特に、お前をな」
レナは眉間に皺を寄せ、フィズを指差した。
「一時の感情でエドマーを殺されてはたまらない。お前は昔から、がさつで気性が荒くて目先のことしか見ていない。医務官がいなければとっくに死んでるぞ」
エドマーの名を耳にしたミネは、はっとして言った。
「あの、エドマーは今どこに?」
「地下牢にぶち込んである。今のところ、何を聞いても黙秘だ。奴が反魔力同盟と繋がっていた理由を話すまでは出すつもりはない。私はやりたくないが……場合によっちゃ尋問だろう。そろそろ、他の隊長たちが黙っていない」
「反魔力同盟……? エドマーが?」
何も知らなかったミネは、信じがたい事実に一瞬言葉を失った。反魔力同盟の非道な行いは知っている。一つ下の後輩でずっと面倒を見てきたはずのエドマーが、そんな組織と関わっているとは考えたこともなかった。
「でも……同盟は何年も前に無くなったはずじゃ」
「記録上では、そうだ。だが実際、医務室を襲った奴らは自分たちが同盟の人間だと白状した。過去に監察部が取り逃がした残党がいた、と考えるのが普通だが……」
レナがちらりとフィズを見る。
「そう言われると不本意か?」
「当たり前だ」
フィズはしかめ面をしながらも、その視線は一点を見つめて動かないミネに注がれていた。ガベリアの悪夢で脚を失い、時を経て仲間に裏切られ、これから更に、彼女を苦しめる事実が待っている。
フィズはあの名前を口にするべきかどうか迷っていた。エイロン・ダイス。彼女の口から何度か、尊敬している教官だと聞いたことがある。彼のおかげで魔導師になれたと。
そのエイロンが同盟の一員で、再び悪夢を起こそうとしている。しかも、ルースまで手に掛けようとした。それにミネが耐えられるのだろうか。今度こそ、発狂してしまうのではないか――
「ミネ、聞かせてくれ」
レナが言葉を発した。フィズはすぐに顔を向けるが、彼女は目顔で彼を制す。
「お前は過保護だ、フィズ。私の部下を見くびるんじゃない。……ミネ、エドマーはなぜお前を拷問した。何を聞き出そうとした?」
ミネはやや青ざめた顔で答える。
「セルマの居場所を。私が答えないと分かると、あんなことを。少し……躊躇っている様子でした」
一瞬考え込んでから、レナは続けた。
「なるほどな。それで、答えたのか」
「いいえ。彼がどうしてあんなことをしたのか分かりませんが、話せばセルマが無事ではないと思って」
「いい判断だった。しかし、よく耐えたな」
「あの子はきっと、私たちの希望なんです。失うわけにはいかない」
それを聞いて、レナとフィズは驚いたように顔を見合わせた。セルマが巫女の器だということを、ミネはまだ知らないはずだ。
「悪夢で消えたガベリアを、取り戻せるんじゃないか……あの子と話していると、不思議とそんな気がしてくるんです。死んだ人間は絶対に戻って来ないけれど、それでも」
ミネは微かに滲んだ涙を、指先で拭った。
「するべきことがあるんじゃないかと思うんです。あの悪夢を生き残った者として」
息を吸い、ミネは揺らぐことのない目でレナを見た。
「エドマーに会わせて下さい」
本部の地下室は薄暗く、無機質な白い石壁が閉塞感を漂わせていた。その部屋の中央で椅子に縛り付けられているのは、エドマーだ。
ミネが近付くと、彼はゆっくりと顔を上げた。レナに殴られた頬はアザになり、唇の端には乾いた血がこびりついている。生気の無い彼の視線は、ミネの胸元辺りに留まっていた。
「ミネさん……、無事でしたか」
「裏切り者の台詞とは思えない」
ミネがすっと手を伸ばすと、彼はびくりと肩を竦めた。
「大丈夫、傷付けたりしないから」
そう言って、彼女は細い指先でエドマーの頬に触れる。数秒、目を閉じて集中すると、その顔から傷が消えていった。
エドマーは顔を上げ、かすれた声で呟く。
「どうして……」
「自分では治せないでしょう。このロープで縛られていたんじゃ」
魔導師が使う捕縛用のロープには一定の魔力を封じる力がある。エドマーが自分で傷を治せなかったのも、そのせいだった。
「自業自得です。僕は……魔導師としても、人としても許されないことをしました」
「エイロン・ダイスに指示されたの?」
自分で口にしたその名前に、ミネの胸は締め付けられた。レナから聞かされた話を、にわかには信じられなかった。魔術学院に入学してから、幾度となく手を差し伸べて貰った教官。そのエイロンが、人の道から逸れてしまったなどとは。
「いいえ。確かに彼は、同盟と手を組んでいます。でもミネさんにあんなことをしたのは、彼のせいじゃない」
その震えた言葉が演技か否か、ミネにはまだ判別が付かない。彼女は微かに拳を握り、こう言った。
「あなたは医務室を襲った同盟の人間に、わざと自分の首を切り付けさせた。疑いの目を逸らすためでしょう。自分が同盟の仲間ではないと思わせるため。私もみんなも見事に騙された。そこまでは完璧だったのに、私を拷問しようとしたときにぼろを出した。あなたが躊躇ったのを、私は見ていたの。教えて、エドマー。あなたは同盟の人間なのか、まだ魔導師なのか」
エドマーは視線を落とし、小さく頭を振った。
「それは……酷な質問ですね。僕は生まれながら、同盟の人間です」