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Ecphore―闇を巡る魔導師―  作者: 折谷 螢
四章 闇の果て
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最終話 光を巡る魔導師

 自警団スタミシア支部は朝の出勤時刻になり、にわかに活気付いていた。


「おはよー。キペルの方は今日も雪だってよー」


 第七隊所属の青年クラーク・ダイアンは、すれ違う隊員たちに適当に声を掛けながら自隊の詰所へと向かう。いつもは存在しない朝礼とやらが、今日に限ってはあるらしい。

 11月14日、ガベリアが甦った日。忘れもしないリスカスの記念日だ。今年で魔導師18年目になるクラークも、これほど重要な日は他に無いように思う。


「メリー、おはよー。ジョシュ、おはよー。……ん?」


 隊員たちが集まる詰所に入って挨拶を交わしながら、クラークは珍しい人物を発見して声を掛けた。


「おや、おはよー、駐在さん。本部にいるのは珍しいな?」


「おはようございます、クラークさん」


 そう答えたのは、カイだった。彼は南15区の駐在員で、普段はそこの駐在所に詰めている。基本的に住み込みだが、本部から交代要員が来る日はすぐ近くの実家に帰っているようだ。駐在員としての毎日が充実しているのは、彼の活気に満ちた目を見れば分かるのだった。


「夜勤明けで定期報告しにきたんですけど、ついでに朝礼も出ようかと思って」


「元気あるなぁ。俺だったら帰って寝るぜ。この歳で夜勤明けに動くのは、結構きつい」


 クラークは笑った。今年で34歳、徐々にガタが出始める頃だ。


「俺、まだ18歳なんで。少し仮眠も取りましたし」


「で、その寝癖か」


「これは違いますよ。短くしたら余計に手に負えなくなっただけです。伸ばした方がましなのかな……」


 カイは困ったように笑い、その癖毛をなんとか手櫛で整えた。


「全員揃ったか。始めるぞ」


 隊長のアルゴが部屋に入ってきて、朝礼を始めた。今日はガベリアが甦った日であるから、街でお祝いがどうのこうの……と、形式ばった内容を話している。

 クラークはちらりとカイの横顔を盗み見た。大抵の人にとってはおめでたい記念日だが、彼にとっては大切な友人の命日でもある。彼の右耳に揺れるリングピアスは、その友人からのプレゼントだということもクラークは知っていた。カイはまっすぐ前を見ていたが、その心情まではうかがい知れなかった。


「皆も知っての通り、今年はガベリアでも祭りが開かれる。オルデンの樹が生えている丘……元々ガベリア支部があった場所だが、既に一般市民も近付くことを許されているからな。そこで夜、それぞれにキャンドルを持ち寄って点灯するらしい。行くのは自由だが、ガベリア支部の隊員に迷惑は掛けるなよ。向こうはただでさえ人員不足なんだ。以上、今日も一日任務に励んでくれ」


 アルゴはそう言って、さっさと詰所を出ていった。


「……お前は、行く予定か?」


 クラークが尋ねると、カイは頷いた。


「もちろんです。あの場所に行くのは少し……緊張しますけど」


 カイはあの日以来、旧ガベリア支部に近付いたことはなかった。オーサンの死地、セルマが消えた場所、そして自分もオルデンの樹に刺された場所。ガベリアに人が立ち入れるようになったからといって、すぐに行きたいとは思えなかったのだ。

 クラークは心なしか落ち込んだ表情で言った。


「変なこと聞いてごめんな」


「大丈夫ですよ。もう2年経つし、俺も一度は行かなきゃならないと思うんです。行けば何か変わるような気もするし。じゃ、俺、アルゴ隊長に定期報告してきます!」


 カイは爽やかな笑みを見せ、アルゴの後を追った。



「……特に問題はないようだな。駐在所の仕事はどうだ、カイ。お母様も元気か?」


 隊長室でカイから報告を受けたアルゴは、椅子にもたれてくつろいだ様子で尋ねた。諸事情込みで第一隊から第七隊へ異動してきたカイも、今ではすっかり隊に馴染んでいる。最初こそ他の隊員たちは戸惑っていたが、カイの真っ直ぐで生意気な性格に、いい意味で適当に接することが出来るようになっていた。


「多少、街の便利屋みたいになってきたところもありますけど……。住民は大体顔見知りだし、俺に親切にしてくれます。楽しいですよ。母も元気でやっています。俺の従姉妹が一緒に住んでくれていて」


 カイは素直に微笑んだ。やりがいで言えばもちろん、第一隊にいた頃の方があった。しかし、こっちにはこっちの良さがある。何より、母とあの家で過ごす時間が出来たことが幸せだった。

 従姉妹のノーマは父親の元でお針子の仕事をしているが、それ自体はどこにいても出来るからと、カイの家で針仕事と家事に勤しんでいた。本人は「花嫁修業よ」とうそぶくが、それは出来るだけ母を一人にしないための気遣いだとカイは思っている。


「何よりだな。やはり、生まれ故郷はいいものだろう?」


 アルゴはしみじみと言いながら、机の上に置かれた書類に目を通してあっと声を上げた。


「どうしたんですか?」


「第二隊に提出したはずの書類が、何故かここにある」


「第二隊ですか。じゃあ、俺が行きます」


 カイはぱっと表情を明るくした。こんな機会でもないと、本部に足を運ぶことは滅多にない。ついでに話をしてきたい人たちがいるのだ。


「いいのか? 夜勤明けなのに」


「若いんで。それ、預かります」


 アルゴから書類の入った封筒を受け取り、カイは多少浮き浮きした足取りで隊長室を出た。



 自警団本部や支部には魔術で繋がった連絡通路が存在し、隊員たちはそこを利用して互いの地域を行き来していた。カイがその部屋に向かって廊下を歩いていると、後ろから不意に声を掛けられた。


「久しぶりだね、カイ!」


 白衣を纏ったクロエだった。以前は肩の辺りで切り揃えてあった黒髪は、だいぶ伸びたのか、後ろで三つ編みに束ねてある。そのせいか少し大人びて見えた。


「おう。半年ぶりくらいか。研修、なんか忙しいって聞いたけど……痩せた?」


 クロエは現在、スタミシア第二病院で研修中だった。今年でようやく、各地を回る研修も終わりだ。


「かもしれない。もうね、ベビーラッシュっていうのかな、あっちもこっちも子供の産まれない日がないんじゃないかってくらい!」


 クロエは軽く目を見開いてそう言った。


「地域の産婆さんだけじゃとても足りなくて、私もほぼ毎日、お産の介助に入ってるんだ。勉強にはなるんだけど、普通の治療とはまた違うからへろへろだよ……」


 言葉は後ろ向きでも、彼女の顔は輝いていた。やりがいは感じているのだろう。


「あんまり無理すんなよ。でもなんで今、ベビーラッシュなんだ?」


「『目に見える希望があると、人はえるものだ』ってレナ医長が言ってた。やっぱりガベリアが甦って、人の住める場所になったっていうのが大きいよね。支部の人たちが頑張ってくれているおかげで、向こうは治安もいいって言うし。……カイは今日のガベリアのお祭り、行くの?」


「ああ。クロエは?」


「もちろん、行くよ。初めてあの場所に行くけどね……」


 クロエの言葉が沈んだ。旧ガベリア支部は彼女にとっても、オーサンの死地という悲しい場所なのかもしれない。


「……やっぱり、まだ辛いか? オーサンのこと」


「辛いとはちょっと違うかな。思い出すと懐かしくて、寂しいんだ。でも大丈夫だよ、カイ。私はちゃんと前を向いてる。支えてくれる人もいるし」


 クロエは少しだけ滲んだ涙を拭って、微笑んだ。


「カイが聞いたらびっくりすると思う」


「え、気になるじゃん。それって誰?」


 カイが興味津々で尋ねると、クロエは顔を寄せてそっと耳打ちした。カイが目を見開いた。


「フロウさん?」


「うん。休みの日には、よくスタミシアに来てくれてるんだよ」


 そう言って、クロエは微かに頬を染めた。


「カイには話しておきたくて。実は……私が成人したら、結婚しようって言われたんだ」


「えー!」


 カイにとっては今日一番の驚きだった。あのフローレンスが、クロエにプロポーズしたというのだ。確かに二人が親しいとは感じていたが、まさかそこまでとは思わなかった。


「来年ってことか。まあ……、フロウさんは尊敬出来る人だし、いいと思うぜ。うん。クロエのこと、幸せにしてくれるんじゃないか」


 驚きつつも、カイは素直に祝福出来た。第一隊でフローレンスに指導してもらったからこそ、今の自分があるのだ。魔力が無くなって絶望していたときも、彼が奮い立たせてくれた。人柄も知っているし、文句の付けようがなかった。


「そうだよね。まだ返事はしてなかったんだけど、カイのおかげで決心がついた! ありがとう」


 クロエはにっこりと、本当に幸せそうに笑った。カイは彼女の辛い過去を知っている分、その顔が見られてほっとした。フローレンスのおかげだ。


「正式に決まったら、また教えてくれよ。お祝いするからさ」


「うん。カイもフローシュさんと結婚するなら、教えてね! それじゃ、また夜に」


 そう言って、クロエは廊下を駆けていった。



 カイは懐かしい本部に到着し、第二隊の隊長室へと向かった。エスカが机で気だるげに仕事をしていたが、今までとどこか雰囲気が違っている。


「あ、髪型か」


 彼に書類を渡しながらカイが呟いた。以前は普通に下ろしてあった前髪が、今は左右に大きく分けられて額が覗いている。もちろん、どの髪型でも美しく見えるのがエスカのすごいところだった。


「ん、これか? ちょっと威厳を出そうと思ってな。前髪を下ろしていると年相応の貫禄がないって、部下に言われたんだ」


 エスカは不服そうに言った。


「エスカ隊長、実際いくつでしたっけ」


「36だが、まだ20代でも通るだろ?」


「20代は厳しいです」


 カイは即答した。


「はは、正直で助かる。中身は変わっていないみたいだな。背は……拳一つ分くらい伸びたように見えるけど」


 エスカはまじまじとカイの姿を眺めた。


「そうですね。制服のサイズも少し変わりましたし。たぶん、俺にはスタミシアの気候が合ってたんですよ。寒いと育たないんです」


「野菜なのか、お前は」


 そんな突っ込みを入れながら笑うエスカの顔は、カイの目には何故かとても優しく映った。そしてすぐ、その理由に気が付いた。


「そういえば娘さん、もう一歳くらいになりますか?」


「ん? ララは、そうだな。一歳と少しか」


 思った通り、エスカの表情が一段と和らいだ。


「目に入れても痛くないくらいに可愛い。ほら」


 彼は机の上にあった写真立てをカイの方へ向けた。文句なしに美形の赤子が、笑顔の両親に抱かれてにっこりと笑っていた。


「さすが……。幸せが伝わってきます」


「だろ? そういえば先月、ルースのところにも息子が生まれたらしいけど」


「聞いてます。まだ直接会ってお祝いを言えていないので、今日行こうかなと」


「ガベリアに? まあ、今晩は祭りもあるしな」


 エスカの言葉に少しだけ切なさが混じった。彼もあの場所に色々と思うところがあるのだろう。


「エスカ隊長は行きますか?」


「もちろん。ガベリア復活の立役者として、行かない選択肢はないさ。だから夜までに仕事を終わらせないと。ほら、用が済んだなら行った行った」


 エスカはカイを手で追い払った。相変わらずのぞんざいな扱いに、カイはどこか安心感を覚えながら部屋を出た。

 本部で会っておきたい人物は他にもいた。カイは自分の古巣、第一隊の階に来ていた。詰所を覗いていると、後ろから軽く肩を叩かれる。


「……ライラックさん!」


 カイは振り返り、顔を輝かせた。


「久しぶり。駐在員、頑張ってるらしいな」


 にこりと笑う彼の襟には、副隊長の襟章が光っていた。ルースがガベリア支部に異動したことで、第一隊の人事も刷新されたのだ。


「はい。ライラックさんも、副隊長、大変みたいですね」


「補佐は気楽だったなと思うよ……。隊長は熱血漢だし」


 ライラックは苦笑した。新しい第一隊の隊長は、魔術学院の元教官オリバー・ストランドだ。カイの一年次の担任でもあった。どのくらい熱血なのかは身をもって知っている。


「フローレンスも日々ぐったりしている。オリバー隊長、あいつの担任でもあったからね」


 フローレンスの名を聞いてにやけそうになったカイだが、ここはぐっと堪えた。例え兄弟でも、フローレンスとクロエのことを勝手に話すわけにはいかない。その辺は真面目だった。


「フロウさん、今日はいないんですか?」


「ちょうど巡回に出てる」


「エーゼルさんは?」


「非番。会えなくて残念だな。でも、二人とも今晩のガベリアの祭りには行くって言ってたぞ」



 カイは本部を出る前に医務室へ寄った。散々お世話になったレナに、挨拶くらいはしておきたかったのだ。


「なんだ、カイ。体調不良か?」


 レナはカイの姿を見るなりそう言った。彼女自身は変わらず元気そうだ。薬品棚の前に立って、コップに謎の飲み薬を調合している。


「元気ですよ。本部に用事があったんで、挨拶に寄ったんです」


「律儀だな。こっちは変わりないぞ」


「何よりですね。そういえば今朝、クロエに会ったんですけど。スタミシアはベビーラッシュで大忙しだそうです」


「ベビーラッシュねぇ……」


 レナは遠い目をした。


「どうかしました?」


「私もつい最近、娘に子供が出来たと言われた」


「へぇ。……え、それってフリムさん?」


「他に誰がいる」


 心なしか険しい顔でレナが言うので、カイは戸惑った。


「……嬉しいことじゃないんですか?」


「嬉しいさ、もちろん。ただ、急に言われたもんだから。結婚もしていないのに。しかも相手がラシュカ・メイとは」


 その名前が、カイには衝撃だった。


「ラシュカさん?!」


「そうだ。それほど意外でもないだろう。二人とも王宮で仕事をしていたから、接点はある。……ラシュカが顔面蒼白で謝りに来たから、フリムの手前、さっさと結婚することを条件に許してやったんだ。あいつがいい父親になるのは疑いようがないからな。オーサンを知っているなら、お前も分かるだろう?」


「それは、もちろん。そっか、ラシュカさんが……」


 カイはまだ衝撃の余韻を味わっていた。血は繋がっていないが、その子はオーサンの兄弟ということだろうか。そしてフリムは、オーサンの義母ということになるのだろうか……。実に複雑な関係性だ。


「まあ、当人同士が幸せなら言うことはない。しかし出来れば……魔導師とは結婚してほしくなかったよ。苦労するのが目に見えている」


 レナはそう言いつつも、優しい母親の顔をしていた。



 カイがキペルで訪れたかった場所は、まだあった。オーサンの墓だ。命日ということもあり、墓石の前には多くの花束が置かれていた。そしてそこに、自警団の制服姿の男性が一人立っていた。


「フィル?」


 カイが自信なさげに声を掛けると、彼は振り向いた。本人かどうかカイが疑うのも当然な程、フィルは一足飛いっそくとびに大人になっていた。少し伸びた前髪を耳に掛け、憂いを帯びたその顔からは、既に少年の面影が消えている。


「久しぶり、カイ。少し大人っぽくなったな」


 フィルはそう言って、第二隊員特有の魅惑的な笑みを浮かべた。


「いや、お前こそ。なんて言うか……色気が増したな?」


 カイはやっとのことで的確な表現を絞り出した。やたらと大人びて見えるのはそのせいだ。自分には皆無のものだから、少々羨ましくも思う。


「第二隊に3年もいれば自然と身に付くものだよ。それより、オーサンに会いに来たんだろ?」


 フィルはすっと墓石の前から退いて、カイに場所を譲った。


「ん、ありがとう。というか俺たち、あいつと同じ歳になったんだな……」


 カイはそこに花束を置き、微かに胸を痛めた。自分たちはもう、あっという間にオーサンの年齢を追い越してしまうのだ。


「ああ。今の状態で16歳の子を見たら、かなり子供に見えるから……オーサンも、そんな目で俺たちを見ていたのかもな」


 フィルは切ない表情で、こう続けた。


「今も見られているような気がするけどさ。俺たちが悲しい顔なんてしていたら『まだまだガキだな』って言うかもしれない」


「有り得る。でも年に一回くらいは、あいつのためにしんみりしてやってもいいだろ?」


 カイは立ち上がり、フィルに向き直った。


「俺さ、今日のガベリアの祭り、行ってくるよ。今までずっと避けてきたけど、ちゃんと自分の目であの場所を見てくる。オーサンにガキだと思われるのはしゃくだし。それにあそこはもう、悲しいだけの場所じゃないはずだから」



 墓地を後にし、カイはデマン家に来ていた。出迎えたレンダーは相変わらずの紳士で、カイの訪問を心から喜んだ。そして彼に続いて現れたセオの姿に、カイは驚いた。


「セオ! 執事になったのか?」


 セオは従者の格好ではなく、レンダーと同じモーニングコート姿だったのだ。体格も以前の折れそうなほどに華奢なものとは違い、すらりと背が伸びて程よく肉が付き、健康的に見えた。


「まだ見習いだけどね。ミスター・レンダーに色々教わっているところ。執事としての気遣いとか。……フローシュお嬢様は、お部屋にいらっしゃいますよ」


 セオはにこりと笑い、階段を手で示した。それがまさにカイへの気遣いなのだろう。彼が最も会いたい人は誰なのか、最初から分かっているのだ。


「ありがとう、ミスター・リブル」


 カイも笑い、フローシュの部屋へと急いだ。

 ドアをノックすると、やや焦ったような彼女の声が返事をした。


「アンナ? もう少しお待ちになって! まだ靴を履いていないのよ」


「靴なんて、俺の前では大体履いてないだろ?」


 カイがドアの向こうに話し掛けると、数秒、沈黙が流れた。近付く足音、勢いよく開かれるドア。次の瞬間には、フローシュがカイの胸に抱き着いていた。やはり靴は履いていなかった。


「カイ! お帰りなさい。今日いらっしゃるはずだとは思っていたけれど、ああ、嬉しい!」


 歓喜の悲鳴にも似たような声で、フローシュは背骨をへし折らんばかりにカイを抱き締めた。彼女はその体が以前より少しばかりたくましくなっていることに気付いて、どきりとする。そして、やっぱり私の騎士ナイトは誰よりも格好いいと思い、にやけてしまうのだった。


「ただいま。ちゃんと顔を見せてくれよ、3ヶ月ぶりなんだから」


 そう言われ、フローシュは慌てて真面目な表情を作った。カイは彼女を自分から剥がして、じっとその顔を見た。


「私の顔、何かおかしくて……?」


 黙ったままのカイに、フローシュは不安そうに尋ねる。にやけているのを見られたかと思ったのだ。


「違うよ。前よりもっと魅力的になったなと思って」


 恥ずかしがらずにそんな台詞を言えるようになったのはカイが成長した証なのだが、本人は無自覚のようだった。反対に、フローシュが顔を真っ赤にして目を逸らした。


「まあ。そんなことをおっしゃられたら、私、あなたのことを疑ってしまいそう……」


「俺の、何を?」


「スタミシアで、私以外の女性と楽しく遊んでいらっしゃるんじゃないかって」


「それは心外だ」


 カイは眉間に皺を寄せてそう言うと、フローシュの腕を引いて部屋に入った。そしてドアが閉まった途端、彼女の背中と頭の後ろに手を回し、強く抱き寄せるようにして唇を重ねた。

 2年前のカイが見たら腰を抜かしていたような熱い口付けに、今はフローシュが腰を抜かした。カイは崩れ落ちそうになった彼女をさっと抱き上げ、優しくソファの上に寝かせる。それから、額にかかる彼女の前髪を指先で除けて微笑んだ。


「フローシュ以外にこんなことは出来ない。分かるだろ?」


「……心臓が破裂するかと思った。よく、分かったわ」


 フローシュは潤んだ目でカイを見上げながら、幸せそうに笑った。


「あなたは私が大好きなのね?」


「そう。愛してる」


 もう一度軽く口付けしてから、カイはフローシュを抱き起こし、その隣に腰掛けた。そして、改まったようにこう切り出した。


「この間くれた、手紙のことなんだけどさ……」


 フローシュが先週、家に送ってきた手紙のことだ。内容は、二人がいつ結婚するのかフローシュの両親が少しやきもきしている、というものだった。


「ええ。お気に召さない内容だったのは承知しているわ。私も言ったのよ。カイは魔導師としてスタミシアでやるべきことがあるから、私が17歳になったからといってすぐには結婚出来ないって。

 でも、お父様とお母様が心配する気持ちも分かるの。ファルン・ガイルスがいつ獄所台から出てくるか分からないから、カイに私の側にいて欲しいのだわ。私は全然、あんな方、怖くないのだけれど」


 フローシュはため息混じりに話す。ファルンはセレスタが犯した罪には関わっていなかったが、彼自身、魔術を利用してフローシュを脅したり、取引先の社員を脅したりしていた。自警団に確保されたことによって、気鋭の青年実業家という仮面は見事に剥がれたのだった。加えて、幼いミミ・ベルシュへの淫行の罪もある。


「そうだな。ファルンの罪状なら少なくとも5年くらいって話だから、あと3年か。それまでには結婚するつもりなんだけど、今は……」


「分かっているわ、カイ。リスカスからメニ草畑を一掃して、そこで働かされている子供たちを助けたい。まずはスタミシアでその準備をしているのでしょ?」


 彼女の言う通りで、カイは駐在員の仕事のかたわら、市民からメニ草畑がありそうな怪しい場所について情報を仕入れていた。駐在員として信頼を得ているからこそ出来る技で、既に何ヵ所か畑の場所を絞り込んでいたのだ。


「ああ。せめて、あと1年。一ヵ所でも畑を潰せれば、それで救われる子供たちが絶対にいるんだ」


 そう言って、カイは険しい顔をした。かつて自分がその子供たちと同じ立場になりそうだったことや、実際の労働の現場を見たこともあって、子供たちの救出は譲れない目標だった。


「そんなに怖い顔なさらないで。あなたの望みは、私の望みでもある。応援する以外の選択肢はなくってよ」


 フローシュはにこりと笑い、カイの手を握った。


「私たち、まだまだ戦友だものね?」



 フローシュを名残惜しく思いながら、カイはデマン家を後にしていた。あのまま彼女の側にいたら自分が良からぬことをしそうで怖かったのだ。節度と我慢――彼女を大切に思えばこそ、キス以上の手出しはしないと自分で決めていたのだった。

 煩悩を振り払うように建物の上を走り、カイは近衛団本部に辿り着いていた。


「お久しぶりです、レンドル団長!」


 カイは団長室の机の向こうで穏やかに微笑むレンドルに、思わず敬礼した。近衛団員たちはカイを快く本部に迎えてくれたが、どうにも自分は場違いのようで緊張してしまうのだ。


「楽にしていいよ、カイ。そこに座って」


 レンドルは応接用のソファを手で示しながら言った。その手を見て、カイは気が付いた。


「手袋、今日はしていないんですね?」


 彼は何か隠したいことがあって白手袋をはめていると思っていたカイだが、その手は至って普通だ。おかしな点は見当たらない。


「ああ、あれか。もう必要が無くなったんだ。ブロルのおかげでね」


 レンドルはそう話しながらカイの向かいに腰掛けた。カイが怪訝な顔で見つめ返すと、彼はこう言った。


「手袋をしていたのは、幼い頃に当たった毒で爪が黒く変色していたからなんだ。どんな治療も効果なしでね。しかしブロルが見付けてくれた古代ガベリア語の資料のおかげで、今はこの通り。彼はもう立派な自警団の一員だ。感謝しているよ」


「そういうことでしたか。俺、本部にも寄ったんですけど、ブロルには会えなかったんですよね。外出中で。たぶん、今日のガベリアの祭りには行くと……あ、レンドル団長は行きますか?」


「そうだな。エディトもきっと、行くと言うだろうから」


 彼女の名前を出したとき、レンドルはふと優しい顔をした。それを見てカイも自ずと頬が弛んだ。


「エディト団長……じゃなくて、奥様、お元気ですか?」


 レンドルは何かがむず痒いような表情をした。照れているのかもしれない。


「その呼称には未だに慣れないな……。もちろん元気だよ。魔術学院の教官として頑張っている。恐ろしい教官だという噂を、よく聞くけどね」


 立っているだけで人を緊張させるような威厳を放つエディトのことだ。カイは、彼女の前で戦々恐々とする生徒たちの様子が目に浮かぶような気がした。


「元近衛団長に指導して貰えるなんて、すごいことですよ。俺はエディト団長……じゃなくてエディト教官、優しいと思いますけど。父さんのサーベル、預かってくれましたし」


 エイロンがベイジルの墓から盗み出し、最終的にカイの手に渡った近衛団のサーベル。ガイルス家でのパーティーが終わった後、カイはそれをエディトに預けていた。

 もう一度父の墓を掘って埋めるのは辛いし、自警団の自分がそれを使い続けるのも気が引ける。そこで、近衛団で保管して貰うことを思い付いたのだ。


「彼女は執念深いから、あのときの君の台詞を忘れないと思うよ。私も楽しみにしているんだがね」


 レンドルはそう言って笑った。カイはサーベルを預ける際に、エディトに宣言したのだ。


 ――俺がいつか近衛団に入ったときに、使います。何年先になるか分かりませんけど。


「……20年後くらいでしょうか。俺はまだまだ、自警団でやるべきことがありますから」


「そうだろうな。顔を見れば分かる。……君は本当に、ベイジルとよく似ているよ。見た目も、周囲を変えていく力も」


 じわりと胸が温かくなるような言葉だった。カイは一つ、父を知るレンドルに聞いてみたいことがあった。


「……父さんの髪ってこんなに癖毛でしたか?」


「いや、君ほどではなかった」


 二人は顔を見合わせ、ぷっと吹き出したのだった。



 キペルを後にして、カイはガベリア支部に到着した。新たに建設された支部は街の中心に近い場所にある。廊下の窓からは、午後の穏やかな空気が流れる街中を人々が行き交う姿が確認できた。キペルの中心部に比べれば少ないが、それなりに人の数は多かった。

 2年前まで人が立ち入れば死ぬような場所だったとは思えない。ガベリア復活のために尽力した獄所台の魔導師やガベリア支部の隊員たちには、頭が下がる思いだ。そんなことを考えながらカイは第九隊の隊長室前に立ち、ドアをノックした。


「ルース隊長、カイ・ロートリアンです」


「どうぞ」


 もう少し驚いてくれると思っていたが、冷静な声が返ってきた。カイは中へ入り、机の向こうでにやつくルースの側へ寄った。


「来ると思ってたよ、カイ」


「少しはびっくりして欲しかったです。顔を合わせるのは半年ぶりなんだから。先月、息子さんが生まれたんですよね。遅くなりましたけど、おめでとうございます」


「ありがとう。カイにも会わせてあげたいけど、ミネもクラウスも、今はキペルの実家にいるからなぁ……」


 ルースは寂しそうに机の上の写真立てを見つめた。息子の名前がクラウスだとカイはそこで初めて知ったが、それがルースとミネの大切な友人の名だということは知らないのだった。


「僕も忙しくて、生まれてからまだ2回しか会えてない。……ほら。ミネに似て、赤毛なんだ。写真は白黒だけど」


 ルースは写真立てを裏返してカイの方へ向けた。生まれて数日くらいの小さな赤子が、優しく笑うミネの腕に抱かれている写真だった。


「こんなに可愛いのに、会えないのはしんどいですね」


「うん。でも、その子が将来安全に生きていける国にしたいからね。カイも頑張っているし、僕も負けていられない。こんな若造の隊長だけど、みんな信頼してくれているから」


 その言葉が強がりでないことは、ルースの明るい表情を見れば分かった。


「俺、頑張ってはいますけど……昔のルース隊長みたいにはいきません。自らメニ草の売人と接触なんて出来ないし」


 カイが言っているのは、かつてルースが異動したばかりの第一隊で、策を巡らせてメニ草の売人と栽培人を確保したときのことだ。ルースは当時、まだ19歳くらいだった。


「あれは危険だからやめた方がいい」


 ルースは苦笑した。


「当時の僕は悪夢の後で自棄やけになっていたから、そんなことが出来たんだよ。カイにはカイのやり方がある。十分上手くやっているじゃないか。畑の場所を絞り込めたなら、後は確保に動くだけだ。お前なら出来るよ。2年前にやってのけただろう? もっと自信を持て」


 過去、ガベリアへ向かう途中に偶然見付けたメニ草畑で、カイはセルマと一緒に子供たちを救出していた。彼らはベロニカがスタミシアに建てたトワリス病院に預けられていて、カイも時折そこに顔を出している。

 今のところ、両親の元に戻れた子供は一人だけだった。親のメニ草中毒が治癒しない限り、子供を返すわけにはいかないのだ。現実は厳しいが、それでも彼らはカイに眩しいくらいの笑顔を見せてくれるのだった。


「はい。気合いが入りました」


 子供たちの顔を思い出し、カイは自然と笑顔になった。今もメニ草畑で苦しんでいる子供があんなふうに笑えるようになるなら、頑張り続けることにも意味があるはずだ。

 その顔を見て、ルースもほっとしたように微笑んだ。


「良かった。お前はやっぱり笑っている顔の方がいいよ。そういえば今晩の祭り、行くつもりでガベリアに来たんだろ?」


「はい。隊長は?」


「もちろん行く、というか、あそこの警備を割り当てられているからね。みんなは来るんだろうか」


「エスカ隊長もエーゼルさんも来るそうです。後はレンドル団長夫妻に、フロウさんも。あ、知ってますか? フロウさん、実は……」


 カイはそれから、ここへ来るまでに見聞きしたことを逐一、無邪気な様子でルースに報告した。彼の前では口が軽くなるらしい。ルースは楽しそうに相槌を打っていたが、最後にふと真顔に戻ってこう言った。


「フローレンスのことは、勝手に話してはいけなかったんじゃないか?」


「え、そうですか」


 カイが少し焦ると、彼はにやりと笑った。


「本人に報告されたら、僕は知らなかったふりをしなきゃいけないじゃないか。出来るかなぁ」


「……首を突っ込むのは駄目ですよ」


「それはしないよ。可愛い部下だし、嫌われたくないから」


「何ですかそれ。俺のことは散々からかったじゃないですか! 変態!」


 憤慨したカイを見て、ルースは呼吸困難になりそうなほど大笑いしたのだった。



 太陽が山の向こうへ姿を消し、街にぽつぽつと明かりが灯る頃、カイはルースと共に旧ガベリア支部へと向かっていた。街中では同じ方向へ進む市民が多く目に付く。彼らも祭りを見に行くのだろう。


「ルース隊長は、あの場所に行ったことあるんですか?」


 少し俯き加減に路地を歩きながら、カイが尋ねた。


「ああ、何回も。あそこ、基本的に僕らの隊の管轄だからね。オルデンの樹が人に危害を与えないように、管理しているんだ」


 ルースが答えた。今までは洞窟の中にあって誰も触れることの出来なかった、魔力の源となる樹だ。獄所台の魔導師が調査したところによると、魔導師でさえ触れただけで意識を失い、短時間の記憶が飛ぶらしい。一般の人が触れるとかなり危険であることは明らかだった。


「物理的に柵で囲んで、侵入出来ないように魔術も掛けてあるんだけど、月一くらいで侵入しようとする人間が現れる。樹の一部を盗んで売るつもりだったようだ」


「馬鹿なんですかね」


 オルデンの樹の破片のせいで恐ろしく痛い目を見た経験のあるカイは、そう言って顔をしかめた。


「そういえば俺の体に埋まってた破片、今もブロルが持ってるんですけど。『これ、どうするべきなんだろう』って言ってたらしいです」


「いつか運命の動くとき、紡がれた先にいる者の手で、希望と共に、あるべき場所へと還る」


 ルースが呟き、カイは顔を上げて彼を見た。


「え?」


「ガベリアの巫女の予言だよ。2年前、ガベリア支部へ入る寸前にブロルが言っていただろう? 僕は案外、運命の動く刻って今日なんじゃないかと思ってる」


 その言葉にカイが首を傾げると、ルースはこう説明した。


「今までは『紡がれた先にいる者』はブロルで、『希望』はセルマのことだと思っていた。それも間違いではないかもしれないけど、僕は『紡がれた先にいる者』はカイで、『希望』はこの現実だとも思えるんだ」


「俺、ですか?」


「そう。色んな人の想いが紡がれた先に、お前がいる。それを背負って生きろって意味じゃなくて、カイ・ロートリアンという人間は、やっぱり名前の通りの『光芒こうぼう』だってことさ」


「そんなに大層な人間じゃありませんよ……」


 そう否定するカイの耳がほんの少し赤くなっていた。その耳に銀色のリングピアスが揺れるのを見て、ルースは優しく微笑むのだった。これにはオーサンもきっと同意してくれるだろう、と。

 それから二人は、林の中に整備された道を進んでいく。あと少しでオルデンの樹が姿を現すと思うと、カイの体は勝手に強張り、視線は足元に落ちるのだった。


「……ほら、見てごらん。とても美しい景色だから」


 ルースにぽんと背中を叩かれ、カイは伏せていた目を上げた。


「あ……」


 息を呑むように幻想的な光景だった。星を散らした濃紺の空の下で、様々な花が咲き誇る丘一面にキャンドルのが揺れている。その間を人影が行き交い、また一つ、二つと地面に柔らかいオレンジの光が増えていく。

 丘の頂上には、人の背丈ほどの鉄柵に囲まれた巨大なオルデンの樹がある。全てが水晶で出来ているその透明な樹は、幹や枝葉にキャンドルの光を映して美しくきらめいていた。


「お久しぶりですね、ルース、カイ」


 横から声を掛けられ、二人はそちらに顔を向けた。


「エディト団長! ……じゃなくて、教官」


 カイは言い直した。エディトは学院教官の黒い制服に身を包んでいるせいか、半分闇に紛れそうになっている。彼女はキャンドルが入った瓶を胸元に抱えていて、その柔らかな灯が、にこりと笑う優しい顔を照らしていた。


「今となっては懐かしい呼び名です。二人とも、元気そうですね」


「ご無沙汰しています。エディト教官もお元気そうで。今日は生徒の引率ですか?」


 ルースは彼女の背後に視線を遣った。少し離れた場所に灰色の制服を着た生徒が10名ほど立っていて、エディトと同じようにキャンドルの瓶を抱え、目の前に広がる光景に見とれていた。


「ええ。彼らはガベリア出身の生徒なんです。夜ですし、ここと学院との行き帰りで何かあってはいけませんから」


「……何だか不思議な感じですね」


 カイが言った。あのエディトが学校の先生、というのは今まで想像が付かなかったが、こうして見てみると案外しっくりきたからだ。


「私もまだ慣れませんよ。特に、生徒にどの程度厳しくするかについては他の教官に学ぶことが多いです。私自身学校へ通ったことが無いので、生徒の感情というものは想像しかねますが……君を参考にさせてもらっていますよ、カイ」


 エディトが笑った。それから生徒たちが駆け寄ってきて、カイとルースにきっちりと敬礼し「お疲れ様です!」と声を揃えた。その初々しさに、カイもルースも思わず頬を弛ませて挨拶を返した。


「では、また。君たちに会えて良かったです。たまには特別講師として、学院に顔を見せに来てくれても構いませんよ」


 エディトはそう言うと、生徒たちを連れて二人から離れていった。彼らはエディトに「あっちの方に出店があったんです!」「ハニー・シュープス売ってましたよ、教官! 好きですよね?」など、はしゃいだ様子で声を掛けていた。どうやら彼女は、生徒に厳しくはあるが慕われてもいるようだ。好物を彼らに把握されているというのが、その証拠かもしれない。


「ハニー・シュープスだって」


 ルースが微笑んだ。ベイジルが好きだったスタミシアの飲み物で、シュープという木の実を粉にし、蜂蜜と一緒にお湯で溶いたものだ。味は少々刺激的だった。


「僕らも帰りに買っていこうか」


 カイはその誘いに、肩をすくめてみせた。


「俺にはやっぱり、あれの美味しさが分かりません。体は温まりますけどね」


「子供舌だねぇ」


「刺激物は苦手なんです。……俺たちも、キャンドル置きませんか?」


「そうだな。せっかく来たんだし」


 二人は受付で瓶に入ったキャンドルを貰い、丘を登っていった。適当な場所にそれを置いて柵の側まで行くと、警備に当たる隊員が何名か目に入った。


「ルース隊長! お疲れ様です」


 隊員の一人がルースに気付いて敬礼した。


「お疲れ様。不審者は?」


「不審者はいないんですが、彼がちょっと……」


 隊員は困ったように言うと、二人を連れて樹を囲む柵を回り込んだ。柵の扉らしき場所の前で、別の隊員とブロルが軽く言い争っていた。ブロルは自警団の特別職員の紺制服を着ていて、以前よりも格段に背が伸びている。白銀の髪は薄闇の中でもはっきりと目立っていた。


「どうしたんだ?」


 ルースが声を掛けると、ブロルは助かったと言わんばかりに顔を輝かせた。


「ルース! あ、カイも。柵の中に入れて欲しいってお願いしてるんだけど、危険だからって聞いてくれないんだ」


「隊長、どうしたらいいですか? いくら山の民族でもこの樹に近付くのは危険過ぎます」


 隊員が困り果てた顔をルースに向けると、ルースは迷いもせずこう答えた。


「大丈夫だ。入れていい」


「本当にいいんですか? もし彼に何かあったら――」


「僕が責任を取る。獄所台に呼び出されても構わないさ」


 ルースは柵の扉の部分に触れる。かちりと音がし、そこが開いた。


「ほら、中へ。カイもだ」


「えっ、俺もですか?」


 カイが面食らっていると、ブロルが自分の首元から何かを引っ張り出した。ペンダントになったオルデンの樹の破片だ。


「君がいないと駄目だよ。これ、あるべき場所に還さないとね」


 そう言ってカイの腕を引き、するりと扉の中へ入る。ルースが頷いて静かに扉を閉めた。ブロルが先導するようにして、二人はゆっくりと樹に近付いていく。

 目の前にそびえる水晶の巨大な幹と、巫女の洞窟のように清廉な空気にカイは鳥肌が立った。心臓が早鐘を打つが、嫌な気分ではない。感じるのは期待や喜びのような興奮だった。

 ブロルは片手をすっと樹の幹に添え、目を閉じた。


「おい、触ったら……」


 カイは慌てたが、ブロル自身には何も起こらない。代わりに、風もないのに遥か頭上で葉が揺れ、カラカラと心地好い音を立てた。


「やっぱり、カイを待っててくれたみたいだ」


 ブロルが呟いた。


「誰が……?」


「そんなの、一人しかいないじゃない」


 ブロルはいつにも増して輝く瑠璃色の目でカイを見つめ、微笑んだ。それから首のペンダントを外し、彼の手に握らせる。以前のカイだと立ってもいられない状態になっていたが、今は平気だった。

 次の瞬間、光る羽虫が現れて辺りに漂い始めた。カイも見たことがある。かつて巫女の周囲に漂っていた羽虫だ。


「セルマ?」


 カイが思わず呟くと、この2年間一度も流していなかった涙が頬を伝った。姿は見えず声も聞こえないが、すぐ側に彼女の存在を感じる。手が自然と樹の幹に触れ、羽虫の光が一層強くなった。


「ごめん。待っててくれたのに、こんなに遅くなって……」


 改めて自分を襲う喪失感と、またセルマを側に感じられた嬉しさがカイの胸の中で混ざり合う。声も心も震えるのはどうしようもなかった。力が抜け、指先が幹の表面を滑り落ちた。


「……?」


 水晶の滑らかな木肌に引っ掛かりを感じ、カイはそこに目を凝らした。幹の一部が欠けたように小さく窪んでいる。

 どうすれば良いのか、カイにはすぐに分かった。彼はペンダントからオルデンの樹の破片を外し、手の平の上で眺める。やるべきことは分かっているのに、そこにほんの少しの躊躇ためらいが生まれた。


「大丈夫だよ、カイ。それを樹に還しても、僕たちの記憶からセルマが消えたりはしない」


 カイの心を読んだようにブロルが言った。


「本当に?」


「本当に。今のオルデンの樹にそんな残酷なことは出来ないよ。それに、セルマはちゃんとこの世界に存在した人間だもの。僕らはセルマの顔も声も、彼女がどんな人だったかも知っている。忘れるはずがない」


「……そうだな。忘れるわけがないよ」


 彼女の少し乱暴な言葉遣いも、優しく笑う顔も、リスカスのために命を捧げた覚悟も。カイは微笑み、穏やかに揺れる頭上の葉を見ながらセルマに語りかけた。


 ――これからも心は一緒に生きていく。だから、俺の目に映るものを一番近くで見ていてくれよ。少しでも綺麗な世界を見せられるように、頑張るからさ。


 そして、カイは幹の窪みに破片をめ込んだ。

 枝葉のざわめきがぴたりと止んだ。清廉な空気が密度を増し、強い風が丘全体を吹き抜ける。キャンドルの灯が全て消え、辺りは束の間、星明かりだけの薄闇に包まれた。そして人々が何事かと囁き合う中で、カイは懐かしい声を聞いた。


 ――うん、見ているよ。


 その刹那、オルデンの樹全体が目映まばゆいほどに白い光を放った。あまりの眩しさに、カイは思わず目蓋を手で覆った。


「わ、目が変になりそう! 柵の外へ出よう」


 ブロルが手を引き、カイを柵の外へ連れ出した。

 樹から少し離れた所で、カイは何度か目をしばたいた。太陽を直視してしまったときのようにチカチカしていたが、しばらくしてそれも治まる。すぐにルースが駆け寄ってくるのが分かった。


「カイ、大丈夫か?」


「大丈夫みたいです。……あ」


 カイは改めて目の前の光景を見、息を呑んだ。樹の光は夜に沈んだ濃紺の空を薄いベールで覆ったように白く明らめ、丘に咲く花々の色彩を鮮やかに浮かび上がらせている。まるでガベリアが甦った日に見た幻、この世ならざるような神秘的な光景が、そこには広がっていた。

 人々は一様に驚き感嘆の声を漏らしながら、その光景に見入っていた。


「……常々驚くようなことをしてくれるよ、うちのカイ・ロートリアンは」


 そう言いながらカイの方へ近付いてきたのは、エスカだった。言葉ほど驚いてはいないのか、彼は余裕の微笑みを浮かべている。その後ろにはもう一人、私服姿の青年がいた。エーゼルだ。髪色は黒に戻したままで、顔付きは以前より精悍さが増しているようにも見えた。


「凄い光景だ……。お久しぶりです、ルース隊長。カイも、ずいぶん背が伸びたな」


 そう言って、彼も微笑んだ。


「これでみんな揃ったね。2年前の旅の仲間!」


 ブロルがぱっと顔を輝かせる。カイ、ルース、エスカとエーゼル、ブロル。そしてオーサンとセルマ。この7人であの日、ガベリアへ入ったのだ。全員で帰ることは叶わなかったが――


「オーサンとセルマもちゃんと、ここにいるから。ね?」


 ブロルの言葉には、全員が同意した。そして彼らは、煌々(こうこう)と光を放ち続けるオルデンの樹を見上げた。


「あの旅で俺たちは一生分の苦労をしたと思う。だからって、この先に待つのが幸せばかりなんてことはないだろうな。魔導師でいる限り苦労は付いて回る。まあ、辞めるつもりはないけどさ」


 エスカの言葉に、エーゼルがこう返す。


「どんな苦労でも、それが誰かの笑顔に繋がるなら請け負う意味がある。兄の言葉の受け売りなんですけどね、これ。今の俺の信条なんです」


「いいね。とても魔導師らしい。出来れば苦労は少ない方がいいけど……、今の僕らなら乗り越えていける気がするよ。見てしまったからね、色々な光を」


 ルースがちらりとカイを見ると、彼は樹を見上げながら静かに涙を流していた。カイの隣にいたブロルもそれに気付き、すかさず声を掛けた。


「それ、嬉し泣きなんだよね?」


「野暮なこと聞くなよ」


 カイは上を向いたまま頬を拭い、恐らく、今までの人生で一番の笑顔を見せた。きっとセルマもオーサンも、そしてベイジルも、今の自分を見ているような気がしたからだ。


「俺は大丈夫」


 言葉がカイの口をいた。


「まだまだ一人前の魔導師にはなれてないけどさ。約束するよ。自分や誰かの大切な人が泣かないように、俺は俺のするべきことをする。胸を張って、強く生きて、また会えた日に思い切り自慢してやるから」


 彼らの想いが紡がれた先に自分がいる――それはきっと間違っていない。口にした言葉の通り、自然に、当たり前のように、彼らの願いはカイの願いになっていた。後は人生が尽きるまで、時間を掛けて叶えていくだけだ。

 オルデンの樹は輝き続け、優しく枝葉を揺らしている。闇の中を巡り、ようやくここへ辿り着いた魔導師たちを癒すように。





 ―END―





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