23、魔力を司る者
これは誰の記憶だろう。セルマの目の前に広がるのは巫女の洞窟だ。だが、キペルの洞窟とは少し造りが違うようだった。オルデンの樹は洞窟の中央ではなく、奥にある。
「失礼致します」
洞窟の入口から声がした。セルマの視界は自然とそちらに向き、声の主を捉える。
近衛団の臙脂色の制服を着た男性だった。精悍な顔付きをした彼は、颯爽と中へ入って来る。艶のある黒髪が揺れ、若々しいその顔は自信に満ちているようにも見えた。
「お変わりないですか、タユラ」
男性が目の前に立ってそう問いかけると、セルマは気が付いた。これはタユラの記憶で、ここは、ガベリアの巫女の洞窟だ。
「私が変わることなど、そうそうないでしょうね。そちらはどうですか、エイロン」
セルマはまるで自分が話しているかのように感じるが、これはタユラの言葉だ。淡々と話しているのに、心は微かに浮き立っている。不思議な感覚だった。
エイロンは微笑み、こう言った。
「今の季節、キペルは紅葉が美しいんですよ。ガベリアも、もうすぐ秋でしょうね」
「つい先日、春の匂いがどうのと言っていませんでしたか」
「あれからもう半年が経ちますよ」
「そうですか。何せ百年近く生きていると、時間の過ぎるのが早いものですから。そちらの一日は、私の一分くらいでしょう。そもそも時間の概念など、ここでは必要ありません」
セルマは切ない気持ちになる。もしこれがタユラのものなのだとしたら、巫女は人の心を持たないはずなのに、どうしてこうも心が揺れるのだろう。
エイロンはポケットから何かを取り出し、タユラに差し出した。赤く色付いた、5センチくらいの丸い木の実だ。表面は艶やかで、ルビーの宝石のように美しく光った。
「キペルからガベリアへ来る途中に、スタミシアで拾いました。シュープという木の実です。鮮やかでしょう。ここにはほとんど色がありませんから」
そう言ってオルデンの樹を見る。エイロンが言う通り、白い岩壁と黒いオルデンの樹、そしてタユラの青い装束以外に、ここに色は無い。
「そうかもしれません。しかし、私は食物は口にしない。何も食べずとも死なないから」
「食べさせるために持ってきたわけじゃありません。あなたに、見せたかったのです」
エイロンはそう言って、タユラの手を取る。そしてそこに、木の実をそっと乗せた。
「……気安く巫女に触れるなと教わらなかったか」
タユラはたじろぎ、セルマの視界は彼から離れた。後ずさったようだ。心は大きく揺れ動き、動悸すら感じる。
「ご無礼を」
エイロンはすぐに頭を下げた。
「立場は弁えているつもりですが、あなたと話していると、つい巫女ということを忘れてしまうのです。話に聞いていた巫女とは、あまりにも違って」
「貴方が馴れ馴れし過ぎるのです。他の近衛団員は、私と目を合わせることもしない。それが普通だ」
「いけないことなのでしょうか」
エイロンはまっすぐにタユラの目を見る。触れられた手が熱を持ち、胸が張り裂けそうになる。視線に堪えかね、タユラは彼に背を向けた。
「もう良い。用が済んだのなら早く出ていきなさい」
「申し訳ありませんでした。……また、来ます」
背後で足音が遠ざかっていった。
セルマの視界が暗転し、今度は、目の前にオルデンの樹があった。凹凸の少ない黒水晶の樹皮は、洞窟の淡い光を反射して妖しく煌めいている。
「……思ったよりも、早かったか」
タユラは呟いた。何のことだろうとセルマが思っていると、視界の端にあの臙脂色が映り込んだ。
顔を向けると、エイロンが立っていた。容姿は以前より大人びている。さっきの記憶から、何年か経ったのだろう。
「お呼びでしょうか」
「ええ。……大切な話があります。貴方にだけ伝えるものです。決して口外しないと、誓えますか」
エイロンは地面に片膝を着き、頭を垂れた。
「この命に懸けて」
所作も佇まいも、以前と比べて格段に礼儀正しくなっている。セルマはそこに寂しさを感じた。きっと、タユラ自身がそう感じたからだ。
「ありがとう。顔を上げなさい。……オルデンの樹は私に、新たな巫女の誕生を告げました」
エイロンは僅かに目を見開いた。
「まさか。あなたの役目はもう、終わりに近いと?」
「左様。全てはオルデンの樹が決めることです。我々はそれに従うまで」
「では……巫女の器を保護しろという命令でしょうか」
「いいえ。保護など、する必要はない。だから貴方だけを呼んだ」
「しかし」
「私の孤独が分かりますか、エイロン。王宮の奥で、誰とも心を通わせず、毎日のように国のため人々のためと巫女の役目を説かれて育った私の孤独が」
タユラの声に、苦痛の色が滲み始めた。
「巫女として、私は失敗作なのでしょう。だからこそオルデンの樹は、私の役目を終わらせようとしている。だが、私と同じ苦痛を……人と隔絶される孤独を、新たな巫女に味わわせることなど出来ない」
「しかし、巫女がいなければ樹は――」
「私は運命を変えたいのです、エイロン。魔力が人々のためにあると言うのならば、それを司る者は、人の心を持つべきだ。そうでしょう。
巫女を作り上げるのは、もう終わりにしなければならない。私には分かる。新たな巫女の器は……どんな環境で育とうとも、自分の意志で、巫女になることを選びます。私に未来を見る力はないが、これだけは確かなのです」
セルマは心臓をぐっと掴まれたような気がした。自分の意志で巫女になることを選ぶ――今、私はこれだけ拒否しているのに、本当に?
エイロンはしばらく黙っていた。そう簡単に、はいと言えることではない。巫女が途絶えれば、オルデンの樹の果てしない力は暴走し、リスカスがどうなるかは分からない。巫女を保護して純粋に育てなければ、その危険性は高まる。
だが、やがて口を開いた彼はこう言った。
「私は、何をすれば?」
「巫女の器を、見守って欲しいのです。彼女の名はセルマ。三日前、雪の降る夜に、キペルのスラム街で生まれました。瞳は蒼く、月光のような美しい髪を持っています」
「まさか、スラム街とは。やはり保護するべきでは? 生きていけるかも定かではありません」
「いいえ。彼女は強く生きていきます。残念ながら、既に母親には捨てられていますが……。親切な女性がすぐに拾い上げ、我が子のように愛情を注いでいる。あなたはその女性の元へ行き、セルマを確認するのです。そして、陰ながら見守って欲しい。それだけで十分です」
初めて自分の生まれを知って、セルマは目眩を覚えた。生まれてすぐに捨てられていたとは。そして、それを拾ってくれた人がいる。
しかし、彼女の記憶にそんな女性はいなかった。セルマの一番古い記憶は、水の引いた川に入って泥をさらい、小さな手で金目の物を探している場面だった。その頃から、一人で生き抜いていたのだ。
「セルマは必ず、ここ、ガベリアの洞窟へ辿り着きます。そして巫女となり、全てを変えてくれる。信じるに値しない予言かもしれない。だが私は信じたい。それが叶わないのなら、いずれリスカスは滅びます」