88、愛する者と
「お母さん、もう花火上がってるよ! ほら、お父さんも」
二階の窓から外を覗き、フリムは子供のようにはしゃいだ声を出した。コールがキペルに買った家は中央一区の外れにあり、周囲に視界を遮るものがなく、王宮の側で打ち上げられた花火がよく見える。夜空に轟く音も、はっきりと聞こえていた。
レナはコールに促されて、少々ためらいがちに窓際へ寄った。我が子といえども離れていた時間が長過ぎて、未だにフリムの側に立つのは緊張するのだ。
「……どこだ?」
「あっちあっち。もっと寄らないと見えないよ」
フリムはレナの腕を掴むと、自分の方へ引き寄せて体をぴたりとくっつけた。
「えへ。あったかいね」
そう言ってレナの顔を見つめ、幸せそうに笑うのだった。フリムにとって花火はただの切っ掛けで、それ自体はどうでも良かったのかもしれない。
「いい大人が、べたべたしすぎじゃないか……?」
レナが困惑していると、コールが側へ来て優しく言った。
「大人でも子供でも、大切な人とは出来るだけくっついていたいものだよ」
「うんうん。シャノン先生だって、こうやって家族三人揃っているのを見たら喜ぶに決まってる」
フリムは言った。シャノン・ハーバーは医務官の女性で、レナの学生時代の担任教官だった。自警団を休職したレナはガベリアで診療所を開いていた彼女の元に身を寄せ、そこでフリムを産んだ。そしてスタミシアに住むシャノンの姪夫婦にフリムを預け、自警団に復帰したのだ。シャノンは残念ながら、7年前に悪夢で消えていた。
――そう遠くない将来にリスカスは変わるさ。お前もいつか必ず、あの子に母親だと名乗れる日が来る。諦めるなよ、レナ。その時はちゃんと笑って、お前の宝物に、誰よりも愛していると伝えるんだぞ。
シャノンの言葉を思い出し、レナは目頭が熱くなる。レナの少しぞんざいな物言いも、それでいて真剣に患者を診る姿勢も、全て彼女の影響なのだ。
「そうだな。喜んでくれていると思うよ」
それでもレナの顔には自然と笑みが浮かぶ。医長としてトップに立ち、誰も褒めてくれなくなった今、シャノンだけは褒めてくれるような気がしていた。普段の厳しい眼差しを和らげて微笑み、よく頑張ったな、と。
「でしょう? ね、お父さんもこっちに来てよ」
フリムはコールのことも引き寄せた。それから三人でぎゅうぎゅう押し合いつつ、それぞれに幸せを噛み締めながら、途切れることなく空を彩る花火を眺めた。
自警団本部の隊舎の屋上には、非番の隊員たちが何人か集まっていた。彼らは小さく歓声を上げながら空を見上げている。9年振りとあって、花火師も気合いが入っているのだろうか。打ち上げ場所から距離があっても十分に大きいと感じるほどの花火が、次々と夜空へ咲いていく。
「すごい……」
クロエも思わず呟き、しばらくその光景に見入った。轟く音が心地好く胸を揺らすせいか、あまりにも美しい光景のせいか、彼女の頬には知らず知らず涙が伝っていた。
(心の中で思えば聞こえてるんだよね。私はもう大丈夫。誰かの優しさを受け止めることも出来るし、綺麗なものをちゃんと綺麗だと思える。前を向いて生きていくけど……きっとまだしばらくはあなたのことが大好きだよ、オーサン)
クロエは指先で涙を拭い、晴れやかな表情でまた空を見上げた。
「いいよな、盛り上がっちゃってさ……」
キペルのバル街には煌々と明かりが灯され、人々が酒のグラスやジョッキを片手に、花火の音にも負けないような歓声を上げている。不満顔のフローレンスは建物の屋上からその様子を眺めていた。当直で、しかも街の巡回を割り当てられてしまった彼は、屋上の縁に頬杖を着いて小さくため息を吐く。
リスカスではつい最近になって外出禁止時刻が撤廃され、夜のバル街も賑わいを取り戻していた。そうなると酔っ払いによるトラブルも避けられず、安全のためには自警団の巡回も必須になってくるのだった。フローレンスもそれは理解している。
何かしらの理由を付けてクロエと一緒に花火を見たかった、というのが彼の本音だ。しかし、彼女が今日は一人きりでいたいと思っていることも薄々感じていた。非番なのに実家に帰っていないのは、そういうことなのだろうと。
「あー、しんどい!」
花火の音と被せるように叫びつつ、フローレンスは幸せな気分でいた。自分がここまで誰かを想えるなんて、初めて知ったからだ。
不意に、ガラスの割れる音と怒声がバル街から聞こえてきた。早速、客同士の乱闘騒ぎが起きているようだ。
「うげー。新年初仕事か……」
諦めたように笑い、フローレンスは屋上の縁を乗り越えて路地に降りていった。
ミネの実家はキペルの中央5区にあり、そこから見える花火は幾分、小さいものだった。
「やっぱり、場所が離れちゃうとちょっと迫力がないね。もっと近くで見たかった?」
二階の窓から遠くの空を見つつ、ミネは隣にいるルースにもたれかかった。二人きりの部屋は静かで、時折、階下の楽しそうな笑い声が聞こえてきていた。
「そんなことないよ。せっかくミネの両親に招いてもらったんだし」
ルースが微笑んでそっとミネの手を握ると、ミネは思わず声を出した。
「わっ、冷たい手。ルース、そんなに緊張してたの?」
ルースは苦笑しつつ、言った。
「僕があの場でなかなか話を切り出せないでいるの、見てただろ? とりあえず、結婚を許してもらえてほっとした」
「反対なんてするはずないのに。お父さんもお母さんも、ルースが悪夢の後からずっと私を支えてくれたこと、知ってるんだから」
「これからも支えるつもりだよ、ミネのこと」
「それ、私の台詞。二人で幸せになろうね」
「そうだな。クラウスが嫉妬して夢に出てくるくらいに」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく自然に唇を重ねた。
「エーゼルさん、花火、見なくていいんですか?」
新年の乾杯とご馳走のために食堂をセッティングしながら、ユフィが言った。本部で当直だったエーゼルは、年明けの瞬間も彼女を手伝っていたのだ。
「俺たちのために準備してくれているわけですから。それに、ユフィさんと一緒にいられる方が嬉しいです」
エーゼルはにこりと笑った。黒髪に戻してから、彼は少し男らしくなったらしい。ユフィと話すときも赤くならずに堂々としているのだった。
「そんなふうに言ってもらえると、私も嬉しいです」
ユフィの方はまだ、微かに頬を染めていた。
「今年も一年、よろしくお願いしますね」
「はい。とりあえず、お互いにもう敬語はやめませんか?」
エーゼルがそう切り出した。知り合ってしばらく経つし、二人は同い年だった。
「えっと、そうで……そうだね。こんな感じ……?」
ぎこちなくユフィが言った。
「そう。敬語だとちょっと伝わりにくいこと、言いたかったからさ」
エーゼルは不意に、ユフィの耳元に顔を寄せた。
「大好きだよ、って」
「だ……」
ユフィは真っ赤になって口元を押さえた。エーゼルは何だか嬉しそうにその顔を見つめる。彼の豹変振りには第一隊の誰もが驚くことだろうが、今のところそれは、ユフィにしか見せない一面なのであった。
隊舎の四階にある自室から花火を眺めているのは、ナンネルだった。寝間着の上にカーディガンを羽織り、少し眠そうな目をしている。
不意に部屋のドアがノックされ、遠慮がちにナンネルの名を呼んだ。誰の声かすぐに分かったので、彼女は魔術で鍵を開けた。
「やっぱり起きていたのか」
エスカがすたすたと部屋に入ってくる。彼は当直なのか、制服姿だ。ナンネルが心配で仕事を抜け出してきたのだろう。
「身重の体で夜更かしは良くないだろ? 早くベッドに戻るんだ。花火なんて来年も見られるんだから」
「どうしても見たかったんです。9年振りのこの花火は、あなた方が命懸けでガベリアへ向かった結果ですから」
そう言うと、ナンネルはエスカの胸に顔を埋めた。
「私、こうしてあなたの家族でいられることがとても嬉しいです。愛しています」
「……うん。そっくりそのまま返す」
嬉しさを噛み締めたようにエスカが言うと、ナンネルは顔を上げて言った。
「私、夢があるんです。子供が生まれたら、家族三人で写真を撮りたいなって」
「写真? それはもちろん、俺もそのつもりだけど……」
エスカは不思議に思った。家族写真を撮るのはリスカスでも一般的なことで、夢というほどのものではないからだ。
「私の家がとても貧しかったのは、あなたもご存知ですよね。お母様は名家の生まれでしたが、売れない画家だったお父様と駆け落ちして家を捨てたからです。お父様は私が物心つく前に亡くなったのですが……、写真が一枚も無いんです。当時の写真は今よりも高価なものでしたから、私の家ではとても撮れたものではなくて。私が自警団に入ってお給料を頂いてから、お母様と二人で撮ったのが初めての家族写真でした」
そう話すナンネルの頬を、涙が静かに伝った。
「だから、夢なんです。全員が揃っている家族写真」
「じゃあ、君の気が済むまで撮ろう。夢じゃなくて、それが日常になるくらいに」
エスカはナンネルの頬に触れ、優しく微笑んだ。今はまだ見ぬ我が子と、その子を抱くナンネルを想像するだけで胸の奥が温かくなる。きっと、いい家族写真が撮れるはずだ。
窓の外は一際明るくなり、心地よい破裂音がそれに続く。二人は身を寄せて外を眺めた。花火はまだ、これでもかと言わんばかりに高く、鮮やかに大輪の花を咲かせていた。
バルコニーに出て乾杯を交わす王族たちの後ろに控えながら、ラシュカは文字通り空を埋める花火を見上げた。最も近い場所でこれを眺めることが出来るのは、近衛団員だけの特権だ。煌めく粒がゆっくりと、まるで雪のごとく自分達の上に降ってくるかのように見えた。
(お前は暗いところが苦手だったからな。これなら十分、明るいだろう?)
ラシュカは心の中でオーサンに語りかける。オーサンが暗いところを嫌っていたのは、その嗜虐性を正すため、幼い頃にラシュカが何度も納屋に閉じ込めたせいだ。彼が魔導師になってから「俺が狭いところと暗いところ苦手になったの、パパのせいだからな」とお茶目に言われたのを思い出して、胸がちくりと痛んだ。
「ラシュカ」
気が付けば、目の前に国王が立っていた。ラシュカは慌てて姿勢を正した。
「失礼致しました、陛下」
「そんなに気を張らずとも良い。……私はあの日以来、花火は忌むべきものと思っていたのだが。ご覧、何と美しい光景なのだろう。そしてこの光景を見るために払われた尊い犠牲を、私は忘れないよ。君は任務中故、一緒に杯を捧げることは出来ないが……」
国王は手にしたグラスを掲げ、柔和な笑顔を作った。ラシュカが近衛団に入ってから一度も見たことのない、穏やかな笑みだ。
ラシュカはよくエディトの口から「陛下はお心のある方ですから」という言葉を聞いていた。それは、リスカスや王族のために命を懸ける者への慈愛という意味だったのかもしれない。あのクーデター以降、国王もずっと苦しんでいたのだと、ラシュカは彼の顔を見て気付かされた。
「この平和の礎、クシュ・エテイリ、オーサン・メイ。君の息子は永遠にリスカスの誇りだ」
「……陛下のお言葉、有り難く頂戴致します」
国王の前であることは分かっていても、ラシュカは堪え切れず、静かに涙を溢した。
カーテンを引いた部屋の中は暗く、淡いランプの光がベッドの枕元だけを照らしていた。そこで動く影と微かな衣擦れの音に混じり、窓の外では花火の音が遠く響いている。
「……もう始まっているようですが、見ますか?」
「結構ですよ、レンドル。私のトラウマなので」
エディトは左手でそっと自分の右肩に触れる。その肌にうっすらと残る傷を隠すように。9年前のクーデターで、銃弾が当たった場所だった。
「隠さなくていい」
レンドルは優しくそう言って、エディトの手を外させた。そして真剣な目で彼女を見下ろした。
「その傷も過去のことも、全部含めてあなたを愛していますから」
「……緊張するのでやめてもらえますか、そういうの」
「あなたほどの人でも?」
「特別な人間じゃない、と私に言ったのは君ですよ」
「夫に対して君という呼び方はないでしょう。それに私はもうあなたの部下じゃない。自分で指名しておいて、忘れたんですか?」
「そうでした。今は団長でしたね、あなたは」
ふっと笑いを漏らし、強張っていたエディトの表情が和らいだ。
「私が命令しても、もう聞いてくれないということでしょうか」
「お願い、なら聞きますよ。いくらでも」
レンドルが微笑むと、エディトは少し唇を噛んで黙った後、恥じらいながら言った。
「明かりは消して下さい。あとは全て任せますが……出来るだけお手柔らかに。今のあなたに勝てる気がしません」
「……かわいい」
思わず漏れたようなレンドルの言葉と共に、ランプはふっと消え、二人の影は真夜中に沈んでいった。
「わあぁ……」
生まれて初めて聞いたその爆音に、ブロルは思わず耳を塞いでしゃがみ込んだ。彼は自警団裏手の墓地で一人、エイロンの墓石の前にいた。
「あ、綺麗……」
恐る恐る見上げた空に広がっていたのは、耳を塞ぐ手を思わず離してしまうほどに美しい光景だった。
「すごいね、エイロン。これが花火?」
ブロルは立ち上がり、視線を空に投げたままそう語り掛けた。頭上の光と耳慣れない音が作り出した幻覚なのか、側にエイロンが立っているような気がしたのだ。返事は聞こえなくても構わなかった。
「こんなに輝いているもの、初めて見た。とても眩しく見えるのは、僕の目がおかしいのかな」
そう言って少し細めた目から、涙が頬を伝い落ちていった。
「……違うね。消えてしまったみんなのことを想うから、眩しく見えるんだ。オーサンにセルマに、エイロン。僕は忘れないよ。ありがとう」
ブロルは頬を拭い、微笑んだ。
「ガベリアが甦って、本当に良かった。だってそうじゃないと、僕が出会った素敵な魔導師たちは、まだ闇の中を巡っていたかもしれないでしょ? 今は大丈夫だよ。顔を見れば分かる。
僕はみんなより寿命が短いけど、少しでも長く、リスカスのこれからを見ていたいな。カイやルースや、他の沢山の人たちがリスカスを変えようとしているなら、きっと良くなるって信じているから。僕もそれを手助けしたい。そして全部を見届けたら、胸を張ってエイロンに会いに行く。待っていてね」
空に轟き鼓膜を揺らす音の合間に、ブロルは優しいエイロンの声を聞いた気がした。楽しみにしているよ、と。
ブロルはそれから、じっと空を見上げていた。絶え間なく上がり続けた花火は最後に煌々と夜空を埋め尽くし、祝福と鎮魂の静寂を残して消えていった。