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Ecphore―闇を巡る魔導師―  作者: 折谷 螢
四章 闇の果て
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81、慟哭

 西陽が眩しい時刻、中央病院の廊下をレナが必死に走っていた。彼女が飛び込んだ病室には医務官のバジスがいて、ベッドに眠るイーラの手首に触れて脈を取っている。彼はレナに顔を向け、静かにこう言った。


「まだ辛うじて脈は触れる。……側にいてやれ。他の仕事は俺が引き受けるから」


 レナは息を整えながら頷き、イーラの側に寄った。微かに手が震える。いつかこの日が来ると分かっていたのに、やはり冷静ではいられなかった。バジスは彼女の肩を叩き、部屋を出ていった。

 すっかり痩せてしまったイーラの顔を、西陽のオレンジ色が穏やかに照らす。レナはそっと彼女の手を握り、その微かな呼吸の音を聞き逃さぬよう、小さな声で名前を呼んだ。もう目覚めないのは分かっている。それでもせめて、最期は一人ではないということを伝えたかった。

 イーラの指先がほんの僅かに動いた。レナが驚いて顔を見ると、その目蓋がゆっくりと開くところだった。


「レナ……」


 吐息のような声がイーラの口から漏れる。レナは思わず身を乗り出し、彼女の手を強く握った。


「ここにいる。分かるか?」


「湿っぽいのは、お断りだ……」


 ぼんやりと漂っていたイーラの視線がレナの姿を捉え、その手を微かに握り返した。


「お前に見送られるのも、案外悪くないな……」


「そんなに喋ったら、苦しいだろ」


 レナの声が震え、目からは涙が溢れた。湿っぽいのは嫌だと言われても、刻一刻と近付く別れが彼女の胸を締め付ける。40年近くの宿敵で、仲間で、親友。イーラはかけがえのない存在だった。


「苦しくない。痛みも、恐怖もないよ。……笑って送ってくれ。唯一無二の、友人だろ」


 イーラは精一杯の笑顔を作り、そう言った。


「……分かったよ。先に行って、向こうで待ってろ。どうせ私の老い先も短い」


 レナは涙を拭い、イーラの手を両手で包み込む。そして、彼女の願い通り心から笑ってみせた。


「最後まで側にいるから、安心して眠ればいい。お前は本当に頑張ったよ、イーラ。私が褒めてやる」


「ありがとう、レナ」


 イーラは幸せそうな表情で、ゆっくりと目蓋を閉じる。彼女の最後の意地だったのか、それとも本当に幸せだったのか、その目から涙が落ちることはなかった。イーラの手から力が徐々に抜け、やがて、長く吐き出された息を最後に呼吸は止まった。


「イーラ……?」


 レナは何も考えられず、彼女の顔を見下ろしたまましばらく呆然としていた。それから、かき集めた理性で自分の役目を果たす。どれほど辛かろうと、そこに立ち会った医務官として、死亡確認は避けて通れなかった。

 震える手でイーラのくびに触れる。まだ体は温かいのに、そこに脈は無い。目蓋を引き上げると瞳孔が開いている。彼女の命は間違いなく、その体を離れていた。

 レナはナシルンを呼び寄せ、自警団長のウェイン宛てにこう吹き込んだ。


「たった今、私の前でイーラ・テンダルが息を引き取りました。安らかだったと思います。各隊の隊長にも伝えて下さい……」


 ナシルンを飛ばしてから、レナはもう一度イーラの顔を見る。歳を重ねても痩せ衰えても、かつて自警団一とうたわれた彼女の美貌は失われていなかった。


「死に顔まで綺麗だなんて、驚くよ……」


 口にした言葉がじわじわとレナの理性を剥がしていく。今度こそ本当に、その目が開くことも口が動くこともない。どんな魔術でも変えることの出来ない現実が、彼女の胸を裂く。

 レナは一度、窓の外に視線を遣った。西陽が目に刺さる。しかし、視界が曇るのはそのせいではない。自分の頬をいくつも伝い落ちる涙の理由は、レナにもちゃんと分かっていた。これからいつもと同じように訪れる夜に、そして再び巡って来る朝に、もうイーラはいないのだ、と。


「……っ」


 彼女は膝から床に崩れ落ち、イーラのベッドにしがみつくようにして慟哭どうこくした。





 夕食のトレーには赤ワインの小さなゴブレットが添えられていた。亡くなった仲間をいたむ、自警団の慣習だ。

 カイたちは自然と、同期で集まってテーブルに着いていた。空気は重い。全員、朝には雪玉を投げ合って笑っていたのに、今はイーラの死という事実に打ちひしがれていた。


「……シンシアは?」


 カイが尋ねた。テーブルには彼女の姿がない。


「もう少ししたら来ると思う。ずっと泣いててさ……」


 フィルが憔悴した顔で言った。彼も余程泣いたのだろうか、まだ微かに目が赤かった。


「辛いよね。シンシアはイーラ隊長のこと、すごく尊敬してたし」


 レフが同情を込めてそう言ったとき、人影がすっと彼の後ろに立った。一瞬誰か分からないほど目蓋の腫れ上がったシンシアだった。食欲はあるのか、しっかり食事のトレーは持っている。


「そうだよ。第二隊としては失格なんだけど、泣かずにはいられないんだよぅ……。クロエ、この目、治して。……うぅ、こんな顔、私の美意識に反する」


 かすれた鼻声で言い、彼女はクロエの隣に座るルイスを押し遣ってそこに収まった。意外と元気そうだな、とカイは思う。


「分かった。こっち向いて、ほら」


 クロエが彼女の目蓋に触れると、あっという間に腫れは引いていた。シンシアは何度か目をしばたき、ぱっと表情を明るくした。


「すごい、ありがと! さすがだね。フィルはお手上げだったのに」


「治しても治してもすぐに泣くからだろ。簡単な治療は出来るけど、俺、医務官じゃないし」


 フィルは呆れたように言ったが、シンシアがいつもの調子に戻ったので安心したようだった。


「揃ったなら、これ、捧げようか」


 彼は杯を手に取り、同期たちを見回した。全員が頷き、同じように杯を手に取る。


「イーラ隊長のために」


 フィルの言葉を唱和して、各々が中身を飲み干した。


「……もう成人するまで飲みたくないよ、お酒なんて」


 シンシアがぽつりと呟いた。その言葉の意味は全員が良く分かっている。未成年である彼らが酒を飲むのは、自警団の仲間が亡くなった時だけだからだ。


「でも、成人したらみんなでバル(飲み屋)で騒ごう。誰も欠けちゃダメだよ。一人も。私、同期のみんなで楽しみたいんだから……、うぅ……うぇ……っ」


「目、また腫れるぞ。これやるから泣き止めよ」


 カイは自分の皿からデザートのイチゴを取って、シンシアの皿に乗せた。イチゴはごくまれにしか付かない貴重品だが、自分も以前にオーサンのことで仲間に慰められている。このくらい何でもないことだった。


「え、くれるの?」


 シンシアはすぐに泣き止む。彼女は痩せの大食いで、何よりも食べることが大好きなのだ。


「私もあげる」


 クロエもイチゴを彼女の皿に乗せる。結局全員の分を貰って、シンシアはにこにこしながらそれを頬張った。カイがぷっと吹き出し、空気が和やかになる。


(辛いことばかりではやっていけない、か……)


 カイは今朝、シンシアに言われた言葉を思い出していた。本当にその通りだと思う。この先を生きていかねばならないなら、どんな些細なことでも、笑顔でいられる時間は大切にしていきたい。


「カイって、本当によく笑うようになったね」


 レフがじっとカイの顔を見た。


「そうか?」


「うん。絶対にそっちの方がいいよ。後輩も話し掛けやすいと思う」


「後輩、って?」


「だって僕ら、あと数ヶ月で魔導師二年目だよ。部下が出来るんだから、それなりに心構えが必要だぞってブライアン隊長に言われた。ね?」


 レフがルイスに同意を求めると、彼は頷いた。


「来年の新人は、本部の方に多めに配属になるって話だった。第一隊にも二人くらい入るかもしれないぞ。ちゃんと面倒見てやれよ、カイ」


「あー……」


 カイはまだ、スタミシア支部に異動することを同期に話していなかった。とはいえ別に隠したいことではない。この機会に、話すことにした。


「俺、来年度はスタミシア支部に移るんだ。家があるのは向こうだし、母親と一緒に暮らそうと思って」


「えっ、本当に?」


 クロエが驚きの声を上げる。心なしか嬉しそうに聞こえたのは気のせいではないだろう。彼女はカイの母親がずっと入院していたことを知っている。一緒に暮らすということは、退院出来るということだからだ。


「うん。もう副隊長の許可も貰ってる」


「えー、寂しいなぁ。でも、場所が変わるだけだもんね。同期なのは変わらないか」


 イチゴの果汁が付いた口元をハンカチで拭いながら、シンシアが言った。


「カイみたいに生意気ならどこでも大丈夫だろ。そういえばクロエも、来年度からは研修だよな?」


 フィルが尋ねると、クロエは頷いた。


「そう。二年間、住み込みで各地の病院を回るんだ。本部に戻るのはそれからになる。もしかするとそのままスタミシア支部とか、……復活してたらガベリア支部に異動になるかもしれないけどね」


 背後で微かに「えっ」という声がして、カイは振り返る。そして、足早に去っていくフローレンスの後ろ姿を見たのだった。

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