77、後片付け
号外が配られた日の翌朝、ルースはロイ・エランの日記帳を手にスタミシアの北3区に来ていた。彼の父との約束を果たしにきたのだ。
長閑な田園風景は以前とさほど変わらないが、この時期はほぼ収穫を終えたのか、広がる畑に茶色の面積が増えている。
「スタミシアの南の方では一年中作物が採れますが、北3区はこれから農閑期ですね。ほら、この青い花。これの咲く頃が大体その時期なんです」
ルースの隣を歩きながら道端の花を指差すのは、頭部に銃撃を受けてつい先日まで入院していた獄所台の刑務官、ロイ・エランことロイ・ハリスだった。今は私服姿で、頭に巻かれていた痛々しい包帯もなく、凛々しいその顔がはっきりと見て取れた。
「詳しいんですね」
ルースが感心すると、ロイは彼に笑いかけた。
「私の実家も農家なんですよ。南15区で大豆を作っています」
「南15区……、僕の部下もそこの出身です」
「あなたの部下というと、カイ・ロートリアン君?」
ルースは少し目を見開いた。
「カイを知っているんですか?」
「正確に言うと、彼の父、ベイジル・ロートリアンさんを。同郷ですからね。私の3つか4つ上で、初等学校も同じでした」
ロイは遠い記憶を辿っているかのように、視線を宙に漂わせながら続けた。
「当時、初等学校はベイジルさんが高等魔術学院に入ったという話で盛り上がっていました。何せ、その学校から魔導師候補が出るなんて15年振りだとかで。彼が自警団のスタミシア第七隊に入って、制服姿で学校に現れたときはお祭り騒ぎでしたよ。私も見たんですが、あの姿は格好良かったな」
そう言って微笑んだ。カイが聞いたら喜ぶだろうなと思い、ルースも少し笑った。
「魔導師だったエランに助けられた経験のせいもありますけど、ベイジルさんのあの姿を見たから魔導師に憧れたっていうのもあります。
本当に……彼がクーデターで亡くなるなんて思いもしなかったし、エランの不自然な異動も死も、全てそれと繋がっていたなんて驚きました。号外を読んだときは辛かった。しかしどんなに苦しい真実でも、明らかになって良かったことには間違いない。あなた方には何とお礼を言えばいいのか」
「僕らは自警団として当然のことをしただけです。それに、あなたにとってのロイ・エランさんのように、僕らの大切な人もセレスタ・ガイルスの犠牲になっていたわけですから……」
ルースは手にした日記帳に視線を落とした。頭に浮かぶのはエイロンの姿だ。
「悪意と不正の渦に巻き込まれながら、正しさを捨てずに真実を伝えようとしていた人たちがいた。彼らがいたからここまで来られたんだと思います」
そう言って顔を上げた。少しだけ滲んだ視界の向こうに、ロイ・エランの実家が見える。以前と同じく、質素な煉瓦造りの家の前で放し飼いにされた鶏が餌をついばんでいた。
不意に、玄関の扉が開いた。バケツを手にしたロイ・エランの父、デニスがそこから出てくる。二人の姿に気付いた彼は、バケツを地面に投げ置いてこちらへと駆けてきた。
「ロディ……。お前さん、どうしてここに?」
デニスはロイの腕を掴み、目にじわりと涙を浮かべた。
「お久しぶりです、おじさん。あなたに会いたくて来ました」
ロイが微笑むと、デニスは大きく頷きながら言った。
「俺だってな、そう思ってたところだ。号外、読んだぞ。ロイは……やっぱり、自殺なんかじゃなかったな。あの子は立派だった。正しい魔導師だったなぁ? そうだろ、ロディ」
そして大粒の涙を溢し、ロイを抱き締めた。
「ありがとう、ありがとな。本当のことが分かって、俺もやっと救われた。かわいいロディ坊やが頑張ってくれたおかげだ」
「私だけの力ではありませんよ、おじさん。自警団も協力してくれました」
ロイは照れ笑いしながらルースに顔を向けた。デニスはそこでやっとルースの存在に気付いたかのように、じっと彼を見つめた。
「ああ、お前さん。この間の若いのか!」
「はい。約束通り、こちらをお返ししに来ました」
ルースが日記帳を差し出すと、デニスは感極まったのか、ルースのことも強く抱き締めたのだった。
「ありがとな、若いの。その日記、ちゃんと役立ててくれたんだな。お前さんも立派な魔導師だよ。ロイの代わりに礼を言わせてくれ。ありがとう」
「いいえ、こちらこそ」
ルースの顔には自然と笑みが浮かぶ。魔導師になって何年経っても、やはり市民からのありがとうの言葉は嬉しいものだ。隣で、ロイが静かに目元を拭っていた。
それから三人は、同じ区内にある墓地へ向かった。ルースはロイ・エランの墓石に花を供え、目を閉じて祈りを捧げる。彼が遺したもので9年前と今が繋がり、セレスタ・ガイルスを裁くことが出来た。その感謝と、同じ魔導師としての尊敬を込めて。
ロイもその横で静かに祈りを捧げ、二人は立ち上がった。
「ロディ、これからどうするんだ。獄所台に帰っちまうのか? もうあそこにいる理由はねえだろ」
デニスが言った。確かに、ロイが獄所台を目指したのはロイ・エランの死の真相を探るためだった。目的は達したから、今後もそこにいる必要はないのだ。
「はい。でも、おじさん。私はこれからもあそこで働きますよ。実力で選ばれたわけだし、リスカスの平和のためには必要な仕事ですから。やりがいも感じているんです。ただ名前は……ロイ・ハリスに戻そうかな」
ロイは微笑んだ。
「おう。お前さんがそうしたいなら、俺は止めねえ。ただよ、くれぐれも死なないでくれな。手紙も書いてくれ。たまには会いに来い」
少し涙ぐみながらデニスが言う。ロイは彼の肩を叩き、頷いた。
「もちろんですよ。おじさんは私の家族と同じだと思っていますから」
それからロイはルースに向き直り、握手の手を差し出した。
「ルース副隊長。獄所台と自警団という組織の性質上、今後もあなたと親しくすることは出来ないのですが……。知り合えて良かったです。それぞれの場所で、魔導師として全力を尽くしましょう」
ルースはその手を取り、決意を胸に言った。
「ええ。犠牲になった、全ての魔導師たちの分も」
「このくらいで足りるよな……」
昼下がりの穏やかな時刻、カイは隊舎の一室にいた。その腕には空の木箱を二つ重ねて抱えている。
「流石に四つあれば足りるだろ。俺たち、自警団に入ったときなんてほとんど荷物無かったんだから」
フィルも同じように木箱を二つ抱えていた。彼らはそれを床に置き、部屋の中を見回した。床に脱ぎ捨てられたままのシャツ、ごちゃごちゃした机の上。生活感の溢れるこの場所に、もう主はいない。ずきりと胸が痛んだ。
そこはオーサンの部屋だった。いつまでもそのままにしておくわけにはいかず、片付けて、荷物を父であるラシュカに渡さなければならないのだ。
「……さっき、クロエも手伝うって言ってくれたんだけどさ」
床のシャツを拾い上げながら、カイが切り出した。
「年頃の男子の部屋だから、俺たちに任せておけって言っておいた。変なものが出てきたら困るだろ?」
「変なものって何だよ」
思わずフィルが笑った。
「例えば……、まあいいだろ。始めようぜ」
カイはシャツをばさばさと振って魔術で皺を伸ばすと、綺麗に畳んで木箱に仕舞った。
「カイって几帳面だよな。オーサンとは真逆だけど、仲良く出来てたのが不思議だ。入学早々に言い争ってるのを見たときは、この人たち絶対合わないと思ったんだけど」
フィルはそう言って、机の上の片付けに取り掛かった。
「言い争ってたわけじゃない。教官の見てないところでオーサンがレフを泣かせてたから、何やってんだって注意しただけだ」
その日のことはカイもよく覚えている。気の弱いレフを言葉で脅すオーサンの第一印象が、最悪だったことも。
「フィルは寮で同室だったろ。最初、オーサンのこと怖くなかったのか?」
「んー、そうでもないかな。お互いに干渉はしないって感じだったから。初日は自分の名前と、よろしく、くらいしか話してない」
「へえ……。というか、知ってたか? オーサンが俺らより二つ年上だって」
「うん。最初から何となく大人びてるとは感じてたし、それとなく聞いたら答えてくれたし。悪い人じゃないってのは分かってたよ」
フィルは机の上の写真立てを手に取り、懐かしそうに眺めた。学院を卒業するときに撮った集合写真だ。
「意外と真面目で、パパのことが大好きで、友達思いの人だった。たまに嗜虐癖が出てくるのが怖いとこだけど、それがあったからオーサンは矯正院に入れられて、学年がずれて、俺たちと同期になったんだよな……」
その語尾が震えていた。カイは片付けの手を止めてフィルを見る。彼の美しい横顔に、涙が一筋光っていた。
「フィル……」
「ごめん。やっぱり二年間も一番近くで過ごしてたからさ。こんな形でオーサンの部屋を片付けなきゃならないのは、辛い。それに、ようやく落ち着いて悼めると思うと気が抜けちゃって……」
フィルは写真立てを机に戻すと、両手で顔を覆って俯いた。嗚咽が漏れ、肩が小さく震える。今まで目にしたことのない彼の本気の泣き方に、カイは思わず側へ寄って背中に手を置いた。
その時だ。部屋のドアがノックもなしに開けられた。入口を塞ぐくらいの大柄な人物が、やかましく足音を立てて部屋に入ってくる。
「なんだお前ら、まだ終わってないのか」
第三隊長のフィズだった。彼は泣き顔のフィルに目を遣ると、ずいと手を伸ばし、その首をへし折る勢いで頭を撫で回した。
「仲間がいなくなりゃ誰だって悲しいもんだ。お前らなんてまだまだクソガキなんだから、びーびー喚いててもおかしくねえよ。あ? お前もいつもは生意気なくせに泣いてんのか」
そう言って、少し涙ぐんでいたカイの頭も撫で回したのだった。
「しかし、今だけだぞ。あと数ヵ月もすりゃ新しく後輩が入ってくる。お前らも魔導師二年目だ。しゃんとしてもらわなきゃ困る。……おら、さっさと片付けに取り掛かれ。俺が魔術で片付けてもいいが、友達にやってもらったほうがオーサンも嬉しいだろ。めんどくせえ奴だからな」
フィズは二人の背中をばしっと叩き、部屋を出ていった。嵐のような人だ。カイとフィルはお互いのぼさぼさ頭を見て、ぷっと吹き出した。
「励ましてくれたのか、フィズ隊長なりに」
フィルが言った。彼に笑顔が戻ったので、カイは少しほっとする。このまま暗い気持ちで片付けを進めるのは辛い。
「雑だけどな。よし、外が暗くなる前には終わらせよう。あんまり遅くなるとクロエが心配して来るかもしれない」
「確かに。……そういえばさ、カイ」
フィルは真面目な顔付きになった。
「ん?」
「クロエとオーサンって、お互いに想い合ってたのかな。どう思う?」