76、我慢
朝の澄んだ風が臙脂色の外套を揺らす。エディトは近衛団本部の屋上で一人、キペルの街並みを見下ろしていた。衝撃的な号外が配られたとはいえ、街で大きな混乱は起きていないと報告を受けている。ただ、こっそりと街に出てみれば自分への批判が聞こえてくるのだろうと思う。団長としてセレスタの悪事を止められなかった責任は重い。
空は快晴で、夜の間にうっすら積もった雪もほぼ溶けていた。色取り取りの屋根、点々と存在する緑、煉瓦色の小路……見慣れた景色がそこにある。しかしそこで営まれる人々の普通の生活を、エディトは何も知らなかった。
(人から隔絶されて育つと、分からないことが多くて困りますね、イプタ……)
エディトは心の中でイプタに呼び掛ける。イプタはかつて、こう言っていたのだ。
――夢に見ることがあります。私が巫女ではなく、リスカスに住む一人の少女であったならと。
同じことを、子供の頃のエディトは何度も何度も考えていた。自分が特別な血を引く人間などではなく、ただの少女であったなら……。
ユーブレアの家に生まれ、物心付く前からその役割を説かれて育った。もし魔力が無かったら、などということは配慮されていなかったようだ。エディトは何十年も近衛団長候補を輩出していなかったユーブレア家の、唯一の希望。彼女に魔力が無いなどということは許されなかった。
しかし、6歳になってもエディトの魔力は発現しなかった。7歳までに発現しなければ、その子に魔力は無い――リスカスでの常識が、周囲に彼女を追い詰めさせた。
エディトは小鳥を二羽飼っていた。青と黄色の小鳥で、屋敷から出してもらえない彼女にとっては唯一の友達だ。青いリールと黄色のイオ。今でも名前を覚えている。
エディトには何人か家庭教師がいた。その一人が、ジェフ・レインソンという魔導師の男だ。冷徹で厳しい人だが、その奥にある優しさを感じ取っていたから、彼女はジェフが嫌いではなかった。
ジェフはある日、エディトを連れ、小鳥たちの鳥籠を持って森へ入った。
「先生、ここで何をするの?」
手を引かれながら幼いエディトは尋ねた。ジェフは何も答えない。少し開けた場所に出ると、そこには子供が座って休めるくらいの大きな石がいくつか転がっていた。ジェフは鳥籠を地面に置くと、エディトを素早く近くの木に縛り付けた。それから膝を着いて彼女に目線を合わせ、諭すように言った。
「いいかい、エディト。君には何としても魔力を持ってもらわねばならないんだ。君に魔力が無ければ、ユーブレアの家は王族と巫女に報いることが出来ない。つまり使命を果たせない。分かるかな。これはとても大切なことなんだ」
「し、使命があるのは分かってるよ。でも、私には魔力が無いもん。先生の言う通りにしたって、何も出来なかったでしょ。きっとこれからだって同じだよ。ロープをほどいて、先生。どうしてこんなことするの?」
エディトは突然の状況に混乱し、泣きながら訴えた。
「魔力が無いのは悪いことなの? 私は絶対に、魔導師にならなくちゃいけないの?」
「他の人なら何も問題はない。しかし、君は許されない。君は近衛団長にならなければいけない。……こんな賭けのようなことは私もしたくないが、許してくれ」
ジェフは苦痛の滲む顔で彼女の側を離れ、鳥籠の中からリールを取り出し、地面に転がる平らな石の上に置いた。リールはそこに置かれたまま動かない。魔術で動きを封じているようだ。ジェフは横にあった大きめの石を両手で掴むと、それをゆっくりとリールの上に持ち上げた。
「何するの……」
エディトは総毛立つような恐怖を感じた。彼が何をする気なのか、分かってしまったのだ。
「先生、やめて! やめてっ!」
「魔術を使えば助けられる」
ジェフはそう言って、石を掴んでいる手をぱっと離した。エディトの悲鳴に続いて、ゴツンという鈍い音が森に響く。鳥籠のイオが、飛び回って騒がしく鳴いた。
「あ……あ……」
エディトは言葉も出せず、ジェフがさっき落とした石を持ち上げるのを見ていた。リールだったものが、平らな石の上で無惨な姿を晒していた。
「もう一度言う。魔術を使えば助けられるんだ」
ジェフは鳥籠からイオを取り出し、リールの血で汚れた石の上にそれを置いた。
エディトは荒い呼吸をしながら、言葉を絞り出そうとする。やめて、殺さないで……。声が出ない。身をよじってもロープはほどけない。ジェフがゆっくりと石を持ち上げ、気が狂いそうになるその寸前、彼女の頭の中で何かが弾ける音がした。
その瞬間に魔力が発現したのだ。ジェフが手にした石は粉々になって飛び散り、イオは無事だった。エディトは気を失い、その後のことは覚えていない。
それからの日々は地獄だった。屋敷の離れに閉じ込められて魔術の英才教育が始まり、思い出したくもない苛烈な訓練で何度も死にかけた。今でも痛覚が鈍いのはそのせいかもしれない。ああ、そうかとエディトは思う。だからきっと、クーデターで右肩にめり込んだ銃弾を自分で抉り出すなんて真似ができたのだ。
「まともな人間になれる気がしない」
思わずそう呟いていた。自分で近衛団を去ると決めたのに、ここ以外に居場所があるのかと問われればすぐには答えられない。勇み足だったろうか。もう少し慎重に――
「誰のことですか」
背後からの声に振り向くと、そこにレンドルが立っていた。彼はエディトの横に並び、街を見下ろした。
「家探しでもしていましたか?」
「そうですね。でも住むなら、ガベリアにしますよ」
エディトは遠くを見ながら答えた。たった今、思い付いたことだ。
「なぜガベリアに」
「あそこを、本当の意味で甦らせる手伝いが出来ればいいと思っています。近衛団を辞めたからといって、魔力が無くなるわけではないですし」
「……今思い付きましたね?」
レンドルに図星を指され、エディトは彼に顔を向けた。視線が絡み合い、どちらからともなく笑った。
「君には分かってしまいますか。ええ、そうですよ。近衛団を辞めた後のことは深く考えていませんでした」
エディトは小さく息を吐いた。
「でも、どうにかなると思っているわけでもありません。知っての通り、私には一切の生活力がありませんからね。お湯を沸かすくらいしか出来ません。買い物にしても、何をどこで、どのくらい買えばいいのか一つも分からないのですから。その辺の子供の方が私よりはちゃんとしています」
「向こう見ずですね。そんな状態で辞めるつもりだったんですか?」
「後のことを考えて進退を決めたわけではありません。辞めなければならないから、辞める。君も分かっているはずです。そろそろ認めてもらえませんか」
エディトが真剣な眼差しを向けた。近衛団を辞めると初めてレンドルに話したとき、彼は考えさせて欲しいと言って、今日まで話を保留していたのだ。
レンドルは同じくらい真剣な目で見つめ返し、言った。
「認めますよ。私の出す条件を飲んでもらえるなら」
「どんな条件でしょう」
到底飲めないような条件を出してくるのかと思ったエディトだが、レンドルはゆっくり瞬いてから、こう言った。
「私の妻になって下さい。それだけです」
「……本気ですか」
エディトが微かに目を見開いた。
「本気です。覚えていませんか? ガベリアが甦ってあなたが目を覚ましたとき、私は言いましたよ。あなたを愛していますと」
「あ……」
エディトは覚えていた。そして自分が何と答えたかも。「私も、です」。確かにそう言った。急激に顔が熱くなる。エディトはたじろいだように何歩か後退り、微かに頬を赤くしてレンドルを見た。
「自分の言葉には責任を持ちます。ですが、妻というのは話が飛躍しすぎでは」
「どこが。愛しているから、この先も家族としてずっと一緒にいたいと言うのはおかしいですか?」
レンドルが少し熱を込めた口調で言う。エディトの目にじわりと、涙が浮かんだ。答えなら既に出ている。この先も一緒にいたいという気持ちは、同じなのだ。
「……本当に、私でいいんですか」
「あなたでなければならないんです、エディト」
レンドルはそう言うと、彼女に一歩近付いてその身体を強く抱き寄せた。エディトはその腕の中で、小さく笑った。
「苦しいのですが」
「このくらい我慢して下さい。私はもっと我慢しているんだから」
「何の――」
「ああもう、黙って」
レンドルが今までになく焦った声で言い、エディトの頭に手を添えて自分の胸に押し付けた。王宮のすぐ側で不敬な真似をしそうになる自分を抑えるには、彼女の顔を見ないようにするしかない。
「私も結構な歳ですが、男なんです。……分からないなら、あなたが団長を辞めた後に全部教えますよ」
「それは覚悟が必要ですね。お手柔らかにお願いしたいところです」
「意味、分かった上で言っていますか?」
エディトはふふっと笑いを溢した。
「どうでしょうか。とりあえず、君の頭の中は不敬なことでいっぱいだ。私は逃げます」
次の瞬間、臙脂色の外套がレンドルの目の前で翻った。そして一秒と数える間に、エディトの姿は忽然と消えていたのだった。屋上の縁から飛び下りて逃げたのだろう。魔導師なら何でもないことだ。
「分かっているのか」
レンドルは一人でぷっと吹き出した。エディトが男女の機微をちゃんと理解していたことが意外だったし、こんな場面で逃げるという選択をしたことも新鮮で面白かったのだ。
「さて……」
彼は深呼吸をして真顔に戻った。部下に腑抜けた顔を見せるわけにはいかないし、今はまだ、エディトは団長で自分は副団長という立場にある。彼女と私的な関係になれるのは、もう少し先のことになりそうだ。
たぶん今が人生で一番我慢を強いられるところだなと思いながら、レンドルは屋上を後にした。




