72、木箱の中
「……っ!」
エディトは激しい動悸を感じつつ、アークの記憶の中から現実に戻ってきた。記憶の量が膨大で酔うかもしれないと言われていたが、この動悸は酔ったためではない。覚悟して見たとはいえ、セレスタのあられもない罪の数々、その真相が胸を掻き乱したのだ。
エイロンは自らの意思でタユラを殺したのではなかった。最後の最後までセレスタに利用され、それでも真相を伝えようともがき、今ここへ繋がった。彼の長い苦しみがようやく報われたのだと思うと、冷静ではいられなかった。
動悸がまだ収まらぬまま、エディトは目の前に無表情で座るアークに視線を向けた。
「総監、……既に国法院の返答はあったのですか」
「ああ、非常に速やかに。彼らにとってセレスタ・ガイルスは、もはやリスカスに存在してはならない人間だ。国法院は『特例として死刑を認める』と返答した」
予想した答えではあった。国王をその組織の長とする国法院が、王族に対するクーデターを企てた人間を許すはずがない。それに、刑の執行を獄所台に丸投げ出来るとあれば、否決する理由がないのだ。
「……獄所台の判決は」
エディトの問いに、アークはじっと彼女の目を見ながら答えた。
「全会一致で、死刑だ」
「そう……ですか……」
掠れた声で呟き、エディトは床に視線を落とした。動悸がすっと静まり、肩の力が抜けていく。セレスタ・ガイルスは死刑。多くの罪なき人々を好奇心から死に追いやった悪人、いや、悪そのもの。当然の帰結だ。
しかし、200年振りに執行される死刑がリスカスを大いに揺るがすものになることは必至だった。エディトは顔を上げ、やはり無表情のままでいるアークに尋ねた。
「死刑は、総監が執行なさると仰っていましたが」
「そうだ。だがあなたは、詳細を知らぬ方がいいだろう。これは獄所台の中で完結すべきことだ。セレスタ・ガイルスの死の責任は、執行人である私以外が負うものではない」
その突き放した返答の中に、エディトはアークの覚悟を感じた。魔導師でありながら人命を奪うという究極の矛盾を、彼は一人で請け負うつもりでいるのだ。エディトを見据える彼の目は、何も言うなと語っていた。
「……分かりました。セレスタの死刑については、公表されるのでしょうか」
少しだけ震える声で、エディトは尋ねた。
「執行後に公表されることになる。セレスタ・ガイルスの犯した全ての罪と共に。これは国法院の決定だ。今後、王族へのクーデターを企てようとする者への抑止力になると考えているらしい」
アークは淡々と答える。
「真相が公表されれば、残念ながら近衛団への批判は避けられないだろう。これほどの大罪人を長年、団長として据えてしまっていたのだから。だがそれは内実を知らぬ者の戯言だ。聞き流すつもりで構わない」
「ええ、覚悟しています。その責任は私が取るつもりです」
エディトはきっぱりと言い切った。ここで初めて、アークの表情に驚きが浮かんだ。
「責任を取る、とは」
「近衛団長の座を辞し、近衛団からも離れます」
「……批判の声などいずれ小さくなっていくものだ。あなた方は文字通り、自らの命を懸けてリスカスを守った。その事実があるのだから、堂々としているべきなのでは」
エディトはふっと息を吐き、表情を和らげた。
「ここが私の引き際なのです、総監。責任を取るためというのは建前で、本当は以前からこの立場を退こうと思っていました」
「引き際……。その言葉を使うにはずいぶん若いようだが、理由を聞いても構わないか」
「はい。近衛団長に最も必要とされるものが、今の私には無いからです。全てを捨てて王族に仕えるという覚悟が。……同じく組織の長として、総監にお尋ねしたいのです。その立場に相応しくない者は去るべきだと思いませんか」
「答えは一つしかない。去るべきだ」
にべもない答えが返ってくる。獄所台総監という立場の彼からすれば自明の理で、悩む必要すらないほどのことだった。
エディトは微笑み、姿勢を正した。
「総監にお尋ねして良かったです。心は決まりました」
「私は獄所台のこと以外に口を挟むつもりはない。あなたの決定を尊重しよう。……さて」
心なしか表情を和らげたように見えるアークは、部屋の扉にさっと手を翳した。鍵と、声が漏れないようにしていた魔術を解いたのだろう。
「バーナード、中へ」
アークが声を掛けると、外に待たせていたらしい獄所台の魔導師が部屋に入ってきた。彼はその腕に黒い木箱を抱えていた。30センチ四方くらいの大きさで、蓋の部分には美しい花の彫刻が施されている。
バーナードはその木箱をそっとエディトの前のテーブルに置き、アークの後ろに控えた。
「これは……?」
エディトは困惑した視線をアークに向ける。審理の内容を知った後であるから、そこに何が入っているのか想像出来ないわけではない。しかし。
「エイロン・ダイスの遺骨だ」
アークの言葉にエディトは胸を抉られた。火葬が行われることのないリスカスで、遺骨という言葉は一般的ではない。故人は棺に納められて土に還っていき、骨になった姿を見ることなどないのだ。こうして目の前に骨があること自体、衝撃だった。
「……こんな小さな箱に収まってしまうのですね」
声が震えるのはどうしようもなかった。
「審理の結果、エイロン・ダイスの遺骨は彼の家族に等しい少年、ブロルに渡されることになった。望むのであれば墓を建てることも、そこに名を刻むことも許可する。ただし墓の場所は十分な検討が必要だ。荒らされないように。ガイルスに利用されたとはいえ、悪夢の原因となった彼を許せない人間も多少は存在する。
そしてその前に、あなたには酷なことだが中を確認してもらわねばならない。空の箱を渡すわけにはいかないのでな。……大丈夫か?」
アークが気遣うように尋ねる。
「はい。確認します」
エディトは深呼吸してから、木箱の蓋を止めていた金具を外した。それから、蓋を細く開けて中を覗く。沈黙。彼女は唇を噛み、そっと蓋を閉じた。
「確かに、入っていますね。これは私が責任を持ってブロルに渡します」
言葉は冷静だが、視線は木箱に止まったまま動かなかった。
「……よろしい。では、私はこれで失礼しよう。伝えるべきことは伝えた。死刑について公表する前に、また改めて連絡するつもりだ。これから自警団へ向かい、団長ウェイン・アーマンにも同様の説明をする」
アークは立ち上がったが、エディトはソファに座ったままじっと木箱を見つめている。彼はそれを咎めようとはせず、バーナードを連れて静かに部屋を出ていった。
「エイロン……」
エディトの震える指先が木箱の蓋を撫でた。誰もいない部屋で、瞳から溢れ出すものはもう止めようがなかった。
「終わりましたよ……。これであなたの無念を晴らせましたか? もう苦しまずに、眠れるでしょうか……」
問い掛けてみたところで何も聞こえない。彼女の口から漏れる嗚咽以外は。
「う……、うぅ……」
エディトは両手で顔を覆い、胸が裂かれるような痛みに身を縮めた。ここで大きな声を出せば廊下にまで聞こえてしまうと分かっていても、吐き出さなければその痛みで窒息してしまいそうだった。
二度、三度とエディトは絶叫した。その後、耳鳴りがしそうなほどの沈黙が部屋に流れる。彼女は荒く呼吸をしながら、震える体を自分の腕で抱き締めて何とか理性を保った。
部屋の扉が静かに開く。レンドルが入ってきて、扉の鍵を閉めた。彼はエディトの隣に腰を下ろし、木箱に目を遣る。中が何なのかは聞かなくても分かっている。
レンドルはそっとエディトの肩を抱き寄せ、何も言わず、彼女と同じようにその瞳から雫を溢した。