68、地獄か大地獄
カイがブラウン乳児院から飛ばしたナシルンは、第二隊の一室で書類整理に当たっていたフィルの元へ届いた。彼はメッセージを聞き取り、思わず「えっ」と言葉を漏らす。
カイ曰く、セオが乳児院から妹を引き取るために、デマン家の主人に力添えを願えないかということだった。その説得をフィルに頼みたいのだという。
「俺が……?」
他の隊員が行くよりは説得しやすい、とカイは踏んでいるようだった。確かに、一度は従者として仕えた身だ。カイは主人に、フィルはその妻に結構好かれている。
カイもずいぶんとずる賢くなったなと思いながら、フィルはエスカに許可を貰いに行った。
「好きにしたらいい。デマン家のことはカイに任せてある。将来、あいつの義理の実家になるかもしれないしな」
エスカはそう言ってにやりと笑うのだった。
かくしてフィルはデマン家を訪れ、主人のジェイコブ・デマンに事の詳細を説明した。
「……というのが、カイからの伝言になります。差し出がましいのですが、私個人としても、セオには幸せに過ごして貰いたいと思っております」
「ああ、そんなにかしこまらないでくれ。君たちは我々の恩人だよ。それにセオはとてもいい子だ……」
ジェイコブは顎を触ってしばらく考えてから、微笑みを見せた。
「この家には部屋も余っているし、必要なら乳母を雇う余裕だってある。子供が一人増えるくらいどうにでもなるだろうさ。是非、うちへ連れてきなさい」
「ありがとうございます、ご主人様」
快諾を得て、フィルは胸を撫で下ろした。
「いやいや。セオの父親であるデリック・ランブル、彼の代理人がね、昨日私の所へ来たのだよ」
ジェイコブは真面目な顔になり、そう言った。ランブル家と、彼らが経営するランブル社の人間は、セレスタの屋敷で栽培されていたメニ草の売買絡みでかなりの数が獄所台へ送られていた。
ランブル社はリスカスで暖炉の燃料に使われるストロコークスの7割を扱う会社だ。そこが倒産するとリスカスの人間は今までのように燃料が手に入らず、大混乱に陥る可能性がある。キペルは特に、これからが最も寒い季節だ。早急に手を打つ必要があるのだが、そこは自警団の管轄外だった。
「ランブル社を我がデマン商会の傘下に入れて、罪のない従業員を救ってくれないかとね。デリックにまだ人の心が残っていたのが幸いだ。セオやその母親に対する謝罪も聞いたし、どうかセオを幸せにしてやってほしいとも頼まれた。だから、私はその話を受けることにしたよ。
忙しくはなるだろうが、その分利益も増える。こう見えて私は現実主義なのだよ、フィル。これから使用人を増やすかもしれないし、レンダーの給料も上げなくてはならないしね。無給で働かせようとするなど、私も酷いことをしてしまったものだ……」
ファルンの機嫌を取るため、ジェイコブは彼の目論見に刃向かうレンダーを無給とする契約をしていたのだ。ファルンが確保されたことで、それも無効になった。
「ご主人様、確認なのですが。ファルン・ガイルスとフローシュお嬢様の婚約は、完全に無くなったものと考えてよろしいですか?」
フィルが尋ねると、ジェイコブは大きく頷いた。
「もちろんだよ、フィル。いずれ獄所台からは出てくるのだろうが、あんな男は今後一切、フローシュには近付けさせない。それにあの子は、もう心に決めた人がいるらしい」
「どなたでしょう?」
分かっていつつも、フィルは一応聞いてみた。
「実に勇敢な魔導師だそうだ。カイ・ロートリアンという名前だったかな? どこで知り合ったのだろうね。我が家にも一時期、似た名前の従者がいた気もするが……」
ジェイコブはそんな冗談を言って、愉快そうに笑うのだった。
カイはデイジーを抱いたセオと共に、乳児院の側にある墓地へ来ていた。先に立って歩く世話人のエマが、一つの墓石の前で立ち止まる。彼らの膝の高さくらいの四角い墓石には、クララ・アーバンの名前と『慈しみ深き母』の碑文が刻まれていた。
セオはその文字をじっと見て、涙を堪えるように少し唇を噛んだ。愛する母親は冷たい土の中。彼はもう二度と、その腕に抱かれることはないのだ。
セオに抱かれて眠っていたデイジーはあくびをしながら目を覚まし、地面に下りたいとぐずった。セオが下ろしてやると、そこが母の墓と分かっているのかいないのか、墓石にぺたぺたと手を触れて笑うのだった。
セオは墓石の前に跪き、冷たい石の表面にそっと指先を触れた。彼の美しい横顔と雲間から射した陽が、その光景を一枚の絵のように神々しく感じさせる。
「もう心配しなくていいからね、お母さん。僕は幸せだよ。こんなに可愛い妹に出逢えたんだから。デイジーは僕の命を懸けて大切にする。だからね……、天が全てを赦すように、僕はこの身に起きた全ての不幸を赦します。どうか安らかに眠れますように」
そう祈りを捧げ、セオは目を閉じて頭を垂れた。そして言葉にならない想いを全て届けるかのように、しばらくそのままでいた。カイもエマも、それをじっと見守っていた。
「テオ、おうち帰ろう!」
墓石を触ることに飽きたデイジーが、彼の腕を揺すった。セオは顔を上げ、優しい表情でそれに答えた。
「そっか、寒いよね。デイジーのおうちに帰ろうか」
「やだ。テオのおうち、帰ろう?」
デイジーは泣き出しそうな顔でそう言い、セオに抱き着いた。
「バイバイしない。やだ」
その光景にカイが目頭を熱くしたそのとき、嬉しい報せを乗せたナシルンが彼の肩に止まったのだった。
体調が回復したエディトは、いつものように近衛団本部の団長室にいた。時刻は正午の五分前。正午ちょうどに、獄所台から使者が来るはずなのだ――セレスタ・ガイルスの判決を携えて。
エディトは湯気の上がるカップを手に、出窓の枠に腰掛けた。以前に行儀が悪いとレンドルに窘められたが、今は一人だ。カップの中身を一口飲むと、少々刺激的な液体がすっと喉を通り抜け、体をじわりと温めた。昔、ベイジルが教えてくれた飲み物、ハニー・シュープスだった。
「もうすぐ終わりますよ……」
ベイジル、エイロン、チェルス……。エディトはかつての仲間たちの名を心の中で呼ぶ。セレスタによって命を奪われた者たち。どのような判決であれ、これで一つの区切りとなる。
部屋の扉がノックされた。エディトは空になったカップを机に置き、自らその扉を開けた。厳粛な雰囲気を纏う黒色の制服が、彼女の目に映る。
「お待ちしていました。獄所台総監自らが来られるとは、驚きました」
「これは自身の責任で行うべきことだ。……この部屋に盗聴の恐れはないか」
総監のアークは部屋の中を一瞥して確認した。それほど重要な話だということだ。
「もちろんです。誰かが私の目を掻い潜っているのなら別ですが」
「それはあるまい。いいだろう」
アークは部屋に入り、扉を閉める。魔術で鍵を掛け、更に声が漏れないようにしたようだった。
「……少しの間あなたを監禁状態にするわけだが、問題はないか?」
「はい。近衛団のことは副団長のレンドルに任せてありますので。お掛け下さい」
エディトは毅然と答え、応接用のソファにアークを案内した。彼らは向かい合って座り、アークは片手を、手の平を上にして彼女に差し出した。
「口で語るよりも確かだ。量が膨大であるが故、酔うかもしれないが」
そう言って、手の上に青白く発光する球体を浮かび上がらせる。記憶を他人に視せるための魔術だ。
「これがセレスタ・ガイルスの判決に関する、我々の審理の全てになる」
彼の言葉はどこまでも淡々としていて、そこから結果を推察することは出来なかった。
「拝見します」
エディトは迷うことなく、その球体に触れた。全ての真実は地獄か、大地獄か……そのどちらかでしかないのだから。