67、デイジー
雪のちらつく朝だった。獄所台での聴取を終えた翌日、カイは街の建物の上をデマン家に向かって走っていた。全速力で走っているのは急いでいるからではない。必死になることで、どうしようもなく沈む心を誤魔化したかったからだ。
昨夜、カイはエスカに呼ばれて報告を受けた。セオの母親が今、どうしているかということについて。
(ちゃんと伝えなきゃだめだよな……)
カイはデマン家の玄関先に辿り着いても、まだ二の足を踏んでいた。外套に着いた雪をいつもより丁寧に払い、深呼吸してみても、なかなか呼び鈴に手が伸びない。
そうこうしている内に向こうから扉が開いてしまった。運の悪いことに、そこにいたのはセオだった。彼は微笑み、カイを中へ迎え入れた。
「ようこそ、カイ。寒かったでしょう? 部屋に入って暖炉に当たるといいよ。すぐにお嬢様を――」
「いや、今日は……セオに用事があって」
カイは固い表情でそう言った。
「僕に?」
「うん。セオのお母さんについて、伝えることがあって来た」
「……分かった。こちらへどうぞ」
セオは意外にも冷静にカイを客間へと案内し、ソファに座らせた。側で赤々と燃える暖炉の火は暖かいが、カイの指先は冷たいままだった。
セオはカイに向かい合って腰を下ろし、じっと彼の目を見つめた。
「いい話ではないんでしょう。カイの顔を見れば分かる」
「ごめん、俺……」
表情で既に傷付けていたのだと思うと、カイはずきりと胸が痛んだ。やはりこの役目は自分でない方が良かったのではないか、と後悔が過る。
言葉が継げないでいるカイに、セオは優しくこう言った。
「謝らないで。カイは素直だもの。思っていることが全て顔に出る。だから今、悲しいと思ってくれているんだよね。僕はそれだけで十分だよ。君が知っていること、隠さずに教えてほしい」
「セオ……」
本当に彼は聖人だと思いながら、カイは膝の上でぐっと手を握り、覚悟を決めて話し出した。
「分かった。セオのお母さん、クララ・リブルさんは……二年半前に亡くなっていたんだ。キペルの南12区で」
「……そう。ランブルのお屋敷を追い出されて、すぐではなかったんだね」
セオの目に涙が溢れ、静かに頬を伝った。
「追い出されたのは三年くらい前だから。そっか。……すごく悲しい。亡くなる前に、一度でいいから会いたかった」
彼は唇を噛んで俯き、膝の上にいくつも滴を落とした。それを見ながら、カイは自分の頬を慌てて拭った。こちらも一緒に泣いている場合ではないのだ。
「辛い結果を聞かせることになって、ごめん。でも、セオ。お母さんのお腹にいた君の妹は、生きているんだ」
その言葉に、セオは泣き濡れた顔を上げた。
「妹……、本当に?」
「ああ。お母さんが亡くなった場所は乳児院なんだ。ブラウン乳児院といって、身寄りのない妊婦を子供が生まれるまで保護してくれる場所でもあるらしい。お母さんはそこで妹を産んで、その後の経過があまり良くなくて、三日後に亡くなった。そう聞いてる」
「じゃあ、妹は今もそこにいる?」
セオの目に光が射したようだった。母の死はもちろん辛いことだろうが、その妹は、彼に残された唯一の希望だ。
「うん。それを確かめに、俺はこれからブラウン乳児院に行く予定なんだけど」
「僕も行く」
食い気味にセオが言った。
「妹に会いたいし、お母さんが最期にどんなところにいたのか知りたいんだ」
デマン家の主人とレンダー、そして居合わせたフローシュに事情を話し、カイは私服に着替えたセオと共に南12区へ向かった。馬車では時間が掛かりすぎるから、少々値は張るが運び屋を使うことにした。その代金は出してくれるという、何とも太っ腹なご主人様だった。
かくして20分ほどで、二人はブラウン乳児院に到着していた。それほど大きくない二階建ての建物だが、白壁の外観は清潔感があり、病院のような雰囲気を纏っている。『ブラウン乳児院』の文字が、木製の玄関扉の上に弧を描いていた。
「……行くか」
緊張の面持ちでその文字を見上げるセオの肩を叩き、カイは呼び鈴を鳴らした。すぐに姿を現した年配の女性は、この乳児院の世話人だろうか。紺のワンピースの制服に真っ白なエプロンをして、同じく白いキャップの中に髪をしまっている。きっちりとした印象だ。
彼女はカイの制服姿を見て、あっと小さく声を上げた。
「もしかして、クララさんの件で……?」
「はい。自警団第一隊のカイ・ロートリアンと申します。こちらから手紙が届いていたと思いますが、どうでしょう?」
「ええ、ええ。お待ちしていましたよ。中へどうぞ。私はここの世話人の、エマ・シャガスと申します。そちらの方はもしかして……?」
彼女の目がセオに向く。
「僕はお母さん……クララ・リブルの、息子です。セオドリック・リブルと言います」
「まあ。なんて良く似ているのかしら……」
エマはまじまじとセオを見つめた。それから我に返ったように、二人を乳児院の中へと招いた。
玄関を入ると、真っ直ぐに伸びた廊下の左右に部屋がいくつか並んでいて、それぞれのドアは開け放たれていた。赤子の泣く声と、それをあやす世話人の優しい声が聞こえてくる。
エマに着いてそこを通り過ぎるとき、カイはちらりと中を覗いた。10台ほど並ぶ小さなベッドには月齢も様々な可愛らしい赤子が眠っているが、セオの妹くらいの子はそこにいないようだった。あのベッドは、二歳半の子供が寝るには少し窮屈だ。セオもそわそわとしているようだった。
廊下の突き当たりには階段があって、エマはそこを上がっていく。カイは建物の中をそれとなく観察していた。エスカから、ついでに乳児院の環境を監査してこいと指示を受けていたのだ。よく磨かれた木の床に、清潔なベッド、新鮮な空気と窓からの日光、そして十分な数の世話人。この乳児院はどれも過不足なく備えているようだ。セオの妹のためにも、それは喜ばしいことだった。
二人は二階の一室に案内された。客間のようだ。
「こちらでお待ち下さい。今、ちっちゃな可愛いデイジーを連れてきますからね。上着はそちらに掛けて下さいな」
デイジー、が妹の名前らしい。エマが出ていくと、セオが小さくその名を呟いていた。座って待つのももどかしく、二人は上着をラックに掛けて、そのままドアの側に立っていた。数分して、廊下が騒がしくなった。
「走ってはだめよ、デイジー! 転んでしまうでしょう」
エマの声がする。そして、ドアが開いた。開ききる前に、隙間からするりと小さな女の子が入り込んでくる。背丈はカイの半分くらいで、栗色のふわふわした巻き毛、セオに良く似て人形のように整った可愛らしい顔をしている。綺麗なクリーム色のワンピースを着て、その女の子はきょとんと二人の顔を見ていた。
「ほら、ご挨拶なさい。あなたの大切なお客様よ」
少々涙目になっているエマが優しく促すと、デイジーはたどたどしく両手でスカートを摘まみ、軽く膝を折って挨拶した。
「こんにちは。わたし、デイジー」
そう言ってカイとセオの顔をじっくり見比べた後、セオの方へ駆け寄った。セオは自然と床に膝を着いて、彼女に目線を合わせていた。
「はじめまして、デイジー。僕はセオ。君のお兄ちゃんだよ。分かるかな……」
セオが不安そうな表情になる。いくら血の繋がりがあっても、デイジーにしてみれば会ったこともない他人に違いないのだ。しかし。
「テオ」
舌足らずだが、デイジーはその名前を呼んだ。そしてセオの顔を指差し、にこりと笑ったのだ。
「テオは、お兄ちゃん。デイジーのお兄ちゃん」
「そうだよ。僕がお兄ちゃん。ずっと君に会いたかったんだ。……抱っこしてもいいかい?」
セオの目は微かに潤んでいたが、妹の手前、泣くのは何とか堪えたようだった。デイジーはぱっと顔を輝かせ、何の躊躇いもなくセオに抱き着いた。
「抱っこ、抱っこ!」
しかし、セオが背中に手を回して抱き寄せると、デイジーはぶんぶんと首を横に振るのだった。
「ちがうの、立って! 立って、抱っこなの!」
「そっかそっか。ごめんね」
その可愛らしい命令にセオは微笑み、デイジーを抱いて立ち上がった。彼があやすように軽く揺らしてやると、デイジーは腕の中できゃっきゃとはしゃぐ。その光景にカイは目頭を熱くし、エマはハンカチで目元を押さえたのだった。
「テオ、お歌、うたって」
そして小さな女王様は、また別の命令を出したのだった。
「いいよ。どんな歌?」
「デイジーのうた」
なんて難しい注文なんだとカイは思ったが、セオは軽くハミングして音を取り、歌い出した。
おやすみデイジー
泣くのをおやめ かわいい子
夜も狼もこわくない
小さな小さな白い花
いつもあなたの横にいて
歌の翼で守ってあげよう
デイジー デイジー
私のいとしい子
子守唄のように優しい旋律で、そしてまた、セオの声もバイオリンの音色のように美しいのだった。カイは聞いたことのない歌だったが、どこか懐かしい気持ちになる。デイジーはセオの肩に頭を預け、すやすやと眠っていた。
「寝ちゃったみたいだ。ふふ。子供って眠ると重たいんだね」
セオはカイを見て、照れたように笑うのだった。きっと、それは幸せな重さに違いない。エマは大きく息を吸い、涙を引っ込めてから話し出した。
「どうぞ、ソファにお掛けになってください。私はクララさんのことを話さなくては。デイジーはベッドに寝かせて来ましょうか?」
「いいえ、このままで」
セオは微笑み、デイジーを抱いたまま椅子に腰掛けた。カイもその隣に座る。エマも頷いて向かいに座り、一つ咳払いをしてから話し出した。
「では、お話しさせてもらいます。クララ・リブルさん……、ここではクララ・アーバンさんと名乗っていました。何か、身元が知れてはならない理由があったのでしょうね。私は存じ上げないのですが。
クララさんがここへいらっしゃったのは、三年ほど前の寒い季節でした。まだお腹は大きくなっていませんでしたけど、この子を守るためにもどうか、ここにいさせて下さいと頼まれまして。特段、事情を深く聞いたりもしませんでした。我々の使命は、新たな命を守ることにあります。
クララさんはここで、とてもよく働いてくれました。子供たちの世話をし、掃除や洗濯をして。お裁縫も得意でしたから、助かりましたよ。その子の服もクララさんが以前に縫っていたものです。いつか着せてあげたいと」
エマはデイジーに目を遣って、微笑んだ。
「臨月になって、クララさんはここでデイジーを産みました。そこまでは順調だったんです。その子に名前を付けて、とてもとても可愛がっていた。でも二日ほど経って急に出血が増えて、お医者様も来たけれど、助けられませんでした。誓って言います。私たちは彼女を助けようと手を尽くしたんです。そんなに可愛い子を残して逝ってしまうなんて、あまりにも……」
小さく嗚咽を漏らし、エマはハンカチで目元を拭った。保身のための演技ではなく、本心から悲しんでいるのだとカイにもセオにも分かっていた。
「大丈夫です、エマさん。母にもデイジーにもとても良くして下さったことは、この子を見れば分かりますから」
セオは慰めるようにそう言った。エマは何度か頷き、鼻を啜ってから続けた。
「クララさんはあなたのことも話していたんですよ、セオ。名前は明かせないが、大切な息子がいると。ひどい目に遭っているかもしれない、いつか自立して必ず迎えに行きたいと言っていました。……あの、今はどちらにいらっしゃるの?」
「僕は、キペルにあるジェイコブ・デマン様のお屋敷で従者をしています。ご主人様はとても親切にして下さいます。ひどい目には……前のお屋敷で。今は幸せですから、心配しないで下さい」
「そう、そうなの。とても立派に働いてらっしゃるのね。クララさんにも伝えないと。お墓、この乳児院のすぐ側にあるんです。後でご案内しますね」
エマはまた深呼吸し、話し出した。
「デイジーのことなんですが。実はその子、是非うちで育てたいというご夫婦がいらっしゃってね。とても愛情深い方たちで、以前にもこの――」
「駄目です」
セオは遮るように言って、デイジーを抱き締めた。
「この子はどこへもやらないで下さい。僕が育てます」
その発言にはカイも驚いた。きちんと仕事をしていて収入もあるとはいえ、16歳の少年がいきなり2歳児を育てていけるものなのだろうか。
しかし、セオの目は本気だった。エマはしばらく言葉を失っていたが、やがて口を開いた。
「ええ、まだ決定したわけではありませんよ、セオ。自警団から連絡を頂いて、そのご夫婦には話を保留にしてもらっています。その子はあなたにとって大切な家族ですものね。でも、現実的なことを言うと難しいのではないかしら」
エマは気遣うように言った。
「その年齢の子はとても手が掛かりますよ。やんちゃで、一日中目が離せません。放っておけば命に関わる事故も起きます。従者のお仕事はとても忙しいでしょうし、見た目も大事ですから、その子を背負って仕事をするわけにもいかない。
ご夫婦はキペルの中央5区にお住まいですから、会いたければいつでも会えますよ。その子がある程度大きくなって、手が掛からなくなってから一緒に暮らすのはどうです?」
セオは無意識にデイジーの髪を撫でながら、苦悶の表情をしていた。妹の幸せを考えるなら、エマの提案を飲むのが一番だと理解はしているのだ。それでも腕の中で眠るこの温かくて愛しい存在を、手放したくなかった。
「あの」
そこでカイが口を挟んだ。
「一度、デマンのご主人様に相談してみてもいいですか? きっと、セオがデイジーと離れなくていい方法があると思うんです」